希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

なぜ会社での仕事がつまらなく感じるのかという件

以前のエントリーでつまらない仕事でもそれを続けていれば役に立つこともあるという趣旨のことを書いた。

それは僕の実体験からのものである。

勤め人の時に、いやいやしていた仕事が後々に自分を助けることになった。なんだかんだあっても食つなぐことができたのは確かである。

 

しかしながらである。やはり会社に勤めての仕事はつまらない、と今でも思う。

僕の場合は強く望んで就いた仕事ではない、という事情もあるだろう。元々が勤労意欲が低いということもあるだろう。さらにはサラリーマンには決定的に向いていないという要因もあるだろう。

でもやはり、勤め人としてなす仕事はつまらないものだ、と思えて仕方がない。

もちろん、異論のある人も多いはずである。私は毎日仕事をするのが楽しいと思っている人たちも少なからず存在する。そういった人たちは幸運なのである。とりたてて僕が言うべきことはない。

 

なぜ、会社での仕事がこうもつまらなく感じられるのか。

世間をあっと言わせるような創見を僕は持っているわけではない。

ただ、ありきたりな意見をもっているだけである。

それは会社での仕事には常に「やらされ感」がつきまとうからというものである。

たとえ自分が強く望んで就いた仕事であっても、「労働者」である限り「やらされ感」を抱いて仕事を遂行することになる。

しかも労働者であれば働いた分の利益が直接的に給料に反映されるわけではない(利益の大部分は会社に搾取される構造になっている)。

労働者という「身分」に身を置いている限り、それは逃れられない宿命なのである。

 

ならば、労働者から脱してフリーランスになれば仕事が面白くなるのだろうか。

残念ながら一概にはそうとは言い切れない現実がある。

クライエントとの力関係に左右されるが、弱い立場で仕事を受注すれば、下手をすれば労働者よりもさらに仕事がつまらなくなるおそれがある。

逆に裁量度の高い仕事であれば仕事は面白くなる。これも僕の実体験からそう言える。

 

フリーランスになるには抵抗があって、サラリーマンのままでいたいという場合に、つまらない仕事にどう向き合うか。

出世して役員や社長になってより裁量権や決定権を手に入れる日を夢見て我慢を続けるというのも手である。しかし、これは先の見えない茫洋とした目標に向かうということであって現実的ではない。こんな我慢を続けられるということは、とりもなおさずサラリーマンに向いているということである。同時に心の底から仕事がつまらないとは感じていないことでもある。

僕はつまらない仕事を無理やりにやりがいを求めたり成長を求めたりしないことから始めるのも有効な手立てだと思う。仕事はつまらないものだと割り切るのだ。

そして、後々もしも転職したりフリーランスになったりしたときに、少しはこのつまらない仕事によって得たものが役に立つはずだと思い込むようにする。この思い込みはあながち根拠のないものではない。僕の実体験からも言えることだし、起業家の多くは起業前に経験した仕事が起業した後に役に立っていると答えている。

 

なんだかありきたりな論になってしまったが、今の僕にはこれ以上の答えを出す引き出しがない。

人の営為に全く無意味なものなどないと信じた者が果実を得られる、という古来からの箴言を黙って受け入れるのもなかなかに有効な手立ててある。

 

 

敷かれたレールから外れても、何とか生きていけるという件〈再掲〉

きちんと高校や大学を卒業して、新卒で会社に就職して、家庭を築いて・・といったライフコースから外れても人は生きていける。

「正しい生き方」なんてこの世には存在しない、と考えた方が生き方の選択肢も増えて、生きづらさが軽減される。

 

初出 2018/10/4

 

僕たちは大抵は幼少時から「真っ当に」生きろという刷り込みがなされている。

きちんと学校に通い、いいとされる高校や大学に入り、一流とされる会社に就職することが良い生き方だとされていた。

敷かれたレールに乗って生きていくことが善とされていたのである。

 

