カネと命を天秤にかけることは本来ならナンセンスなことである。
命よりもカネを優先順位の高位に置く人のことを守銭奴という。
昔は守銭奴は蔑称だった(今もその名残はある)。
守銭奴が大きな顔をできる資本主義システムは果たして良いものだろうか。
初出 2018/3/22
一番大切なものは自分の命である、というのは当たり前の話である。「命あっての物種」なのである。
カネは生きていくうえで大切なものではあるが、その優先順位は命よりも劣るもののはずである。
しかしながら、「命よりもカネが大事」と考えている御仁が多くいることも確かなようである。
無理もない話ではある。
資本主義体制の社会ではカネが至上の価値を持つものであって、命をカネに換える所業は否定されてはいない。
例えば原発の問題。
僕は反原発の運動の一部、イデオロギーを内包した活動には大いなる違和感を覚えるが、脱原発に舵を切らざるを得ないとの考えを持っている。
原発推進派の拠り所は原発が廃止されるとエネルギー効率が悪化し経済成長が阻害されるというものである。また、原発が有する膨大な利権を手放したくないという意図もある。いずれにしても、国民の生活の安全や命よりもカネが大切だということだ。
未だに無くならない過労死や過労自殺にしても、その根本にあるのは会社が労働者の健康や命よりも企業利益の確保が最優先事項としているからである。
財界がホワイトカラーエグゼンプションの導入や裁量労働制の拡大を目論んでいるのは人件費を削って利益の極大化を図りたいという理由からである。そこには労働者の健康や人としての尊厳は考慮されない。極言すれば、労働者が次々と過労死しても替えはいくらでもいて、労働者の命なんかよりもカネ儲けの方を優先するということだ。
多くの財界人・経営者は「命よりもカネが大事」という価値観を共有し、それが資本主義の社会では自明のことなのである。財界の利益擁護を党是とする現政権が続く限りこの状況は変わることはない。
今も昔も「人の命の価値」は重くはない。建前では人命は尊いというイデオロギーが流布しているが、実際は軽んじられている。
過労死に至った事案で会社側の責任が認められても、賠償額はそれほど高額にはならない。過労死した労働者の稼働能力に限定された額となる。それはそれで「合理的」な判断だと言えるけれども、その賠償額は会社にとっては(特に大企業にとっては)はしたカネに過ぎない。過労死を引き起こして負う賠償額と、労働者を死ぬまでこき使って得た利益を比較考量してみて後者の方が大となると、会社はどのような行動を採るかは自明のことである。過労死事件を起こすと一時だけその会社は世間の非難は浴びるが、時の経過とともに人々は忘れていく。電通なんかはその典型的な例である。
もしかすると多くの人たちは「カネよりも命が大事」ということを忘れがちになり、「命よりもカネが大事」という資本主義のドグマに毒されているのかもしれない。
自分の命があるいは人の命が一番大切なものであるという「常識」を血肉化して、カネの持つ魔力に相対しなければならないのではないかとつくづく思う。カネを稼ぎ、富をひたすらに蓄えることを至上の価値とする考えは決して品のあるものじゃないと、かつてはそうみなされていたように。