希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「不安定」は本当に悪いことなのかという件

多くの人たちは幼少時から「安定した」仕事に就いて「安定した」生活を営むことが絶対的な善だと刷り込まれてきている。

「安定神話」の呪縛に囚われているのである。

そのための前提として安定は善で不安定なことは悪だとの思い込みがある。

不安定という用語を使用するとき、大抵はネガティブな意味合いを含んでいる。

 

例えば非正規雇用の問題点としては不安定な雇用状態が取りざたされる。

確かにそうではある。

しかし、報酬単価が高ければ、不安定雇用はそう問題とはならない。他の先進諸国では非正規雇用の労働者の方が単価が高いと言われている。

場合によっては「不安定」なことは問題とはならないのである。

 

僕は安定なんて幻想に過ぎないと思っている。

この世の中のすべてのものの成り立ち方の根源的な在り方は「不安定」なものだととらえている。

「万物は流転する」のである。

 

今の世の中で生きていると、安定していても不安定なままであっても、漠然と抱く不安感のようなものは大差ないような気がする。

この不安感がなかなか払拭されないがゆえに、心の平穏を求めてより安定を求めている、といった方が正しいのかもしれない。

仮初の安定を得ることによって仮初の安心感を得ているのである。

新卒者が自分の仕事の選択基準として「安定」を挙げ、大企業や公務員を志望する者が多いのも首肯できる。

 

安定をディフォルトとするか不安定をディフォルトとするか、いずれの方がより生存戦略として優れているか。一概には言えないかもしれないけれども、僕は不安定をディフォルトとした方がより適切な生存戦略を採ることができると思う。

人はその人生の中で幾度も予期せぬことに遭遇する。ちょっとしたきっかけで進む道が大きく分かれることがある。順風満帆にずっと進むなんてことはあり得ない。

自分の足元は実は古びた吊り橋にあってちょっとしたはずみで踏み外してしまう代物だと観念しておいた方が、リカバリーしやすくなる。

 

不安定なことは悪いことでもなく、改善すべきことでもない。

それが常態なのである。

そう捉えておかないと、有効な生存戦略は採れなくなる。

 

安定が絶対的な善であり、安定を求めることが正しいとされる価値基準に満たされた社会はどこか息苦しいし、何より面白くない。

先のことは分からない、何が起こるか分からない、という状況が続き、何かが起こるたびに自分が持つものを総動員してやり過ごす、という方が楽しくてワクワクする。

生きているという実感が湧いてくる。

これらの感覚は偏っているものだろうか。正しくないものなのだろうか。

あるいはダメ人間であり、真っ当な生き方を放棄した僕ならではの開き直り、居直りなのだろうか。

 

僕はやはり安定は望まない。

そのための覚悟はできている(つもりである。僕はそんなに強くない)。

不安定さの中でひらりひらりとこの世の中を渡り歩くために、今悪知恵を働かせているところである。