希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

いつの間にか余計なプライドがなくなってきたという件

僕は元々プライドが高い人間だった。

そのせいで人間関係において軋轢を生んだりしてきた苦い思い出がある。

若い頃は「俺はこんな程度の人間じゃない」「俺はもっと高みにいけるはずだ」との思いがあり、それが僕を縛り付けていた。

 

人が生きていくうえで矜持やプライドは絶対に必要である。

しかし、「余計なプライド」、いいかえれば見栄や虚栄心を伴ったプライドは不要なものだ。

余計なプライドを持つことにより、他人を見下したりする。

どんな仕事をしているかやどれほどの年収を得ているかによって相手を値踏みし、勝手に格付けをしたりする。こんなに愚かな行為はない。

また、相手から高く値踏みされようとして、世間で高いとされる属性を身に着けようとあくせくするのである。こんな不毛なことはない。

 

僕が新卒就活をしていたとき、自分が何をしたいか、どんなことを成し遂げたいかということを考えず、いかに世間から高く評価されるかのみを重視していたと今となっては思う。それは僕のしょうもないプライドを満たすためのものだった。

その後、公務員を辞めて、次の仕事を選択する際も、僕のつまらない虚栄心を満たせるような職種をピックアップして、それらの中から自分ができそうなものを選ぶというプロセスを踏んだものだった。

そこにはいかに楽しく面白く人生をやりすごすかという視点が全く欠けていた。

 

今の僕には100%とまでは言いきれないけれども、余計なプライドはない。

真っ当な生き方のレールから零れ落ち、ダメ人間と化している僕なのでプライドもへったくれもないものではあるけれども。

 

世間からの評価や格付けが低くなれば、色々と不都合なこともある。クレジットカードの審査に通らないとか賃貸住宅に入居しづらいとかそんなところだ。

同窓会で肩身の狭い思いもしたりするかもしれない(もっとも僕は同窓会には出ないが)。

 

余計なプライドをかなぐり捨てると、目線が下がり弱きものに対して優しくなれる。

この社会のありようが違って見えてくる。あるいはこの社会が抱えているひずみがはっきりと見えてくる。

そしてこのろくでもない社会に対して心の奥底では抗いつつ表面上はすいすいと渡り歩くという生き方を抵抗なく選ぶことができる。

 

人としての矜持は持ちつつ、余計なプライドは持たないという生き方を僕は続けていきたい。

面白おかしく残りの人生をやりすごすために。

ダメ人間の僕が採りうる有効な生存戦略だと確信している。

 

「優秀な学生がいない」という物言いは会社の驕りであるという件〈再掲〉

いつの時代も「近頃の若者はなっていない」という若者バッシングが巻き起こる。

これらにはまともな根拠はなく、単なる印象論でしかない。

若者たちをスケープゴートにして留飲をさげる取り残されたオヤジ連中がいるだけである。

 

ここ数年、新卒者の就職活動に関する報道でよく見聞きするのは人事担当者の「優秀な学生がいない」「優秀な学生がわが社に来ない」というコメントである。

僕はこの言い草に強い違和感を覚える。

 

まず、「優秀な学生」を決める判断基準がおのおのの会社が決めるローカルなものに過ぎないということだ。あくまで相対的なもの仮初のものに過ぎないのである。

会社の論理とは、社員というものは会社の利益を生むためのみに働き、組織のきまりごとに従順に従い、組織の和を乱さないというローカルルールに則ったものであるべきというものだ。

目先の利益に捉われ、近視眼的な評価基準しか持たない会社や人事の目に適う人物がこじんまりとしたものになるのは自明の理である。

 

また、ある人が本当に優秀か否かという判断は、学卒年齢の22,3歳の時点でできるものではない。できるとすれば、潜在能力がどれほどあるかということを予想するだけである。この予想はそうそうは当たらない。人はそれほど単純なものではない。

人それぞれの持つ器量や資質はある程度の年齢にならなければ推し量れないものである。

それに大きな器量を持つ人が会社の枠を超えてしまうことが往々にしてある。実際に器の大きい人は会社のせせこましい度量衡にはなじまないものなのである。

 

それともうひとつ、「優秀な学生」が来ない会社にはそういった人物を引き付ける魅力に欠けているのだ。そういった魅力に乏しい会社は自身のことは棚に上げて、すべての責を学生に負わせることによって、人事担当者の保身・責任逃れをしているのである。

このような会社は業種や規模の大小は関係ない。誰もが知る大企業・有名企業にも魅力に欠ける会社は存在する。

 

