希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕は未だに「自分の好きな仕事」「適職」が分からないという件

僕はこの歳になっても未だに「自分が好きだと思える仕事」や「適職」が分からないでいる。

今までいくつかの職種に従事し、フリーランスで仕事をしてきたが「これといった」ものに出会っていない。もしかすると、死ぬまでそれらが分からないままでいる公算が高い。

 

僕は仕事にやりがいや成長を求めるのはどうだかなぁと思っている。だから、別に自分の好きな仕事や適職が見つからなくても別条はない。

けれども、心のどこかに心血を注げるような仕事をしてみたいという願望がある。これはないものねだりかもしれない。

僕は若い頃、天職と呼べるものに出会えないことに忸怩たる思いを抱いていた。いつかは天職に巡り合えるとの淡い期待を持っていた。今はもうそんな期待は持つまいと心に決めている。

 

こんな僕でも、どうやら自分に向いていそうだと感じた仕事があるにはある。

それは専門学校や塾の講師の仕事である(塾の講師は今もしている)。

僕は元来は人前に立つこと自体は苦手である。人前で話すことも同様に苦手である。

しかし、いざ講師という立場になって、教壇に立つとすらすらと話すことができるようになる。受講生とのコミュニケーションをスムーズにとることもできる。マニュアルがなくてもそれなりの授業を成り立たせることができる。ある専門学校の講師をしているときは、生徒のアンケートではそこそこ高い評価を得ていた。

おそらく、講師という仕事に僕は適性があるのだろう。

決して好きな仕事だとは言いきれないが、そこそこ向いている仕事なのである。

 

だからと言って、講師という仕事が僕にとっての「適職」だとは言いきれない。

ことはそう単純なものではない。

講師の仕事をしていてもワクワク感みたいなものが沸き上がらないのだ。その仕事への慣れからくるものではなく、始めた当初からそうだった。

僕が講師業を始めたのは「食いつなぐため」に仕方なく、といった理由からであってどうしてもこの仕事がしたいという熱意があってのものではない。

今でも講師という仕事は「かりそめ」のものだと思っている。

 

僕が好きなことは何かと言えば、とりたてて挙げることができない。

しいて言えば、文章を書くことぐらいである。

このブログを書くこと自体は苦にならない(ネタを考えるのには多少苦労するけれども)。ネタさえ思い付けば、このブログ程度の字数であればすらすらと書くことができる。

ただし、趣味でやっている限りの話で、「文章を書くことが好き」だと言えるのである。もし、仮に文筆業を仕事にしたとしても、「好きな仕事」や「適職」「天職」になるかと言えば、そうとは言いきれない。

本当に面倒くさい奴なのである、僕という人間は。

 

僕はこれからもずっと好きな仕事や適職が分からぬまま、年老いていきそうである。

まあ、それはそれで仕方がない。

そんなものがなくても生きていける、と強がりを言いながら、人生の幕を閉じそうだ。

まあ、それでもいい。

臨終の間際に、「まあまあの人生だった」と回顧できればそれで十分である。

サラリーマン的価値観が世の中を覆ってしまったらつまらないという件

会社に雇われて勤めているという形で働いている人たちが大多数になっている。

したがって、サラリーマン的な思考様式や行動様式が半ば常識となりつつある。

それはそれで仕方がないとは思うけれども、マイノリティの僕からすればなんだか息苦しくて居心地の悪さを感じてしまう。

 

僕の独断と偏見ではあるが、僕が思うサラリーマン的価値観とは次のようなものである。

・「みんな」の一員となることで安心する。付和雷同的体質。

・短期的な利益の追求。

・自己保身の行動をとりがち。

・ポジション上位者に盲従する。

・資本主義体制、現行の社会システムへの盲信。

これらはサラリーマンとしての生存戦略としては正しい。僕にはこのような価値観を否定する資格はない。ただ、僕にこの価値観の押し付けはしないで欲しいというだけの話である。

 

サラリーマン的価値観自体は悪ではない(善であるとは言い難いけれど)。

僕が勤め人をしている頃は、当然にサラリーマン的価値観にずっぽりと浸かっていた。

世の中を見る視点も、この価値観に準じたものだった。社会的な弱者を自己責任だと切り捨てていた。競争社会を肯定していた。「落ちこぼれ」になることを、そして少数派の一員になることを極度に恐れていた。

 

僕の勝手な思い込みだったけれども、勤め人だったころの末期、このままサラリーマンを続けていたら矮小になると感じていた。なにか目に見えぬ大きなものに吸い込まれ、自我が崩壊するという感覚に襲われたのだ。

今にして思うに、この感覚は自分がサラリーマンに向かず、真っ当とされる人生を歩むことが困難な資質を有していることへのおそれの表れだったような気がする。

 

決っして正しいとは思わないけれども、僕はサラリーマン的価値観に同意することができない。

サラリーマン的価値観になじまない領域がこの世にはたくさん存在している。

(このあたりの具体例についてはこのブログで何度も言及している。例えば社会共通資本、医療、福祉、教育等の領域に市場原理を持ち込むべきではないというような話題において)

 

