希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「お客様は神様」ではないという件

顧客第一主義を社是に掲げている会社は多い。このこと自体は間違っているわけではなく正しいことである。

ただ、この顧客を大切にするという考えが歪んで広まっているような気がする。

顧客の正当でないクレームに対しても平身低頭して聞き入れることが顧客第一だと勘違いしていたりする。

過剰なサービスをしてまでも顧客に媚びへつらう。

 

行き過ぎた顧客に対するサービスをすると、そのしわ寄せはすべて現場で働く労働者に押し寄せる。労働者に過度の奉仕を強いても会社のコストは変わらない。

正社員だけではなくパートタイマーやアルバイトに対してまで過度のサービス提供を要求するようになっている。

過剰すぎるサービスをホスピタリティだとの思い違いをしているケースが多い。

 

サービスを受ける側である消費者の意識も問題である。

例えば安価な店舗(ファーストフードやファミレス等)でも一流のレストランやホテル並みの接客を要求する。そのことが店舗の従業員の労働強化につながることを想像できないのだ。結果として、飲食業をはじめとするサービス業の人手不足に至ることになる。

誰が好き好んで安い賃金で過剰なまでのサービスを強いられる仕事に就くものか。普通に考えれば分かることである。

 

話はそれるが、教育問題についても、生徒を「顧客」ととらえる考え方が蔓延してから前衛化してきたと思われる。教育を単なるサービス業のひとつとしてとらえることが誤りの要因となっているのである。

生徒は「消費者」であってその行動様式が「最小の出費で、最大のコストパフォーマンス」を求めるようになると、教育現場は崩壊する。

教育は市場原理の埒外にあると認識する必要がある。

 

「お客様は神様」ではないのである。

客とサービス提供者はあくまで対等な関係にある。売り手は適正な価格で適正な商品やサービスを提供すればそれで事足りるのである。買い手側も対価に見合う商品やサービスを受け取れば、それで満足だとしなければならない。必要以上のサービスを要求することを慎むべきである。一流とされる飲食店やホテル等の価格はサービスの料金(いわゆるホスピタリティの価格)を上乗せされているのである。

 

笑顔や愛想はタダだという固定観念を突き崩す必要がある。

この考え方が蔓延し固定化すると、いわゆる感情労働に従事する人たちの負荷が青天井になる恐れがある。労働強化が際限なく進み、それに反して賃金が上がらず、労働条件が劣悪なままだと、誰もその仕事に就かなくなる。典型的な例として、介護福祉の現場での人手不足はますます加速するだろう。

 

ホスピタリティや「おもてなしの心」は大切なものであることは僕にも分かる。

しかし、それらが独り歩きし、過剰なサービス提供を労働者に強いるようでは、それらの本質が損なわれてしまう。消費者の自意識が肥大化する弊害もある。

「お客様は神様」という言葉を死語にするときが来ている。

社会システムの機能不全は個人の資質向上なんかではカバーできないという件〈再掲〉

教育や労働の現場で何か問題が起こると、責任者は個人にその責を負わせて収束を図ろうとする。再発防止のために研修や教育を徹底すると判を押したように答える。

システムの歪や不備を放置したままでは根本的な解決にはならないことは火を見るよりも明らかなのにである。

 

初出 2018/3/29

 

この社会には様々な矛盾や歪みが存在する。

その多くは既存の社会システムが機能不全に陥っていることに由来する。

厄介なのはシステムの綻びがなかなか可視化せずに取り返しのつかない状況になってようやっと多くの人たちが気づくことである。

 

ある領域でのシステムの機能不全が白日の下に晒されると、多くの場合その綻びをなんとか取り繕おうとすることしかされない。システム自体が不調に陥っている根本的な原因を追究することなく、当事者のがんばりや資質の向上なんかで乗り切ろうとするのである。

 

貧困問題、経済的格差の拡大は無視できない段階に至っている。

これらの問題は明らかに政策の失敗によるものである。富が偏在し、再分配政策がまともに機能していないのである。しかしながら、社会的な強者や支配層に連なる者たちは自己責任によるものだと強弁する。

 

昨今の教育問題にしても様々な要因はあるが、教育の劣化は新自由主義的な政策によって引き起こされている部分が大きい。

教育制度や理念そのものに瑕疵があるのに、個々の教員の資質や生徒のやる気や意欲や資質の向上をもってして事足れりとするのは明らかに間違っている。

 

働きすぎ、過労死・過労自殺等の問題にしても同様である。

個々の労働者の意識改革でお茶を濁すようではいつまでたっても良い方向には向かわない。この社会を覆っている労働観(労働至上主義や勤勉至上主義等)に基づいて設計されているシステムそのものを変えなければ、根本的な解決は叶わない。

 

確かにかっちりと構築されているように見えるシステムの再構築は困難なことである。

元々のシステムによって恩恵を受けている人たち、既得権者が多くなればなるほど再構築を阻む圧力は強くなる。

 

