僕たちは国家の一員として、あるいは地域社会の一員として納税の義務を負っている。
近代以降の国民国家では自明のことだとされている。
僕たちは何の疑問も持たずに税金を納めている。話題になるのは税金の「使い途」であって、税金を納めること自体の是非の議論が深化することはまずない。徹底的に税金から逃れようとする人たちは社会にとっての厄介者、アウトローだとみなされる。
「徴税権」は国家の存立のためには絶対に欠かせないものである。国家運営のための費用(国防・社会保障・社会資本整備等)を賄うためには強力な徴税権が必要不可欠である。尤も、天然資源が豊富にあり、その天然資源を国営でビジネス化しているような国家については話が別ではある。
脱税の量刑が重い理由は、それを認めると国家の存立基盤が揺らぐからである。また、脱税は重罪であり道徳的にも許されないとのプロパガンダを国が繰り返す理由も同じである。
裏を返せば、国民の多数が税金の支払いを拒めば国家はその存続が危うくなることを意味する。税金の不払いを盾にして、国に物申すという方法も考えられるのだ。個人や少数で税金の不払いをしても効果はない。すぐに公権力によって制裁を加えられるからだ。
何も僕は税金なんか払わなくてもよいと言いたい訳ではない。税金は当然に払うべきである。国家の、自治体の成員としての責務である。
しかしながら、国家や自治体が思うがままにやりたい放題の乱脈なことを続けた場合には話は違ってくる。選挙という方法は生ぬるいし、僕たちの意志が反映するとは限らない。多くの人たちが一斉に税金の不払い運動をする方が権力側にダメージを与えるはずである。
会社が法人税、消費税や社員の源泉所得税の支払を拒み、自営業者が確定申告をしないと国家や自治体はパニックに陥る。
税金の不払い運動が長期にわたると、僕たちの生活にも大きく影響してしまう。
期間を区切って税金の不払い運動をするだけでもその効果は大である。「税金不払党」みたいな運動体を組織して政治的な要求を突きつけることも考えてみる余地がある。ただ単に税金を払いたくないわけではなく、税金を公正に使えという大義を掲げて活動をするのだ。
この「税金不払党」は今のところ実現の可能性は低いだろうが、将来において大衆運動の一形式として起きる可能性はゼロではない。
税金はただ「取られる」ものではないはずだ。
僕たちはより良い社会を築き上げることを切望して税金を支払っている。
税金の支払は単なるコストではなく、未来への投資だと僕は考えたい。
この考えは理想論に過ぎないのだろうか。