希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「根拠のない自信」を持って、毎日がハッピーになるならそれでよし

私は今までに人並みかあるいはそれ以上の数の苦境に立たされたことがあります。

それでも何とかなって生き延びてこられたのは、どんな状況になったとしても「自己肯定感」が損なわれなかったからだと思っています。。

この自己肯定感については大きなテーマなので、また別の機会に書くことにします。

 

私は欲張りなので、4年前の危機的状況を脱しつつあり安定軌道に入ったので、もう一歩先に進んで、もっと豊かで幸せな人生を望むようになりました。

 

そのための方法として思い付いたのは・・・

「根拠のない自信」を持つ、ということです。

それも揺るぎのない程度に。

 

皆さん、矢追純一さんという方を覚えていますか?

UFO番組をたくさん制作されたテレビマンで、ふた昔前まではよく放送されていました。

まあ、一般的に言えばかなり「胡散臭い」人ですよね。

 

ある日、Amazonで本を探していたら、矢追さんの著書がひっかかり、何となく面白そうなので購入したところ・・これがまた予想の何倍もの面白さでした。

自叙伝的な内容の著書で矢追さんのライフストーリーが淡々とつぶさに述べられています。

特に私のアンテナに引っかかったところは、矢追さんの生きざまのベースとなっている考え方です。

それは・・・

・根拠のない自信を持ち続け、自分自身を信じ続けること

・「大きな流れ」に逆らわないで、それに身を任せる
といったものです。

矢追さんの考え方が正しいかどうかは分かりません。

でも、私は世間的には正しくないとされる考え方でも、私が楽しく面白く生きられそうな方を選びます。

 

この「根拠のない自信を持つ」ということ、実は私にもその傾向があったのです。

この国ではあまり自信を表に出すと煙たがられたり、嫌われたりすることが多いので、ずっと隠してきましたが・・・

折角復活したのだから、私は以前よりももっともっと私らしく生きたいと思ったわけです。

そのためには今までひた隠しにしていた「根拠のない自信を持っている」ことを無理に抑えずいこうかと。

たとえ根拠がなくても自信を持った方が自分を卑下するよりも幸せになれるに違いないと思います。

自分自身を信じて肯定した方が自分を否定して生きるよりはるかに健康的だし、ハッピーになれる、とそう思いませんか?

 

ただでさえ今の世の中を見渡すと、学校教育、会社、マスコミ・・揃いも揃って私たちの自己肯定感や自信を削り続けています。

 

自分が自分らしく生き、ハッピーに生きていくための有効な戦略として「根拠のない自信を持ち続け、堂々とする」ということを私は推したいですね。

そうすれば、自分に起きるほとんどのことは「なんとかなる」と確信しています。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

あなたにすべての善きことが雪崩のごとく起きます。

 

 

エビデンスにこだわりすぎないことで善きことがあるかもしれません

ここ最近ですよね、「エビデンス」があるかどうか口やかましく言われるようになったのは。

特に「科学的根拠」あるいは「医学的根拠」には、あーだこーだ言う人が増えたような気がします。

私はテレビをほぼ観なくなって数年経つので、最近のニュースや情報番組の動向は分かりません。

私がテレビを観ていた最後の頃は、出ている人たちの多くはエビデンスがどうたらこうたら口角泡を飛ばす勢いでしたが・・・

 

確かに物事を判断するときにエビデンスを基にすることは大切です。

自分の主観や思い込みや独断・偏見で突き進んでは大方ロクな結果にはなりません。

周囲の人たちにも迷惑をかけます。

 

しかしながら・・・

あまりにもエビデンスにこだわりすぎるのはいかがなものか、と天邪鬼の私はついつい思ってしまうわけです。

エビデンスにこだわりすぎると・・・

視野が狭くなりませんか。

思い込みや偏見につながりませんか。

イデオロギーと同じような副作用を生みませんか。

・・とまあいろいろな思いが私の脳裏を過るわけです。

 

何より、自分の考えとか信念とかを私に押し付けたり強いたりするために、エビデンスを利用する(悪用ですね)人が私はどうも好きになれないのです。

というか、最も嫌う人たちです。

 