一旦レールに乗るとそこから外れることに恐怖心を抱くことになる。

自分に合わない学校や会社から脱することが困難になる。

レールから外れてしまうと、悲惨な状況に陥ってしまうと思い込んでしまうのである。

確かにレールに乗り続けて、環境に順応していれば一見真っ当な生き方をしているように思える。世間から後ろ指を指されることもない。

しかしながら、レールの上から見える景色は限られた世界のものであることに思い至ることはない。

 

僕は就職するまでは何とか敷かれたレールの上を走り続けた。一度は不登校になって、レールから外れかけたがどうにか持ち直して、レールに戻って走り続けた。

けれども、雇われて働くことがどうにも苦痛になり、一旦レールから外れることを余儀なくされた。その時、正直不安や恐怖心で一杯だった。当時はまだ「真っ当に生きる」ということを狭くとらえていて、労働至上主義的イデオロギーに捉われていたのである。

 

実際に敷かれたレールから外れてみると、案外何とかなるものだった。

レールの外から見える風景も面白く興味深いものが多々あった。

単なる取り越し苦労だったのである。

世の中のほとんどのことは「何とかなる」ものである。

楽観的に過ぎるものの見方かもしれないが、悲観的になるよりはましである。

たとえお先真っ暗だと思えるような状況になっても、一筋の光は差し込んでくるものである。

 

レールから外れるようになるな、という他者からの助言は話半分で聞いておいた方が良い。そういうことを言う人は自分がレールから外れたことがない人であり、想像力を欠いた人であるからである。偏った狭量な価値観を持った人であるともいえる。

敷かれたレールの上からのみ見えるものが全世界だという思い込みを持った人の言葉に聞くべきものはない。

 

よくよく考えてみれば、人の生きざまに絶対的に正しいものなんてないのである。

レールから外れるかどうかなんて些末なものに過ぎない。

いかに自分にとって面白いか、楽しいか、ワクワクするかが大事なのである。

敷かれたレールから外れることによって、思いがけない出会いがあったり、面白いことに出会ったりすることを忘れてはならない。

レールから外れたらえらいことになる、という根拠のない不安や恐怖心こそが自分を縛る最大の障壁なのである。

今から思うと、僕はダメダメサラリーマンだったという件

僕は自他ともに認めるダメ人間である。

ビンボーヒマあり状態にどっぷりと浸かっているダメ人間である。

そんな僕ではあるけれども、若い頃はバリバリと働くサラリーマンだった・・・ということはない。

思い返せば、典型的なダメサラリーマンだった。

 

最初の勤務先である市役所でも、そこを辞めて以降に正社員として勤めた専門学校や福祉施設でも、自分の職務はそつなくこなせてはいたが、メンタリティというかサラリーマンとしての心構えが全くなっていなかったように思う。

なにしろ、どこの職場でもそこに長くいることがたまらなく苦痛であった。残業なんて苦行そのものだった。上司や同僚との仕事以外のつきあいもしたくはなかった。元々酒が飲めないということもあったが、退勤後にちょっと一杯なんて考えられないことだった。

 

サラリーマンの最大の関心事といえば人事である。僕はそれにも全く興味を示さなかった。誰某が昇進したとか、どの部署に異動になったとか、左遷されたとかは僕にとってはどうでもいいことだった。さすがに僕自身がどの職場に配属されるかは気になったが、元々勤労意欲が薄く、定年まで勤める気がなかったのだから、どこか他人事のようだった。

 

僕がサラリーマンをしていた頃、次の休みが早く来ないかということばかりに気がいっていた。出勤したばかりなのに、早く家に帰りたいということばかり考えていた。

時々、どうしても出社したくない日はズル休みをした。この時ほど有給休暇という労働者の権利をありがたく思ったことはない。

こんな奴にサラリーマンが務まるはずはない。だから、早々にサラリーマン生活に見切りをつけて、フリーランスの道を選んだのだ。

 

