経営者とサラリーマンの違いとは何か。
色々とあるけれども、一言で言ってしまえば「人を使う」か「人に使われているか」の違いである。言挙げすればシンプルなものであるが、両者の間に存在する溝や壁は大きい。
自己啓発系の著書や記事等でサラリーマンの働き方や労働観に関して言及されるとき、そのほとんどは経営者目線でなされている。
働きがいややりがいを持つこと、自己実現のために働く、成長のために働くべきといった類の物言いは実は経営者目線から発せられている。いかに機嫌よく労働者を働かせて、搾取量の極大化を図るか、といった視線で語られている。
いかにサラリーマン諸氏に気持ちよく働いてもらうかという問題は経営者にとって死活問題である。
経営者が一方的に社員を統制し支配する(命令に絶対服従するとか規則でガチガチに縛り付ける等)という形の人事労務管理では立ち行かない。社員を無理やり「働かせる」形のコントロールでは会社は利益が上がらないし発展もしない。
ではどうするか。
社員が「自発的」にモチベーションを高めて、労働の意味づけを行って、自分の意志で働くように仕向けるのである。働かされているのではなく、自らすすんで働いているというように持っていくのだ。
そのためにサラリーマン各自の仕事には意味があって、その仕事をすることによって成長するし、報酬のために仕事をするのではなく自己実現ややりがいのために仕事をするのだと錯覚させるのである。言い換えれば「自発性の強制」である。サラリーマンの側から見れば、「強制された自発性」の下で働くのである。
経営者からの社員に対する労働意欲喚起の働きかけは、不断に行われる。この働きかけができない経営者ははっきり言って経営者に不向きである。会社の規模や業態、業種は関係ない。
僕がかつて社労士事務所を営んでいた時、相談の多くは社員のモチベーションに関する事柄であった。特に中小零細企業においてはひとりでもモチベーションの低い社員がいると、即業績に響くことになる。社員のモチベーションを上げるためには、外的動機付け(報酬を上げたり、休みを増やしたりする雇用条件の向上)では限界がある。どうしても内発的動機付けが必要となる。そのために宗教的なものに走ったり、有名経営者に傾倒したりする経営者が多いのである。
世のサラリーマンはこのように常に経営者からの「内発的自発性」を喚起する働きかけにさらされていることに気付くべきである。自らすすんで働いているつもりでも実は「働かされている」のである。
ブラック企業と呼ばれている会社がこの世から消えてなくならないのは、そのブラック企業で働いている社員の多くが「楽しんで」「自らすすんで」働いていると錯覚しているからである。ブラック企業の経営者は心理学を悪用して、劣悪な労働条件でも喜んで働くように社員を洗脳しているのである。
世の多くの経営者たちはブラック企業の経営者と似たり寄ったりのことをしていると考えてもよい。
会社に雇われて働くときには、経営者の隠された意図を推し量っていく態度が必要である。
自らすすんで働くような内発的動機付けは、自分だけの意志を以てなさなければならない。言うは易しだが、実はこれが難しい。
あるいは心を白紙にして、経営者からの働きかけに素直に応じて、それを信じて成長や自己実現に邁進するのも手かもしれない(僕は絶対に嫌だけれども)。
経営者は常にサラリーマンよりも上手であり、常に一歩先を行っているという認識を持って働かないと、先は見えている。