希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「優秀な学生がいない」という物言いは、会社の驕りであるという件

ここ数年、新卒者の就職活動に関する報道でよく見聞きするのは人事担当者の「優秀な学生がいない」「優秀な学生がわが社に来ない」というコメントである。

僕はこの言い草に強い違和感を覚える。

 

まず、「優秀な学生」を決める判断基準がおのおのの会社が決めるローカルなものに過ぎないということだ。あくまで相対的なもの仮初のものに過ぎないのである。

会社の論理とは、社員というものは会社の利益を生むためのみに働き、組織のきまりごとに従順に従い、組織の和を乱さないというローカルルールに則ったものであるべきというものだ。

目先の利益に捉われ、近視眼的な評価基準しか持たない会社や人事の目に適う人物がこじんまりとしたものになるのは自明の理である。

 

また、ある人が本当に優秀か否かという判断は、学卒年齢の22,3歳の時点でできるものではない。できるとすれば、潜在能力がどれほどあるかということを予想するだけである。この予想はそうそうは当たらない。人はそれほど単純なものではない。

人それぞれの持つ器量や資質はある程度の年齢にならなければ推し量れないものである。

それに大きな器量を持つ人が会社の枠を超えてしまうことが往々にしてある。実際に器の大きい人は会社のせせこましい度量衡にはなじまないものなのである。

 

それともうひとつ、「優秀な学生」が来ない会社にはそういった人物を引き付ける魅力に欠けているのだ。そういった魅力に乏しい会社は自身のことは棚に上げて、すべての責を学生に負わせることによって、人事担当者の保身・責任逃れをしているのである。

このような会社は業種や規模の大小は関係ない。誰もが知る大企業・有名企業にも魅力に欠ける会社は存在する。

 

ここで、優秀な学生とはどのような人物のことなのか。

この定義はなかなかに難しい。

昨今の風潮では、「グローバル人材」と言われる人のことを指すのだろう。

しかし、このグローバル人材の内実は、会社の利益を出すことに長けていて、会社の命令となれば世界中どこへでも赴き、根無し草になることも厭わないという人のことである。よくよく考えればこれらの条件を満たせば、取り換え可能な労働者を意味することになる。これで本当に優秀な人物だといえるのか、僕は疑問に思う。

優秀な学生(人物)とは取り替え不可能な何かの資質を持っていることだと思う。

社会を少しでもより良いものに変えようとする意志を持ち、大勢に流されず我が道を行く気概を有し、私利私欲に走らない人物が本当の優秀な人だと思う。あくまで私見ではあるけれども。

このような優秀な学生・人物がひとつの会社の枠に入るわけがない、とちょっと考えれば分かる話である。

 

会社が、人事担当者が「優秀な学生がいない」「優秀な学生が来ない」という言葉を吐くことは、大いなる思い違いであり、驕りである。

優秀な学生なんてあちこちにいる。

そんな優秀な彼ら彼女らが、ただ単にしょーもない会社は無視している、というただそれだけのことである。

僕はそんな学生が増えることを密かに望んでいる。

 

 

 

下り坂をそろそろと下りていこう、という件〈再掲〉

僕はもう人生の折り返し地点を過ぎてしまった。

これからは心身の衰えと折り合っていかなくてはならない。

そのための生き方を模索中だが、イメージしているのは下り坂をゆっくりと下りていくといった感じのものである。

 

初出 2018/9/27

 

僕は中年のオッサンである。これからは年々体が衰えてくる。右肩上がりの成長は望めないし、またそんな生き方もできない。

死に一歩ずつ近付いているという実感がある。若いころのしなやかさや瑞々しさが失われて久しく、それらを懐かしむ心境に至っている。

 

僕はもう、上り坂を上り終えて下り坂を下りているのである。

成長至上主義的イデオロギーからすると、僕はもう「終わっている」人間である。

経済成長に資することもなく、カネを稼ぐ力もほぼない。

しかし、僕は「終わっている」とは露ほどにも思っていない。

 

下り坂をそろそろと下りていると、それはそれで味わいがあるものである。

上り坂では見ることのできない風景を見ることができる。

上り坂では出会えない人たちと出会うことができる。

成長や発展とはまた別の「成熟」を目指して、自分なりの生き方を全うすることができる。

人との無益な競争をしなくても済む。

支えあうことの大切さを知り、共生することの楽しさを知る。

自己実現とかやりがいといった言葉とも無縁となる。

 

僕は少々「かっこつけ」の面があるので、歳をとっても格好良く枯れたいという願望がある。ぎらつくこともなく淡々としていて落ち着きのある人間になりたい。

年長者であろうが若者であろうが、どのような仕事をしていようが、仕事をしていなくても、社会的地位とか肩書にとらわれずに常に相手をリスペクトできるような人でありたい。

 