エビデンスを軽視したり無視して自分の主観や独断等に依った考えを押し通すことと、エビデンスを盲信した意見や考えを押し付けることとは、同じことです。

それにエビデンスというものは、特に科学的とか医学的エビデンスはこの世界(全宇宙と言った方がいいかもしれません)の真理のほんの一部しか解明できていない今の科学レベルに基づいたものにすぎません。

 

ここで私の個人的な体験を話します。

あくまで私個人の身に起こったことなので、あくまでこんなこともあるという感じで読んでいってください。

私は4年前までいくつもの難治性の病気を抱えていました。

担当医(数人変えましたがみな同じでした)は「絶対に治らない」と断言し、十数種類の薬を処方して私も従っていました。

詳細は省きますが、いろいろあって(突然の発作で死にかけた!)私は治療法を根本的に変えて、軽い症状は残るものの、ほぼ恢復しました。

血液検査でもオールクリアーで全く数値は異常なしとなりました。

担当した医師たちは全く悪くはありません。

あくまで医学的エビデンスに基づいた治療をしていたわけですから。

まあ、エビデンス医療なんてこの程度のものです。

でも、私はよくある現代西洋医学批判には与しません。

 

エビデンスに基づいた行動はほぼ現在の常識と同じものとなります。

ほとんどのケースでは問題はないのですが、時と場合によっては解決できない問題が生じることがあります。

その場合は「逆張り」的な策を講じると好転するかもしれないと心に留めておけばいいと思います。

 

今までエビデンス通り(言い換えれば常識的)に生きてきて、どうも幸福感を得られないとかうまくいってないとか感じているのであれば、自分が依ってきたきたそれらを根本から疑ってみると良い案が浮かぶかもしれません。

物事の判断基準を「楽しいか」「ワクワクするか」に置いてみて、行動様式やマインドセットを変えてみてはどうでしょうか。

あるいはもっとご自分の感覚や直観・直感を信じてそれに従ってみるのもいいかもしれません。

 

エビデンスに従うだけの人生なんて、何かつまらない・・・とそう思いませんか?

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

あなたにすべての善きことが雪崩のごとく起きます。

 

「自己責任」を改めて考えてみると・・・

私は以前は(「この再生編」の前のブログでも何度も言及しています)、自己責任論を振りかざす人たちが許せず嫌悪感を抱いていました。

政府や国が弱い立場の人たちを切り捨てるために都合よく言い立てているとしか思えなかったからです。

 

しかしながら、今はそのいわゆるサヨク的な考え方はどうかなぁ、と懐疑的になっています。

私は元々、イデオロギーというものを信じないと公言していました。

右だろうが左だろうが、人権思想だろうが、民主主義だろうが関係ありません。

今もその考え方は変わっていませんし、前より一層イデオロギーというものに警戒するようになりました。

 

今の私の考え方といえば・・・

自分でできることは自分でする、他者に頼りきりにならない、依存しない・・とこれが自助の精神ですが、ごくごくまっとうな考え方だと思います。

穏健でまともな「保守」であると自認している私なのですが、別にイデオロギーに関係なく「人として当然のふるまい方」だと思っています。

ただし、自分の考えやイデオロギーを他人に押し付けるという行為は最も品のないものだと私は考えています。

 

「自分の蒔いた種は、自分自身で刈り取ることになる」

「天は自ら助くる者を助く」

古から語り継がれているこれら言葉の根底に流れているスピリットを失っては人は人でなくなると思います。

 

確かに自助努力ができる状況にない人たちが多くいることは事実です。

そんな困っている人たちに「自分で何とかせい」と自助を強いるのはもってのほかです。

しかし、他方で過剰な援助、自立心を損なうような支援も同罪です。

 

一部に「自分に起こっている問題の全部(あるいは大部分)は社会や国が悪い。あなたは悪くない。」という言説が広まったことがあります。

今はどうなんでしょうか?