もうそろそろ社会システムの機能不全を個人の頑張りや意欲で補って良しとするようなことはやめにしないといけない、と僕は思う。

システムを構築する者、既存のシステムを固守し既得権にしがみついている者の責任逃れにしかなっていないのだと知るべきなのである。

個人の資質向上の営為は続けるべきなのは当然のことである。しかし、それはシステムの綻びを隠蔽するためになすことではない。ひとりひとりがより良き生を全うするためのものなのである。

 

機能不全に陥ったシステムの再構築の主体を「お上」のみに頼っていてはどうにもならない。そのことは理解はしているが、根源的な解決策は僕には分からない。

粛々と自分のなすべきことをやり続け(資質の向上に資することも続けながら)、ひとりひとりの声は小さくても「声を上げ続ける」しかない、としか言えない。

システムの再構築は大掛かりな営みだけれども、そのベースとなるのはやはりひとりひとりの日々の営みの積み重ねしかないのだから。

 

 

  

下り坂をそろそろと下りていこう、という件

僕は中年のオッサンである。これからは年々体が衰えてくる。右肩上がりの成長は望めないし、またそんな生き方もできない。

死に一歩ずつ近付いているという実感がある。若いころのしなやかさや瑞々しさが失われて久しく、それらを懐かしむ心境に至っている。

 

僕はもう、上り坂を上り終えて下り坂を下りているのである。

成長至上主義的イデオロギーからすると、僕はもう「終わっている」人間である。

経済成長に資することもなく、カネを稼ぐ力もほぼない。

しかし、僕は「終わっている」とは露ほどにも思っていない。

 

下り坂をそろそろと下りていると、それはそれで味わいがあるものである。

上り坂では見ることのできない風景を見ることができる。

上り坂では出会えない人たちと出会うことができる。

成長や発展とはまた別の「成熟」を目指して、自分なりの生き方を全うすることができる。

人との無益な競争をしなくても済む。

支えあうことの大切さを知り、共生することの楽しさを知る。

自己実現とかやりがいといった言葉とも無縁となる。

 

僕は少々「かっこつけ」の面があるので、歳をとっても格好良く枯れたいという願望がある。ぎらつくこともなく淡々としていて落ち着きのある人間になりたい。

年長者であろうが若者であろうが、どのような仕事をしていようが、仕事をしていなくても、社会的地位とか肩書にとらわれずに常に相手をリスペクトできるような人でありたい。

 

一旦世間での競争から降りてしまうと、「負け犬」だとか「終わった人間」扱いされてしまう。経済成長至上主義や仕事中心主義に毒された人たちからすれぱ当然である。

しかし、それらはイデオロギーのひとつに過ぎない。絶対的に正しいわけではない。

偏った価値観に基づいた評価軸で人を断じるのは愚の骨頂である。

僕は僕の生き方や価値観が絶対的に正しいとは思わないけれども、間違っているとも思わない。僕の価値観を相手に押し付けることはしないが、誰かにその価値観を押し付けられるのを潔しとはしない。

 

僕の全くの個人的な考えなのだけれども、人生半ばを通り過ぎて、尚も競争に勝ち続けることにあくせくし、右肩上がりの成長を図る営為を続けるのは、何だかはしたないなぁと思ってしまう。上り坂をずっと上り続けるのはかなりしんどいのになぁ、たいへんだなぁとも思ってしまう。まあ、余計なお世話だとは思うけれども。

 

僕は死を迎えるその日まで、下り坂をそろそろと下りていく生き方を続けていく。

決して悲観することではない。

新しい何かに出会え、それらが楽しさや面白さをもたらしてくれるはずだとの確信がある。

楽観的に過ぎるかもしれないけれども、それはそれで面白いのでいいのである。

 

「自分磨き」をしても大抵はロクなことにはならないという件

僕は今、「成長」とか「自分磨き」とは無縁の状況にいる。

若いころはそれらにこだわっていた。

今日よりは明日、明日よりは明後日というように右肩上がりの成長を図ることが当然と考えていた。まったりと生きるということが考えられなかったのだ。

その当時、僕にとっての自分磨きとは職務上のスキルを向上させて、「稼ぐ能力」を上げて社会的地位を獲得するためのものだった。

 

一般論でいえば、自分磨きは正しいことである。

自分の資質を向上させる営みを続けることは全く正しいことである。

自分が属する共同体の中での立ち位置を確保し、自分がなすべき役割を正しく認識してそれを果たす。自分が成長すれば、役割や責任が大きくなり、その役割を果たすことによって承認欲求が満たされることになる。自分の存在意義を確かめられて、自分はここにいていいんだと思えるようになる。

 

ただ、世間で言われるところの自分磨きとは、いかに「稼げる人材」になるかとか、婚活で「売れる人」になるかといった類の自己利益の極大化を図るものである。

自己利益の増大化を志向すること自体は資本主義体制下での最適化戦略であり、悪いことではない。資本主義の社会で生き延びるためには自己利益を追求することが正しい生き方なのである。