ありきたりな話になってしまうけれども、サラリーマン的価値観という均質化されたものが世の中を覆ってしまうと、社会のダイナミズムが失われてしまう。

雑多な人たちがいて、多様な価値観が共存する社会が活力に満ちたそれとなる。

また、そういった社会でないと僕のような人間は居場所がなくなってしまう。まあ、僕のエゴである。毛色の違った人が排除されるような社会は全然面白くない。

僕は面白く、楽しく日々を過ごしたい、それだけを望んでいる。

僕のこのちっぽけな願いが消し飛んでしまうような世の中にはなって欲しくない、ただそれだけの話である。

 

 

 

 

ニートや引きこもりは社会からの「脱落者」ではないという件〈再掲〉

ニートや引きこもりの人たちは社会から落ちこぼれた人たちだと捉えられがちである。

そんな認識ではいつまでたってもこの問題は解決しない(そもそも「問題」ととらえるのが間違っている)。劣悪な労働市場に無理やり放り込んでも元の木阿弥である。

要は「生き方」の問題なのである。

 

初出 2018/10/25

 

ニートやひきこもっている人たちの一般的なイメージは現行の社会に馴染めない脱落者や逸脱者というものだ。

確かに働くことができない、学校へ行くことができない、ということは真っ当ではないとみなされやすい。世間ではきちんと学校へ行ったり働いたりすることが「一人前の人」であることのディフォルトとなっている。

 

ニートやひきこもりに至っている人たちを救済する決定的な手立ては存在しない。なぜなら、彼ら彼女らに経済成長至上主義的イデオロギーあるいは労働至上主義的イデオロギーに基づく価値観をベースにした救済策が一向に効果がないからである。

ニートやひきこもりの人たちを学校に戻したり、労働市場に戻すことが正しい策だと思い込んでいるところが齟齬をきたしている要因となっている。

学校に休まずに通ったり、雇われて正社員として働くことが唯一の正しい生き方だと強制することはもはや正しいものではない。前世紀の遺物だともいえる。

 

ニートやひきこもりの人たちは単なる怠け者ではない。ほとんどの人たちがこのままではいけない、今の状態から脱したいと切望している。人並みに働きたいし、人並みの生活をしたいと願っている。ただ、「苦役としての労働」や「苦役としての学校生活」に恐怖心を抱き、立ちすくんでいるだけなのである。

他人との競争に勝ち続けるためにいい学校を出て、いい会社に入るというライフスタイルに忌避感を抱くことは異常なことではない。どちらかといえば、そのようなライフスタイルを疑うことなく受け入れることこそが異常なのかもしれない。

 

ニートやひきこもっている人たちに対して、前世紀の遺物的な価値観を押し付けても無駄なことである。「自立しろ」と言っても、「カネを稼げるようになれ」と言っても、「四の五の言わず働け」と言っても、「なぜそうしなければならないのか」と言い返されれば、二の句が継げなくなるのがオチである。

ニートやひきこもりの人たちに社会からの脱落者という負のレッテルを貼るだけでは何も解決しない。周囲の大人たちが異常者や脱落者というレッテル貼りをして独りよがりな安心感を得ているだけなのである。

 

もしかするとニートやひきこもっている人たちは少しだけ「先を行っている」のかもしれない。

前世紀の遺物的な価値観を克服する可能性を秘めた存在なのかもしれない。

右肩上がりの経済成長を是とする遅れた価値観から右肩下がりの社会をそろそろと下るという新しい価値観の担い手になりうる存在である。

引きこもっている彼らを共同体と繋げるためには、彼らを肯定し、既存の価値観(正社員として働くことが正しい等の)を押し付けず、負のレッテル貼りを決してしないことがそのための有効な手立てである。 

「本当に困っている人たち」だけを助けるだけでいいのかという件

一時期大阪で権勢をほしいままにしていた某氏や自民党の政治家が生活保護に関して「本当に困っている人」だけを救済すべきだとの発言を行っていたことがある。

一見もっともらしい発言ではある。

しかし、僕はこの発言に強い違和感を抱いている。

 

まず、「本当に困っている」か否かの判断基準が行政による恣意的なものになるおそれがあるということだ。確かに生活最低基準は定められているが、これをもって本当に困っているか否かの絶対的な基準にするには無理がある。実際問題として、貧困線以下の生活を余儀なくされている人たちが、生活保護の申請をしても窓口で「水際作戦」にあって生活保護の受給を拒まれるというケースが後を絶たない。

 

次に行政の恣意性により、「本当に困っている」と認められない人たちには一切の支援がなされないということにもなる。本当に困っているか否かのラインをいつでも行政はコントロールできると、時々の世論や財政状況や首長の政治姿勢等によって貧困のラインがかさ上げされてしまい、救済や支援の網からこぼれる人たちが続出することになる。

 

貧困対策の類型として、防貧的なものと救貧的なものがある。

防貧対策とは病気や失業等によって生活が困窮したときに、貧困ラインに陥らないようにするために金銭給付と職業訓練等を施し、その時期の生活保障をし、短期に元の生活レベルに戻すような施策である。

