この社会は「みんな」と同じ行動をとれという同調圧力が強い。また幼少時から協調性を獲得することが重んじられる。
そしてさらには「世間」という厄介なものもある。
世間の目というものを強く意識しないと(時には無意識的に)いけない。
僕たちは知らず知らずのうちに世間の評価にさらされながら、それを内面化しながら生き方を決められている。
僕の若い頃(大学を卒業する頃)は新卒で企業に雇われて働くことが当然とされていた。その頃に「フリーター」という言葉が生まれたが、それはあくまで緊急避難的な性質のものであって、ずっとフリーターを続けることは推奨されていなかった。
雇われて働くことを忌避して、起業するとかフリーランスになるなんてあくまでレアケースであった。
いわば、「真っ当な社会人」とはどこかの会社に勤める正社員のことを指していたのである。
僕が若くして公務員を辞めた時、周囲の大半の人たちは僕の行動を疑問視し、ひどいときには変人扱いされたものだ。
ある人は安定した地位を捨てることの愚劣さを説いた。
ある人は「世間は甘くないぞ」といったストックフレーズを繰り返した。
僕は強い信念があって公務員を辞めたわけではなく、ただあまりにもつまらない仕事をこの先何十年も続けることに対して嫌気が差しただけなのだ。
ただ、世間の常識からすれば、僕の選択はありえないことだったのである。
世間の標準に沿った生き方をしていれば、それによって得られるメリットは結構ある。
社会的信用は高くなる。相手に与える安心感も強くなる。
特に経済的側面から見れば、世間の標準に沿った生き方を選択することのメリットは大きい。
しかしながらである。
そのような生き方は面白いのか、ワクワクするのか、とひねくれ者の僕は思ってしまうのである。
定職に就き、結婚をして子を持ち、持ち家を所有するというライフスタイルを僕は否定しない。それはそれで十分に立派なことである。それが叶わなかった僕からすれば本当に敬服に値することである。
しかし、人には向き不向きがある。
僕は世間の常識に沿ったライフスタイルを送ることが向いていなかったというだけの話である。
僕は世間の標準からズレた生き方を意識的に選んだわけではない。
なりゆきでこうなってしまった、というだけの話である。
自分が快適に感じるか、面白いか、を追求していたら(そんなに意識していたわけではないけれども)、今のビンボーヒマありダメ人間になってしまったのである。
ダメ人間的生き方のメリットはあるにはある(デメリットを考えたら落ち込んでしまうのでここでは書かない)。
自由らしきものを得たという実感がある。
無用なストレスから解放された。
他者からの評価を気にしなくなった。
社会的問題に広く目がいくようになった。
これらのことが本当にメリットなのかは正直なところよく分からない。僕が納得しているので、それはそれでよいことにしている。
今の社会全体を覆っている競争を是とする風潮や同調圧力や人を選別することをよしとする風潮に疲れたならば、世間の標準から少しだけズレた生き方も選択肢のひとつにしてもいいのでは、と僕は言いたい。
経済成長至上主義や競争に浸かった生き方に疑問を持つことは何も特別なことではない。ある意味当然のことである。
案外と世間の標準や常識なんて曖昧模糊としていい加減なものである。