これはこれで極端なもの言いですね。

私は社会が抱えている問題やシステムの欠陥等は腐るほどあると思っています。

でも、ある人が抱えている問題を全部自分以外のものせいにするのはどうでしょうか。

それに正しいか悪いかで物事をすべて判断する態度は様々な軋轢を生み出します。

 

要は今ある現実や世界に対する「気構え」をどうするかの話だと私はとらえています。

つまり、自分に起きた出来事をすべて自分の責任と引き受け、覚悟を定めるとどんな状況下でも道は開けるという思いを持ち続けるということです。

「自立して」「自律的」に生きるということをデフォルトにするのです。

この気構えがあれば、厳しい状況になって公助や共助に一時的に頼っても、その人の尊厳は冒されることはありません。

 

不幸やトラブルを「大きなもの(国家・社会等)」のせいによって起きていると考え、自分は悪くない、あるいはどうにもならない、としてしまえば本当にその状況はどうにもなりません。

自己責任で、自分の力で状況は善きように変えられる、と考えた方が力が湧いてくると私は思うのですが・・・

皆さんはどのように思われますか?

 

 

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あなたにすべての善きことが雪崩のごとく起きます。

 

 

 

 

お金に対する不安について考えてみると・・前回の続き

前回のエントリーでは借金で行き詰っても自己破産という手もある、と書きました。

様々なご意見・ご批判もあるでしょうが、要はたかが借金を返せなかった程度のことで人生を捨てることなんてないし、堂々と生きていけばいいと言いたかったのです。

 

そして、今回はその先というか、自己破産しても生活再建が自力では難しいときにはどうすればいいか、について私なりの考えを書いてみます。

 

具体的には自己破産をしたかどうかに関わらず(多額の借金の有無に関わらずですね)、現在は収入の手段がなくなってしまい、貯金や資産もないという場合です。

 

病気で働けない、失業して次の仕事が見つからない等々、人生には色んなことが起きます。

ときには手元にお金が無くなって、収入の見込みも皆無となるなんてことは誰にでも起こりうることです。

 

こんな時、誰か頼れる人がいれば、恥も外聞もかなぐり捨てて頼るに限ります。

この受けた恩を決して忘れず、生活が落ち着いた時に何らかの形で恩返しをすることを忘れなければ、関係が壊れることはありません。

 

どうしても、身近に頼れる人がいない、あるいはどうしても他人に知られたくないというときは、最終手段として「生活保護」を申請するしかありません。

生活保護については、自己破産と同様に世間では多くの誤解・都市伝説の類が広がったままです。

生活保護制度については色々と欠陥があるのは確かですが、ここではそれについては触れません。

制度や政治の欠陥をあげつらっても、目の前の困った人たちは助けられませんからね。

 

実際に生活保護の手続きの仕方、受給の仕方についてはネットや書籍等で有益な情報が載っていますのでそちらを参考にしてください。

 

私は私なりにどのような心構えで生活保護を受けたらいいかについて考えます。

 

それは・・・

まず第一に、生活保護を受けられることに「感謝」することです。

制度を備えた日本という国に、財源となる税金を納めている人たちに、相談に乗ってくれたり手続きを助けてくれたりした人たちにです。

次に生活保護を受けている自分を卑下しないことです。

たまたま今は巡り合わせが悪かっただけなのです。

さらに次は生活保護を受けるのが「さも当然」として全く有難みを感じなかったり、不平不満を並べ立てたりすることはしないことです。

要は、感謝の気持ちを常に抱きつつ、堂々として、それで生活の再建を図ればいいのです。

 

生活保護制度の最大の問題点は、「受給者の尊厳を損ねる」ことだと私は考えています。

ならば、生活保護を受けている人が「自己発信」「自分の意志」で地域の役に立つような仕事をボランティアでするような制度の建付けにしてみてはどうかと。

これはあくまで受給者ができる範囲のことです。

ボランティアをすることによって地域や人の役に立つことを実感して、人としての尊厳を保つのです。

交通費や小遣い程度の「お駄賃」があってもいいですね。

以前からボランティアを生活保護受給者に義務付けようという議論が出ては消えています。

これとは全く次元の違う話です。

ボランティアを「強制」するなんて愚の骨頂です。

こんなことを平気で言いだす輩は、人の尊厳に思い至らない哀れな人たちなんですね。

 

