希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

心を病むのは、まともである証である

私は今までに数回「うつ状態」になり、結構長期間(約10年ほど)抗うつ剤抗不安薬の服用を続けてきました

不幸中の幸いで、強い副作用に見舞われることもなく、当時のかかりつけのお医者さんのおかげもあり、わりと簡単に断薬ができました。

いまは一切服用していませんし、これからも服用することはありません。

 

私のうつは治りましたが、思い返すと薬の効果ではなく、思い切って環境を変えたことによって自然寛解に至ったのだと確信しています。

この精神病の分野には様々な意見があり、かつ巨大利権が存在するので軽々にあれこれと意見は言えません。

ただ、私が経験したことや周囲の友人知人のことや私なりに専門書を漁って得た知見を基にした「感じたこと」しか言えません。

その私が感じたこととは・・・

心の病は薬では治らない、ということです。

精神薬と言われる薬は一時的に症状を止めたり緩和させる働きしか有していません(精神薬に限らず現代医療のどの薬も同じことが言えます)。

それに多くの精神薬の成分はいわゆる「麻薬」と称される非合法薬と酷似しています。

だからといって私は精神医療や薬を否定するわけではありません。

やはり辛い症状があるときには効き目のある薬を飲めばいいのです。

病に苦しむ人たちの苦しみが薬を服用することによってやわらぐのならば、その存在意義は大きいと言えます。

 

でも・・よくよく考えてみてください。

例えば仕事が原因で心の病に罹った場合ですが・・

そりゃ~嫌な仕事やつまらない仕事を続けていたら、嫌な上司や同僚に囲まれて仕事を続けていたら、誰でも心か体の調子がおかしくなるに決まっています。

うつ病パニック障害などを発症したのは、その人の身体が普通に「反応」しているだけのことです。

言い換えれば「自然治癒力」の発動の一環として心の働きを一時的に緩めて、ただちに休養しろ、とサインを送ってくれているのです。

だから表に出ている症状を消しても、根本的な解決にはならないのです。

その人の置かれている状況を、その人の心の重荷にならないようなものに変えるしかないのです。

 

ただ、そうは言っても、その人が働いていたり、学生だったりしたら長期間の休養を取るのは困難な場合も多く、多くのケースでは薬を飲んで症状を抑えて、だましだまししながら仕事や通学を続けるということになります。

この点が精神病治療の難しい所なんですね。

私の場合はうつを発症した後に、職場を変えたり仕事のやり方自体を変えたりして、環境を変化させて治りました。私は本当に運が良かったのだとつくづく実感しています。

私がうつの時に通院していたお医者さんは「まあ、こんな病気は1か月でもハワイにでも行って、仕事を忘れて遊んでゆっくりと過ごせば一発で治るよ。ハッハッハッ・・」と言うてましたわ。

今思い出しましたよ。

 

心の病にかかっている方々の症状や置かれた環境は千差万別で軽々にこうしたらいいよ、とは言えません。

ただ、もしなかなか治らないようでしたら、薬物治療に頼りきりになるのではなく、自分が病を得るに至ったおおもとの原因は何か、そしてそれを消す手立てを考えたり調べたりして、根本的治療に取り掛かる・・・自らの力で癒すしかないと思います。

 

何だか意見は言えないと言いながら、「意見のようなもの」になってしまいました。

私にはこれくらいのことしかお伝え出来ません。

どうか大目に見てやってください。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

あなたにすべてのむ善きことが雪崩のごとく起きます。

苦手なことや嫌いなことはやらなくてもいい

私は給食には悪い思い出しかありません。

子どもの頃の私は好き嫌いが結構あって(今も偏食気味ですが)給食が嫌で仕方がなかったのです。

当時は圧倒的に「残すことは悪いこと」や好き嫌いをしてはいけない」といった考え方がまかり通っていて、ほとんどの教師はすべて食べ終わるまで生徒を残していたのです。

私はこの悪しき風潮のおかげで小学校5年生のときに不登校になりました(当時は登校拒否と言っていました)。

おかげさまで、私は学校や先生に対しての「幻想」や「思い込み」から脱することができました。今にして思えばとてもいい経験ができたなと。

昨今の、特に新型コロナ騒動以降においてはある程度は個人の好き嫌いを表に出してもいい、という考え方が広がってきているように感じています。

からしてみればまだまだだと感じていますが、でも、歪な根性論が減ってきたというのは喜ばしいことです。

 

私が勤め人をしていた頃は、「石の上にも三年」という価値観がまかり通っていました。

好きでもない、つまらないと感じるような仕事でも我慢して無理してでも楽しみや面白さをみつけよ、と先輩や上司から何度も言われました。

 

好きなことだから、努力もし頑張れる。

好きなことなら、傍から見てしんどそうで大変そうでも、本人にとってはそうではなくて楽しく感じていたりします。

好きなことなら、我慢ができるし、本人は我慢とすら感じないことも多いものです。

最近のスポーツ界を見渡しても、結果を出し続けているチームや個人はその競技を心から楽しんでいて、練習も合理的でかつ楽しさを採り入れています。

昭和の体育会的なシゴキや根性論は影を潜めていて、今どきそのような体質が残っているチームは見事に凋落しています。

 

嫌なことはいくら頑張っても上達しませんし、結果も出ません。

嫌なものはいつまでたっても嫌のままです。

こんなことわざわざ言わなくても至極当然のことですよね。

この当然のことが常識として世に広まる日は近いと信じています。

そうなれば、もっと風通しの良い、生きやすい社会になると思っています。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

あなたにすべての善きことが雪崩のごとく起きます。

 

 

「再生編」始めます〈4/1~本格的に再始動します〉

今日からブログを再開します。

諸々の事情により、2019年の末から一旦中断していました。

その間に大病をしたり、コロナ騒動があったりと色々なことが私の身に起こりました。

 

