「時は金なり」。この俚諺は古来より金言とされてきた。
一瞬一瞬のその時を大切にせよ、という言葉はまちがいなく正しい。
一生は限られているのだから、それを無駄にするような時間の使い方をしてはならない、というのも正しい。
ひねくれ者の僕はみんなが皆正しいという「常識的なもの」についつい抗いたくなる。
「正しい時間の使い方」と「無駄な時間の過ごし方」の両者に明確な境界線はあるのだろうか。あくまでも主観的なものに過ぎないのではないだろうか。
今の世の中、時間に厳しすぎるのではないかと僕は思っている。
電車がちょっと定時に遅れただけでクレームの嵐だ。
会社に勤めれば、やたらと遅刻するなとうるさい。(そのくせ、退社時間にはルーズである)。
休みの日にどう過ごすのかと聞かれて、「家でダラダラと過ごす」と答えれば、相手から蔑みの目で見られる。
僕は会社勤めが苦手で嫌いでできないことをこのブログで公言している。
その理由のひとつとしては、決められた時間に決められた場所にずっと通いいなければならないことがたまらなく苦痛だからということが挙げられる。
きっちりとした時間管理に晒されることに拒否反応を示してしまうのである。これは怠け者であり、ダメ人間の典型である。
「時間を大切にしろ」と口酸っぱく言っている人たちの属性を見てみると、それは経営者やそれを取り巻く人たち(自称コンサルタントの類)であったり、教師であったりする。時間の使い方までを管理・統制したがるのは、「人を従える」側の人たちであることが多い。
教師にしろ経営者にしろ、生徒や労働者が好きなように時間を使いだしたら、己の利益が減ずることになる。
だから、怠惰は悪だとのイデオロギーを刷り込み、時間を好きなように使うような奴は怠惰とのレッテル貼りをするのである。
資本主義のシステム下では労働者は時間を奪われ、さらにそれを管理統制されている。
そのうえに輪をかけて労働者自身が、効率性や労働生産性を上げることが「成長」と思い込み、自らの手で「時間を大切に使う」術を手に入れようとしている。
時間管理に関する自己啓発書が氾濫していることからもそれは伺える。
確かに人生は有限であり、僕たちに残されている時間は限られている。
でも、限られた時間しか僕たちに与えられていないからこそ、「無為の時」を楽しむゆとりみたいなものが必要なのではないか、と僕は思う。
仕事に対して「時間を有効活用」してみても、サラリーマンの場合(労働者なのだから)その果実は大方会社に搾取されるだけだ。もっと端的に言えば、カネ儲けのためのみに時間の有効活用をして、果たして実りのある人生だと言い切れるのか、僕は疑問に思う。
ダメ人間である僕は真っ当な人たちから見れば時間を随分と無駄に費やしている。
しかし、「無駄に時間を費やす」という営為は禁断の果実のような甘美なものをもたらしてくれる。僕はそう感じている、強く。
殆どの人たちは耳を傾けてくれないかもしれないけれども、僕は「時間を無駄にしてみては」と言いたい。
僕の甘言に耳を傾けてくれる人たちがちょっとでも増えれば、幾ばくかはこの世の中での生きづらさが軽減されるような気がする。