2回にわたって自己破産、生活保護という人生に行き詰ったケースをどうとらえるか、について書いてきました。

 

私の言いたいことは・・・

「大丈夫、なんとかなる」です。

何とかの一つ覚えですが、希望を捨てないこと、これに尽きます。

 

 

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お金に対する不安について考えてみると・・実は大したことじゃないかも・・

私たちは常に不安を抱いて暮らしています。

これは人類が生き延びるためにプレ・インストールされたものだから仕方がないという見方があります。

現代社会では常にさらなる不安を煽られ続けています。

 

不安について語ると話が大きくなりすぎて散漫になりますので、このエントリーではお金に絞って書いていきます。

 

日常生活を営む上での不安の中で、大きな割合を占めるのがお金の問題です。

「お金がすべてではない」「お金でほとんどの問題は解決できる」と色々な考え方はありますが、現代社会で生きていくうえでお金は大切なものに違いないと思います。

 

私たちは「普通」の状況のとき、つまり働いていたり年金があったり、あるいはそこそこ資産があって使えるお金が十分にあるときには不安は表に出てきません。

ところが、突発的なアクシデントに遭って手持ちのお金が無くなったり減ったりしたら即座に隠れていた不安が顕在化します。

 

特に借金なんかが嵩んだりしたものなら、慣れていない人は夜もおちおち眠れなくなります(まあ借金に慣れっこになるのもいかがなものかとも思いますが)

 

それなりの人生経験を経ての私がお伝えしたいことは・・

「大丈夫、なんとかなる」です。

これは魔法の言葉ですよ。

究極の肯定的な言葉です。

私のブログに通底するテーマでもあります。

 

よくよく考えてみてください。

たかだか借金が返せなくなっただけの話です。

犯罪ではありません。

人倫に悖る行為でもありません。

特に金融機関の借金ならば、単なる経済行為・取引(金銭消費貸借契約といいます)にすぎません。

 

借金が返せなくなったときの最悪のケースと巷で言われているのは「自己破産」です。

今はだいぶマシになりましたが、自己破産には色々な誤解があります。

私の友人や知人に自己破産経験者は結構いるのですが・・・

おしなべて皆さん立ち直って機嫌よく暮らしています。

自己破産しても他人に知られることもありませんし、日常生活にほとんど影響はありません。せいぜい一定期間(5年~10年)ローンが組めなくなったりクレジットの審査が通らなかったりする程度のものです。

 

・・誤解をしないでくださいね。

私は自己破産を勧めているわけではございません。

「借金は死んでも返すもの」と洗脳されたとしか言いようのない思い込みに囚われて、たかが借金ごときであなたの人生を台無しにしてほしくないのです。

 

よくマスメディアで「多額の借金を完済した、えらい!」といた類の情報や番組が流されますが、そんなものに惑わされないでください。

こんなもの大口のスポンサーである金貸し・・いや金融機関におもねったものにすぎません。

また、有名人や著名人は自己破産をはじめとする法的整理をしてそれがバレたらイメージダウンとなって仕事がなくなるおそれがあるんです。

世間ではまだまだ自己破産をした人たちに対するネガティブな感情を持っているのでやむを得ないことなんです。

でも、普通の人たちは自己破産したことは他人にはバレないし、普段通りの生活を続けられます。

 

自己破産によって、借金がゼロになったことを喜び、肩の荷を下ろしてください。

そしてこの借金帳消しの制度があることに感謝をし、生活を立て直してください。

人生には色々なことが起こります。

借金で首が回らなくなる経験、自己破産の経験をあなたの「学び」にすればいいのです。

ほら、このように考えればお金の不安なんて大したことがありません。

他にも様々な事情で、にっちもさっちもいかなくなった場合には「生活保護を受ける」という最終手段もあります。
こちらについては後日改めて書いていく予定にしています。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

あなたにすべての善きことが雪崩のごとく起きます。

 

 

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