一方、救貧的な対策とは貧困ライン以下に落ちた人たちに最低限の給付を行うものである。

後者はどうしても給付が長期に及ぶことになる。障碍者や高齢者については仕方がない面もあるが、稼働年齢の人たちについては給付によるスティグマを刻み付けたり、勤労意欲が減退してしまい、今置かれている状況から抜け出せなくなる危険性がある。

 

また、別の類型として、「選別主義」と「普遍主義」というものがある。

選別主義は、救済に値するかどうかを厳しい基準で選別し受給者を限定し、普遍主義は一定の生活レベルに達していない人たちすべてに人に値する生活保障を実現するというものである(かなり大雑把な定義ではあるけれども)。

 

この国の社会保障、特に生活保障の施策は「選別主義」的でありかつ救貧的対策がメインストリームになっている。

言い換えれば、生活が二進も三進もいかなくなってようやく最低限の給付がなされるというものである。しかも煩雑な手続きと厳格な審査を経てようやっと給付を受けることができるのである。

しかも、救貧的な貧困対策は元々19世紀末から20世紀初頭に当時の先進資本主義国で採られていた施策で、底辺層の労働者以下の給付水準で事足れりとする「劣等処遇」の原則が貫かれていたものである。

現在の生活保護についても、この劣等処遇で十分だとの認識が残っている。繰り返し巻き起こる生活保護バッシングや保守系政治家の暴言(僕はこの手の政治屋は本当の保守ではないと思っている)はその証左である。

 

僕は生活保障の施策は「普遍主義」でかつ「防貧的」対策に重きを置いたものに転換する時期に来ていると思っている。

実はこれらの施策の方が長期的視点からみると、財政負担も重くはならない。

生活に困っている人たちを「本当に困っている」状況にさせないための支援や給付にするのである。

生活保障によって人としての尊厳を損なうようなことがあってはならない。

 

「時間を大切に」ではなく「時間をムダにしろ」と言いたい、という件

「時は金なり」。この俚諺は古来より金言とされてきた。

一瞬一瞬のその時を大切にせよ、という言葉はまちがいなく正しい。

一生は限られているのだから、それを無駄にするような時間の使い方をしてはならない、というのも正しい。

 

ひねくれ者の僕はみんなが皆正しいという「常識的なもの」についつい抗いたくなる。

「正しい時間の使い方」と「無駄な時間の過ごし方」の両者に明確な境界線はあるのだろうか。あくまでも主観的なものに過ぎないのではないだろうか。

 

今の世の中、時間に厳しすぎるのではないかと僕は思っている。

電車がちょっと定時に遅れただけでクレームの嵐だ。

会社に勤めれば、やたらと遅刻するなとうるさい。(そのくせ、退社時間にはルーズである)。

休みの日にどう過ごすのかと聞かれて、「家でダラダラと過ごす」と答えれば、相手から蔑みの目で見られる。

 

僕は会社勤めが苦手で嫌いでできないことをこのブログで公言している。

その理由のひとつとしては、決められた時間に決められた場所にずっと通いいなければならないことがたまらなく苦痛だからということが挙げられる。

きっちりとした時間管理に晒されることに拒否反応を示してしまうのである。これは怠け者であり、ダメ人間の典型である。

 

「時間を大切にしろ」と口酸っぱく言っている人たちの属性を見てみると、それは経営者やそれを取り巻く人たち(自称コンサルタントの類)であったり、教師であったりする。時間の使い方までを管理・統制したがるのは、「人を従える」側の人たちであることが多い。

教師にしろ経営者にしろ、生徒や労働者が好きなように時間を使いだしたら、己の利益が減ずることになる。

だから、怠惰は悪だとのイデオロギーを刷り込み、時間を好きなように使うような奴は怠惰とのレッテル貼りをするのである。

 

資本主義のシステム下では労働者は時間を奪われ、さらにそれを管理統制されている。

そのうえに輪をかけて労働者自身が、効率性や労働生産性を上げることが「成長」と思い込み、自らの手で「時間を大切に使う」術を手に入れようとしている。

時間管理に関する自己啓発書が氾濫していることからもそれは伺える。

 

確かに人生は有限であり、僕たちに残されている時間は限られている。

でも、限られた時間しか僕たちに与えられていないからこそ、「無為の時」を楽しむゆとりみたいなものが必要なのではないか、と僕は思う。

仕事に対して「時間を有効活用」してみても、サラリーマンの場合(労働者なのだから)その果実は大方会社に搾取されるだけだ。もっと端的に言えば、カネ儲けのためのみに時間の有効活用をして、果たして実りのある人生だと言い切れるのか、僕は疑問に思う。

 

ダメ人間である僕は真っ当な人たちから見れば時間を随分と無駄に費やしている。

しかし、「無駄に時間を費やす」という営為は禁断の果実のような甘美なものをもたらしてくれる。僕はそう感じている、強く。

殆どの人たちは耳を傾けてくれないかもしれないけれども、僕は「時間を無駄にしてみては」と言いたい。

僕の甘言に耳を傾けてくれる人たちがちょっとでも増えれば、幾ばくかはこの世の中での生きづらさが軽減されるような気がする。

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