ただし、忘れてはならないことがある。

それは、いくら自分磨きをして成長しても、その果実は会社の利益の極大化のみに吸い取られるのがオチであるということだ。会社による搾取量が増えるということである。

 

自分磨きを続けて「使える人材」になったとしても、結局は搾取される量が増えるという厳然たる事実が待ち受けている。

また、自己利益の増大のみに目を奪われていると、その成長には自ずと限界があるということだ。

自分磨きそのものはいいことではあるけれども、その目的を限定的にするとよい結果を得られないことが多々あるということだ。

 

僕の全くの個人的な意見だけれども、自分磨きの営為は面白く楽しく感じられるものであることが大切だと思う。また、自分にとっての最適な生存戦略を考え、実行するためのものであれば言うことはない。

自分磨きをすることによって、ちょっとだけ寛容になること、相手の立場に立って物事を考えられるようになること、危機的な状況に陥っても悠然と構えていられるようになること、などができるようになることが肝要なのではないかと思えてならない。

自己利益の追求だけでなく、それをちょっとだけ超えたものを求めることによって自分磨きのメリットは大きくなる。

 

自分磨きに励んでも、その結果はあまり芳しくないものになっている、と感じている人たちは多いのではないだろうか。それは近視眼的な自己利益の追求のみを目的にしているからである。

自分磨きを、より楽しく面白く、よりよく生きるためにし続ければ、また違った結果になると思う。ありきたりな結論で申し訳ないけれども。

「カネよりも命が大事」という当たり前のことを分かっていない人が多くいるという件〈再掲〉

カネと命を天秤にかけることは本来ならナンセンスなことである。

命よりもカネを優先順位の高位に置く人のことを守銭奴という。

昔は守銭奴は蔑称だった(今もその名残はある)。

守銭奴が大きな顔をできる資本主義システムは果たして良いものだろうか。

 

初出 2018/3/22

 

一番大切なものは自分の命である、というのは当たり前の話である。「命あっての物種」なのである。

カネは生きていくうえで大切なものではあるが、その優先順位は命よりも劣るもののはずである。

 

しかしながら、「命よりもカネが大事」と考えている御仁が多くいることも確かなようである。

無理もない話ではある。

資本主義体制の社会ではカネが至上の価値を持つものであって、命をカネに換える所業は否定されてはいない。

例えば原発の問題。

僕は反原発の運動の一部、イデオロギーを内包した活動には大いなる違和感を覚えるが、脱原発に舵を切らざるを得ないとの考えを持っている。

原発推進派の拠り所は原発が廃止されるとエネルギー効率が悪化し経済成長が阻害されるというものである。また、原発が有する膨大な利権を手放したくないという意図もある。いずれにしても、国民の生活の安全や命よりもカネが大切だということだ。

 

未だに無くならない過労死や過労自殺にしても、その根本にあるのは会社が労働者の健康や命よりも企業利益の確保が最優先事項としているからである。

財界がホワイトカラーエグゼンプションの導入や裁量労働制の拡大を目論んでいるのは人件費を削って利益の極大化を図りたいという理由からである。そこには労働者の健康や人としての尊厳は考慮されない。極言すれば、労働者が次々と過労死しても替えはいくらでもいて、労働者の命なんかよりもカネ儲けの方を優先するということだ。

多くの財界人・経営者は「命よりもカネが大事」という価値観を共有し、それが資本主義の社会では自明のことなのである。財界の利益擁護を党是とする現政権が続く限りこの状況は変わることはない。

 

今も昔も「人の命の価値」は重くはない。建前では人命は尊いというイデオロギーが流布しているが、実際は軽んじられている。

過労死に至った事案で会社側の責任が認められても、賠償額はそれほど高額にはならない。過労死した労働者の稼働能力に限定された額となる。それはそれで「合理的」な判断だと言えるけれども、その賠償額は会社にとっては(特に大企業にとっては)はしたカネに過ぎない。過労死を引き起こして負う賠償額と、労働者を死ぬまでこき使って得た利益を比較考量してみて後者の方が大となると、会社はどのような行動を採るかは自明のことである。過労死事件を起こすと一時だけその会社は世間の非難は浴びるが、時の経過とともに人々は忘れていく。電通なんかはその典型的な例である。

 

もしかすると多くの人たちは「カネよりも命が大事」ということを忘れがちになり、「命よりもカネが大事」という資本主義のドグマに毒されているのかもしれない。

自分の命があるいは人の命が一番大切なものであるという「常識」を血肉化して、カネの持つ魔力に相対しなければならないのではないかとつくづく思う。カネを稼ぎ、富をひたすらに蓄えることを至上の価値とする考えは決して品のあるものじゃないと、かつてはそうみなされていたように。 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します