一旦世間での競争から降りてしまうと、「負け犬」だとか「終わった人間」扱いされてしまう。経済成長至上主義や仕事中心主義に毒された人たちからすれぱ当然である。

しかし、それらはイデオロギーのひとつに過ぎない。絶対的に正しいわけではない。

偏った価値観に基づいた評価軸で人を断じるのは愚の骨頂である。

僕は僕の生き方や価値観が絶対的に正しいとは思わないけれども、間違っているとも思わない。僕の価値観を相手に押し付けることはしないが、誰かにその価値観を押し付けられるのを潔しとはしない。

 

僕の全くの個人的な考えなのだけれども、人生半ばを通り過ぎて、尚も競争に勝ち続けることにあくせくし、右肩上がりの成長を図る営為を続けるのは、何だかはしたないなぁと思ってしまう。上り坂をずっと上り続けるのはかなりしんどいのになぁ、たいへんだなぁとも思ってしまう。まあ、余計なお世話だとは思うけれども。

 

僕は死を迎えるその日まで、下り坂をそろそろと下りていく生き方を続けていく。

決して悲観することではない。

新しい何かに出会え、それらが楽しさや面白さをもたらしてくれるはずだとの確信がある。

楽観的に過ぎるかもしれないけれども、それはそれで面白いのでいいのである。

 

つまらない仕事でもそこから得られるものがあるかもしれないという件

いつの頃からだろうか。

仕事にやりがいを強く求めたり、自己実現を図るためのものになったり、成長するためのものになったりしたのは。

こんなに豊かでなかった頃は、仕事というものは生活するための手段としてあるものだった。今もそのことには変わりはないが、かつては「食うこと」に主眼を置いていて、そこにやりがいだの成長といったものは入り込む余地はなかったはずである。

 

世の中の大半の仕事はルーティンワークであり、創造性からかけ離れたものである。それでも世の多くのサラリーマンはそのことを知りつつも日々労働に明け暮れている。

本当にやりがいのあるクリエイティブな仕事をしているのはほんの一握りの人に過ぎない。しかし、この社会を成り立たせているのは、大半の日々変わり映えのない仕事に勤しんでいる人たちなのである。電車が時刻表通りに運航されていたり、荷物が間違わずに届いたり、店員さんが釣銭を間違わずに渡してくれたり、注文した製品の納期が守られたり、と当たり前のように思っている様々なことはルーティンワークをきっちりとこなしている多くの人たちの日々の営為の積み重ねによってできることなのである。

 

僕は新卒で勤めた公務員の仕事を、そのあまりにもつまらなさのために辞めてしまった。そのこと自体を今も全く後悔してはいないけれども、短慮すぎたなとは思っている。

結局僕は、公務員を退職した後に就いた仕事で、そのつまらない仕事によって得た知識やスキルを活かすことになった。専門学校の講師しかり、社労士の仕事しかり、生活相談員の仕事しかり。

 

今になって僕は思う。

世の中に意味のない仕事なんて皆無だということを。

つまらないと思われる仕事でも、それなりに一生懸命こなすことで何らかの得られるものがあるということを。

若い頃、年長者に「つまらない仕事でも一生懸命すれば身になるし、楽しくなる」と言われたが、半分くらいは当たっていると思う。さすがに楽しくはなれなかったが、幾ばくかのスキル・知識は身についた、ということを肌感覚で理解できる。

 

もし、若い人に「今の仕事はつまらなくて、転職したい」といった旨の相談を受けたとしたなら、「焦るな。もう少し続けてから行動を起こせ」と答えるだろう。

転職自体は何も否定することではない。転職して環境を変えることによって、資質が開花することだってある。しかし、職場を変えても仕事内容はあまり変化しないことも多い。それはフリーランスになっても同様である。

 

「つまらない仕事でも、そこから得られるものがある」といった類のことを言うなんて、僕は老いたのかもしれない。

昔の僕からは考えられないことだ。

良い表現に変えれば成熟したといえる(そうだと信じたい)。

しかし、僕は自分の老いを悲観していない。

 

 

「やればできる」とは相手を追いつめる言葉であるという件

僕は今、仕事のひとつとして進学塾の講師をしている。

担当している受講生はそれほど多くはないが、それぞれにタイプが異なっている。

何も言わなくても自発的に学習に取り組む子もいれば、いまひとつ意欲がない子もいる。

塾のできることは限られている、と僕は醒めた目で見ている。『ビリギャル』のように低学力の状態から難関校に短期間で合格させるなんてことはレアケースである。

勉強ができる子は元々できる(遺伝的な要因が大きい)、できない子にはなかなか打つ手がない、というのが厳然たる事実である。

 