フリーランスとして仕事をしていたときは、しんどいことも多々あったけれども、なかなかに楽しかった。バカな上司と付き合う必要はない。気の合わない同僚と付き合わなくて済む。時には厄介なクライアントがいたが、そういう人たちとは仕事をしないという選択もできた(当然に報酬が入らないことになるが、我慢して仕事をするよりましである)。

どうやら、僕はフリーランスとしての働き方が性に合っていたようだ。尤も、カネ儲けの才能が決定的に欠如していることが問題だけれども。

 

僕は自分がダメサラリーマンだったことをこれっぽっちも卑下していない。

たかだか勤め人に向いていたかどうかの話である。人としての価値を毀損するものではない、と思っている。

いやむしろ、ダメサラリーマンだったことを自らの存在価値とみなしていこうとさえ思っている。自己肯定感を損なうことはない。

 

さて、残りの人生、どうやってしのいでいこうか。

なかなかに厄介な問題が目の前に横たわっている。

まあ、何とかなるさ。

 

経営者はサラリーマンよりも一枚も二枚も上手であるという件

経営者とサラリーマンの違いとは何か。

色々とあるけれども、一言で言ってしまえば「人を使う」か「人に使われているか」の違いである。言挙げすればシンプルなものであるが、両者の間に存在する溝や壁は大きい。

 

自己啓発系の著書や記事等でサラリーマンの働き方や労働観に関して言及されるとき、そのほとんどは経営者目線でなされている。

働きがいややりがいを持つこと、自己実現のために働く、成長のために働くべきといった類の物言いは実は経営者目線から発せられている。いかに機嫌よく労働者を働かせて、搾取量の極大化を図るか、といった視線で語られている。

 

いかにサラリーマン諸氏に気持ちよく働いてもらうかという問題は経営者にとって死活問題である。

経営者が一方的に社員を統制し支配する(命令に絶対服従するとか規則でガチガチに縛り付ける等)という形の人事労務管理では立ち行かない。社員を無理やり「働かせる」形のコントロールでは会社は利益が上がらないし発展もしない。

ではどうするか。

社員が「自発的」にモチベーションを高めて、労働の意味づけを行って、自分の意志で働くように仕向けるのである。働かされているのではなく、自らすすんで働いているというように持っていくのだ。

そのためにサラリーマン各自の仕事には意味があって、その仕事をすることによって成長するし、報酬のために仕事をするのではなく自己実現ややりがいのために仕事をするのだと錯覚させるのである。言い換えれば「自発性の強制」である。サラリーマンの側から見れば、「強制された自発性」の下で働くのである。

 

経営者からの社員に対する労働意欲喚起の働きかけは、不断に行われる。この働きかけができない経営者ははっきり言って経営者に不向きである。会社の規模や業態、業種は関係ない。

僕がかつて社労士事務所を営んでいた時、相談の多くは社員のモチベーションに関する事柄であった。特に中小零細企業においてはひとりでもモチベーションの低い社員がいると、即業績に響くことになる。社員のモチベーションを上げるためには、外的動機付け(報酬を上げたり、休みを増やしたりする雇用条件の向上)では限界がある。どうしても内発的動機付けが必要となる。そのために宗教的なものに走ったり、有名経営者に傾倒したりする経営者が多いのである。

 

世のサラリーマンはこのように常に経営者からの「内発的自発性」を喚起する働きかけにさらされていることに気付くべきである。自らすすんで働いているつもりでも実は「働かされている」のである。

ブラック企業と呼ばれている会社がこの世から消えてなくならないのは、そのブラック企業で働いている社員の多くが「楽しんで」「自らすすんで」働いていると錯覚しているからである。ブラック企業の経営者は心理学を悪用して、劣悪な労働条件でも喜んで働くように社員を洗脳しているのである。