ここで、優秀な学生とはどのような人物のことなのか。

この定義はなかなかに難しい。

昨今の風潮では、「グローバル人材」と言われる人のことを指すのだろう。

しかし、このグローバル人材の内実は、会社の利益を出すことに長けていて、会社の命令となれば世界中どこへでも赴き、根無し草になることも厭わないという人のことである。よくよく考えればこれらの条件を満たせば、取り換え可能な労働者を意味することになる。これで本当に優秀な人物だといえるのか、僕は疑問に思う。

優秀な学生(人物)とは取り替え不可能な何かの資質を持っていることだと思う。

社会を少しでもより良いものに変えようとする意志を持ち、大勢に流されず我が道を行く気概を有し、私利私欲に走らない人物が本当の優秀な人だと思う。あくまで私見ではあるけれども。

このような優秀な学生・人物がひとつの会社の枠に入るわけがない、とちょっと考えれば分かる話である。

 

会社が、人事担当者が「優秀な学生がいない」「優秀な学生が来ない」という言葉を吐くことは、大いなる思い違いであり、驕りである。

優秀な学生なんてあちこちにいる。

そんな優秀な彼ら彼女らが、ただ単にしょーもない会社は無視している、というただそれだけのことである。

僕はそんな学生が増えることを密かに望んでいる。

 

 

 

「不安定」は本当に悪いことなのかという件

多くの人たちは幼少時から「安定した」仕事に就いて「安定した」生活を営むことが絶対的な善だと刷り込まれてきている。

「安定神話」の呪縛に囚われているのである。

そのための前提として安定は善で不安定なことは悪だとの思い込みがある。

不安定という用語を使用するとき、大抵はネガティブな意味合いを含んでいる。

 

例えば非正規雇用の問題点としては不安定な雇用状態が取りざたされる。

確かにそうではある。

しかし、報酬単価が高ければ、不安定雇用はそう問題とはならない。他の先進諸国では非正規雇用の労働者の方が単価が高いと言われている。

場合によっては「不安定」なことは問題とはならないのである。

 

僕は安定なんて幻想に過ぎないと思っている。

この世の中のすべてのものの成り立ち方の根源的な在り方は「不安定」なものだととらえている。

「万物は流転する」のである。

 

今の世の中で生きていると、安定していても不安定なままであっても、漠然と抱く不安感のようなものは大差ないような気がする。

この不安感がなかなか払拭されないがゆえに、心の平穏を求めてより安定を求めている、といった方が正しいのかもしれない。

仮初の安定を得ることによって仮初の安心感を得ているのである。

新卒者が自分の仕事の選択基準として「安定」を挙げ、大企業や公務員を志望する者が多いのも首肯できる。

 

安定をディフォルトとするか不安定をディフォルトとするか、いずれの方がより生存戦略として優れているか。一概には言えないかもしれないけれども、僕は不安定をディフォルトとした方がより適切な生存戦略を採ることができると思う。

人はその人生の中で幾度も予期せぬことに遭遇する。ちょっとしたきっかけで進む道が大きく分かれることがある。順風満帆にずっと進むなんてことはあり得ない。

自分の足元は実は古びた吊り橋にあってちょっとしたはずみで踏み外してしまう代物だと観念しておいた方が、リカバリーしやすくなる。

 

不安定なことは悪いことでもなく、改善すべきことでもない。

それが常態なのである。

そう捉えておかないと、有効な生存戦略は採れなくなる。

 

安定が絶対的な善であり、安定を求めることが正しいとされる価値基準に満たされた社会はどこか息苦しいし、何より面白くない。

先のことは分からない、何が起こるか分からない、という状況が続き、何かが起こるたびに自分が持つものを総動員してやり過ごす、という方が楽しくてワクワクする。

生きているという実感が湧いてくる。

これらの感覚は偏っているものだろうか。正しくないものなのだろうか。

あるいはダメ人間であり、真っ当な生き方を放棄した僕ならではの開き直り、居直りなのだろうか。

 

僕はやはり安定は望まない。

そのための覚悟はできている(つもりである。僕はそんなに強くない)。

不安定さの中でひらりひらりとこの世の中を渡り歩くために、今悪知恵を働かせているところである。

 

 

道草を食ったり、寄り道をすることは楽しいという件〈再掲〉

目的地に向かって脇目もふらずに突き進む、という態度が推奨されている。社会に出ても学校教育の場においても。

効率性重視のこの考え方を僕は好まない。

 

初出2019/3/13

 

僕が小学生あるいは中学生のころ、学校からの帰路に道草を食うことがその頃の楽しみだった。友達と連れ立って通常の帰り道から外れたり、駄菓子屋や本屋に寄ったりすることがささやかな楽しみだったのだ。友だちと道草を食う行為の共犯関係になることでより親密になることができたのである。