元々できる子への対処は簡単である。学力がレベルアップするように仕向けるだけでよい。

学力がイマイチな子に対する対処法は難しい。学力を基礎レベルから徐々に身に着けさせる教材や教え方のノウハウがあるにはあるけれども、それは学習意欲があってこそのものである。この「意欲」というものが曲者なのである。これは本人の内面から湧き出るものであって、外部から促せるものではない。「やる気スイッチ」はどこで起動するのかは誰にも(本人でさえも)分からない。

僕は意欲を湧き立たせる明確な手立てはないと諦めていて、できるだけ本人のわずかに残っている意欲を削がないように気を配るようにしている。

 

僕たちは前述のような学習意欲のない子や職場でやる気を見せない社員に対してついつい「やればできる」といった類の言葉をかけがちである。

それは意欲が外部からの働きかけによって起動するという思い込みによるものである。

ある種の精神主義である。

 

この「やればできる」といった言葉の相手への投げかけは諸刃の剣である。

時には相手の意欲を喚起し、学習態度や勤務態度が改まることがある。

しかし往々にして、相手を精神的に追い詰めることもある。

大抵の場合、本人にもどうして自分に意欲がわかないのか分かっていない。ほとんどの人はそうした自分の意欲のなさに引け目を感じている。やる気が出ない理由はひとつだけではなく、様々な複合的な要因が絡まりあっていることが多い。

そのように悩んでいる人に対して、バカの一つ覚えに「やる気を出せ」とか「やればできる」といった励ましを与えるのは愚かしいことである。

 

人のやる気や意欲は取り扱いがセンシティブなものである。

それらを人の評価軸に据えることは慎重にならなければならない。

学校における内申書や会社における人事考課でこれらの情意評価を重く見るのはいかがなものか、と僕は常々思っている。

 

なかなか結果を出せない相手に対して「やればできる」という言葉を投げかけるのは多くの人たちにとって容易いことである。害のない言葉と受け止められているきらいがある。

しかし、実は「やればできる」といった言葉は毒を含んだものである、という自覚をもっと持った方が良い。やる気や意欲といったものは他人が引き出すことができるはずという思い込みを捨て去った方が良い。

人の心なんてそう容易く変えることなんてできないのだから。

人の心は単純なものではなく複雑系そのものなのだから。

 

今日の予定が何もないとハッピーな気分になるという件

何度も言っているが僕はダメ人間であり、ヒマ人的生き方をしている。

これは謙遜でも何でもない。ありのままを述べているだけである。

自分がダメ人間であることを実感するのは、朝起きたときに今日一日の予定がないととてもハッピーな気分になってしまうときだ。

今日一日、何もすることが決まっていないと満ち足りた気分になる。

だからといって特別なことをするわけではない。

いつものようにラジオを聴き、読書をし、動画を見たりしてダラダラと過ごすだけのことである。

 

僕がフリーランスとして仕事をしているとき、一日の予定が決まっていない日があると半分は嬉しいけれども、半分は焦りの気持ちがあった。予定がないということは仕事がないイコール収入減を意味していたので、何とかせねばと焦りの気持ちが生まれてきたのである。ヒマは嬉しいけれども、同時にそこに疚しさを感じるというジレンマに陥るのである。

この点がフリーランスの辛いところだった。

 

僕はこれまで「スケジュールの空きを埋めなければ不安になる病」の人たちを何人も見てきた。スケジュール帳を真っ黒にし予定をびっしりと入れていないと不安になるという人たちだ。僕はそんな風にはなれないなと思っていたけれども、何となくその気持ちを理解できていた。ワーカーホリックだと嘲笑するのは容易いが、事はそんなに単純な話ではない。心の余裕を失ってしまっているそんな人たちを気の毒がり、哀れみの目で見るのは傲慢なことである。

予定がないことに強い不安感を覚えるのは、個人の資質や性格にもよるのだろうが、そうならざるをえなくした社会システムや労働至上主義イデオロギーといった「大きなもの」に目を向ける必要がある。

 

僕が今のように予定が空白なのを言祝ぐようになったのは、40歳を過ぎて生き方の転換をしたときからである。労働至上主義・勤勉至上主義イデオロギーから離脱したときからである。ビンボー生活およびヒマ人的生き方をしようと覚悟を決めたときである(そんなに大層なものではないが)。

何の予定もないときの爽快な気分。

何もしなくてもいいときの晴れやかな気分。

僕はこの快感を手放したくない。

 

無為の時を過ごすことの快楽・その大切さを何度もこのブログに書いてきた。

世間の真っ当な人たちはこんな僕の態度や行動様式を退嬰的だとか意識が低いとか言って批判するだろう。僕はそんな外野の声を甘んじて受ける。

何も予定がないことや何もしなくても良いことが最高の贅沢だと思っているから。

自由を満喫することだと思っているから。

やれやれ。

こんなことばかりを言っていると、いつまで経ってもビンボーヒマあり生活を続けることになりそうだ。

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