世の多くの経営者たちはブラック企業の経営者と似たり寄ったりのことをしていると考えてもよい。

 

会社に雇われて働くときには、経営者の隠された意図を推し量っていく態度が必要である。

自らすすんで働くような内発的動機付けは、自分だけの意志を以てなさなければならない。言うは易しだが、実はこれが難しい。

あるいは心を白紙にして、経営者からの働きかけに素直に応じて、それを信じて成長や自己実現に邁進するのも手かもしれない(僕は絶対に嫌だけれども)。

経営者は常にサラリーマンよりも上手であり、常に一歩先を行っているという認識を持って働かないと、先は見えている。

世間の標準からズレた生き方をすれば楽しいかもしれないという件

この社会は「みんな」と同じ行動をとれという同調圧力が強い。また幼少時から協調性を獲得することが重んじられる。

そしてさらには「世間」という厄介なものもある。

世間の目というものを強く意識しないと(時には無意識的に)いけない。

 

僕たちは知らず知らずのうちに世間の評価にさらされながら、それを内面化しながら生き方を決められている。

僕の若い頃(大学を卒業する頃)は新卒で企業に雇われて働くことが当然とされていた。その頃に「フリーター」という言葉が生まれたが、それはあくまで緊急避難的な性質のものであって、ずっとフリーターを続けることは推奨されていなかった。

雇われて働くことを忌避して、起業するとかフリーランスになるなんてあくまでレアケースであった。

いわば、「真っ当な社会人」とはどこかの会社に勤める正社員のことを指していたのである。

 

僕が若くして公務員を辞めた時、周囲の大半の人たちは僕の行動を疑問視し、ひどいときには変人扱いされたものだ。

ある人は安定した地位を捨てることの愚劣さを説いた。

ある人は「世間は甘くないぞ」といったストックフレーズを繰り返した。

僕は強い信念があって公務員を辞めたわけではなく、ただあまりにもつまらない仕事をこの先何十年も続けることに対して嫌気が差しただけなのだ。

ただ、世間の常識からすれば、僕の選択はありえないことだったのである。

 

世間の標準に沿った生き方をしていれば、それによって得られるメリットは結構ある。

社会的信用は高くなる。相手に与える安心感も強くなる。

特に経済的側面から見れば、世間の標準に沿った生き方を選択することのメリットは大きい。

しかしながらである。

そのような生き方は面白いのか、ワクワクするのか、とひねくれ者の僕は思ってしまうのである。

 

定職に就き、結婚をして子を持ち、持ち家を所有するというライフスタイルを僕は否定しない。それはそれで十分に立派なことである。それが叶わなかった僕からすれば本当に敬服に値することである。

しかし、人には向き不向きがある。

僕は世間の常識に沿ったライフスタイルを送ることが向いていなかったというだけの話である。

 

僕は世間の標準からズレた生き方を意識的に選んだわけではない。

なりゆきでこうなってしまった、というだけの話である。

自分が快適に感じるか、面白いか、を追求していたら(そんなに意識していたわけではないけれども)、今のビンボーヒマありダメ人間になってしまったのである。

ダメ人間的生き方のメリットはあるにはある(デメリットを考えたら落ち込んでしまうのでここでは書かない)。

自由らしきものを得たという実感がある。

無用なストレスから解放された。

他者からの評価を気にしなくなった。

社会的問題に広く目がいくようになった。

これらのことが本当にメリットなのかは正直なところよく分からない。僕が納得しているので、それはそれでよいことにしている。

 

今の社会全体を覆っている競争を是とする風潮や同調圧力や人を選別することをよしとする風潮に疲れたならば、世間の標準から少しだけズレた生き方も選択肢のひとつにしてもいいのでは、と僕は言いたい。

経済成長至上主義や競争に浸かった生き方に疑問を持つことは何も特別なことではない。ある意味当然のことである。

案外と世間の標準や常識なんて曖昧模糊としていい加減なものである。

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