今の子供たちはこの道草の楽しみを味わっているのだろうか。

通学路に見守りのボランティアの人たちが立っていたり、集団登下校するところが多くなっている昨今の状況を鑑みると、どうやら道草をする余地が狭まっているようだ。

 

社会に出て、働き始めると道草を食ったり寄り道することを自由にできるようになる。

しかしながら、その頃には道草を食うことによって生まれる背徳感のような感覚が薄れてしまい、楽しさが半減してしまうのである。

それが「大人」になるということなのかもしれない。

 

人生においても道草や寄り道は必要なものなのではないか、と僕は思う。

確かにレールから外れずに順風満帆に人生を渡っていくのも悪くはない。

僕もできれば寄り道をしないでまっすぐに歩いていたかった。

寄り道をすることで違った風景が見えてくる、と強がりは言ってみるもののロスを生じてしまい、まわり道をしてしまったことは疑いようのない事実である。

 

でも、あえて強がりを言いたい。

寄り道や道草を食うことによって、得られたものは少なくない。

画一的な度量衡で人を判断してはならないということを知った。

世の中には本当に様々な生き方をしている人たちがいて、それらの人たちは自分なりに懸命に生き、生活を営んでいることを知ることができた。

そして、「正しい」生き方なんて実はないんだということを知ることができたのがなにより大きい。

 

世の中には弱い立場に立たされている人たちが数多いる。

そういった人たちはすべてが自身の責任ではなく、多くの部分は社会システムの欠陥や歪により生み出されているということを知った。

また、多数派に属する人たちの発する考えが常に正しいわけではないということも知ることができた。

マイノリティの側に身を置いて生きていくことも悪くはないという思いに至った。

 

僕はレールから外れて、さんざん寄り道をしてきた。

まわり道をしすぎて、目の前には路地のような道ばかりがある。

その入り組んだ「路地」に足を踏み入れることが楽しみとなっている。

どんな風景が僕を待ち受けているのか。

それを思うだけでワクワクして面白い。

 

 

  

 

 

半分遁世、半分俗世という生き方をしたい件

僕はひそかに「隠棲」に憧れている。

吉田兼好西行のような生き方に憧れている。

この俗世を捨てて、栄達や出世に背を向けつつも世間をシビアに見つめ続けている。

達観しているようで時には俗物性を出す。俗世から離れていても何らかの形で人々と関わり合いを持ち続ける。

そんな生き方がしてみたいと夢想する。

 

別に僕はこの世を儚んでいるわけではない。

世の中や人々に絶望しているわけでもない。いやむしろ希望を捨ててはいない。

完全に娑婆から抜け出す勇気がないから、自分の都合の良い程度に娑婆と距離を取って、娑婆で生きていきたい。

 

僕はエゴイストなのかもしれない。

あるいは社会不適合者かもしれないのに、それを認めることが嫌で何だかんだと理屈をつけて世間にしがみついていたいだけなのかもしれない。

ほんの片隅でもいいから世間に自分の身の置き所を確保して置きたいというエゴを捨てきれない。

 

僕は自分に対する肯定感を強く持っている。

確かに役立たずかもしれないが、僕の居場所が世間のどこかにあるはずだとの確信を持っている。

僕は生きていてもいい存在だと思っている。

しかし、世間の煩わしいしがらみからは抜け出したい、自由に生きたいと強く願っている。

他者や世間から認められなくてもいい。いや、これは言い過ぎだ。僕が好きな人たちからだけは認められたい。世間はどうでもいい。

自分の好きなように生きて、ひとりこの世から去っていきたい。

この僕のささやかな願いは単なるエゴなのだろうか。

 

このような僕の願望を口に出すと、大抵は「逃げているだけ」だとか「甘えているだけ」といった類のありがたい助言をもらうことになる。

多くの人たちは「あるべき生き方」が存在すると思い込んでいて、それらから外れた生き方や価値観を排除する。

誰でも自分の好きなように生きていけばいいはずなのに、自分で自分の首を絞めている。世間が許してくれないと思い込んでいる。

「あるべき生き方」なんて存在しない。それがあるはずだとの幻想に捉われているだけだ。

国家や会社に尽くす生き方が善とされる社会が狂っているのだ。ありもしないモノを必死に掴もうとしている出来の悪いコントみたいなものである。

 

僕は半分だけ遁世したい。

世間のしがらみから自由になるのはなかなかに困難なことは分かっているけれども、これからもずっとしがらみから抜け出すようにもがき続けたい。