この度、心身共に「奇跡的な」恢復を果たしたことを言祝ぐためにブログを再開することにしました。

 

以前のエントリーはしばらくの間はそのまま残しつつ、全く様変わりした内容や表現方法をもって書いていきます。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

いつの間にか余計なプライドがなくなってきたという件

僕は元々プライドが高い人間だった。

そのせいで人間関係において軋轢を生んだりしてきた苦い思い出がある。

若い頃は「俺はこんな程度の人間じゃない」「俺はもっと高みにいけるはずだ」との思いがあり、それが僕を縛り付けていた。

 

人が生きていくうえで矜持やプライドは絶対に必要である。

しかし、「余計なプライド」、いいかえれば見栄や虚栄心を伴ったプライドは不要なものだ。

余計なプライドを持つことにより、他人を見下したりする。

どんな仕事をしているかやどれほどの年収を得ているかによって相手を値踏みし、勝手に格付けをしたりする。こんなに愚かな行為はない。

また、相手から高く値踏みされようとして、世間で高いとされる属性を身に着けようとあくせくするのである。こんな不毛なことはない。

 

僕が新卒就活をしていたとき、自分が何をしたいか、どんなことを成し遂げたいかということを考えず、いかに世間から高く評価されるかのみを重視していたと今となっては思う。それは僕のしょうもないプライドを満たすためのものだった。

その後、公務員を辞めて、次の仕事を選択する際も、僕のつまらない虚栄心を満たせるような職種をピックアップして、それらの中から自分ができそうなものを選ぶというプロセスを踏んだものだった。

そこにはいかに楽しく面白く人生をやりすごすかという視点が全く欠けていた。

 

今の僕には100%とまでは言いきれないけれども、余計なプライドはない。

真っ当な生き方のレールから零れ落ち、ダメ人間と化している僕なのでプライドもへったくれもないものではあるけれども。

 

世間からの評価や格付けが低くなれば、色々と不都合なこともある。クレジットカードの審査に通らないとか賃貸住宅に入居しづらいとかそんなところだ。

同窓会で肩身の狭い思いもしたりするかもしれない(もっとも僕は同窓会には出ないが)。

 

余計なプライドをかなぐり捨てると、目線が下がり弱きものに対して優しくなれる。

この社会のありようが違って見えてくる。あるいはこの社会が抱えているひずみがはっきりと見えてくる。

そしてこのろくでもない社会に対して心の奥底では抗いつつ表面上はすいすいと渡り歩くという生き方を抵抗なく選ぶことができる。

 

人としての矜持は持ちつつ、余計なプライドは持たないという生き方を僕は続けていきたい。

面白おかしく残りの人生をやりすごすために。

ダメ人間の僕が採りうる有効な生存戦略だと確信している。

 

「不安定」は本当に悪いことなのかという件

多くの人たちは幼少時から「安定した」仕事に就いて「安定した」生活を営むことが絶対的な善だと刷り込まれてきている。

「安定神話」の呪縛に囚われているのである。

そのための前提として安定は善で不安定なことは悪だとの思い込みがある。

不安定という用語を使用するとき、大抵はネガティブな意味合いを含んでいる。

 

例えば非正規雇用の問題点としては不安定な雇用状態が取りざたされる。

確かにそうではある。

しかし、報酬単価が高ければ、不安定雇用はそう問題とはならない。他の先進諸国では非正規雇用の労働者の方が単価が高いと言われている。

場合によっては「不安定」なことは問題とはならないのである。

 

僕は安定なんて幻想に過ぎないと思っている。

この世の中のすべてのものの成り立ち方の根源的な在り方は「不安定」なものだととらえている。

「万物は流転する」のである。

 

今の世の中で生きていると、安定していても不安定なままであっても、漠然と抱く不安感のようなものは大差ないような気がする。

この不安感がなかなか払拭されないがゆえに、心の平穏を求めてより安定を求めている、といった方が正しいのかもしれない。

仮初の安定を得ることによって仮初の安心感を得ているのである。

新卒者が自分の仕事の選択基準として「安定」を挙げ、大企業や公務員を志望する者が多いのも首肯できる。

 

安定をディフォルトとするか不安定をディフォルトとするか、いずれの方がより生存戦略として優れているか。一概には言えないかもしれないけれども、僕は不安定をディフォルトとした方がより適切な生存戦略を採ることができると思う。

人はその人生の中で幾度も予期せぬことに遭遇する。ちょっとしたきっかけで進む道が大きく分かれることがある。順風満帆にずっと進むなんてことはあり得ない。

自分の足元は実は古びた吊り橋にあってちょっとしたはずみで踏み外してしまう代物だと観念しておいた方が、リカバリーしやすくなる。

 

不安定なことは悪いことでもなく、改善すべきことでもない。

それが常態なのである。

そう捉えておかないと、有効な生存戦略は採れなくなる。

 

安定が絶対的な善であり、安定を求めることが正しいとされる価値基準に満たされた社会はどこか息苦しいし、何より面白くない。

先のことは分からない、何が起こるか分からない、という状況が続き、何かが起こるたびに自分が持つものを総動員してやり過ごす、という方が楽しくてワクワクする。

生きているという実感が湧いてくる。

これらの感覚は偏っているものだろうか。正しくないものなのだろうか。

あるいはダメ人間であり、真っ当な生き方を放棄した僕ならではの開き直り、居直りなのだろうか。

 

僕はやはり安定は望まない。

そのための覚悟はできている(つもりである。僕はそんなに強くない)。

不安定さの中でひらりひらりとこの世の中を渡り歩くために、今悪知恵を働かせているところである。

 

 

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