希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「カネさえあれば、幸福になる」というイデオロギーからそろそろ脱するときであるという件

街ゆく人たちに「カネがあれば、幸せである」かと問えば、そうではないと多くの人たちは答えるだろう。カネで買えないものが世の中には多くある、友情や愛情とか精神的な安らぎなどはカネでは買えないと。

とは言いながら、大多数の人たちは度量衡としてカネをいかに多く稼げるかという指標を用いていることに違和感を抱いていない。事あるごとに、ある人を判断する基準として年収とか保有資産とかを引き合いに出していて、そのことに反感を多少は持つことはあっても全否定はしない。

 

幸福度とカネの多寡はある程度の相関関係があるのは確かである。必要最低限の生活を成り立たせるためには幾ばくかのカネが必要であることは論を待たない。

実入りが少ないときは、「もうちょっとカネがあれば」という思いが強く、収入が増えたり臨時収入があったりすれば、とても嬉しくなる。

しかし、ある一定以上の収入に達すると、カネのもたらす恩恵は少なくなる。カネよりも別のもの、精神的なものや人とのつながり等に喜びを見出すようになる。

つまり、幸福度とカネの多寡は完全には相関関係がないということになる。

 

幸福度とカネには完全に相関関係がないとは頭で分かっていても、僕たちは資本主義体制下の社会に生活していて、そのシステムではカネをどれほど稼げるかが唯一の度量衡になっていて、僕たちはその事実を受け入れている。

カネを稼ぐ能力は、人がもつ様々な才能のうちのひとつに過ぎない。速く走れたり、絵がうまく描けたり、文章が上手く書けたり、勉強ができたりといったものたちと同質のものである。

でも、現行の社会システム下では、カネを多く稼げる者が称賛され、強者となり、現行システムの恩恵を多く享受できる存在となる。

 

資本主義体制の下で生きている限り、僕たちはカネをいかにして多く稼ぐかという競争に巻き込まれざるを得ない。学校教育でそのように馴致され、働きだしてからはいかに稼げるか(それはイコール役に立つか)を周囲から求められる。そして、時を経ると、いつの間にかカネを多く稼げば幸せになるかもと、思い込むようになる。

 

僕の全くの個人的な考えではあるけれども、僕の思う幸福の要素とは、友人がいること(人とのつながりがあること)、自分の居場所があること、家族と良好な関係を築いていること、苦痛ではない仕事をしていること、等々である。カネを多く稼ぐということはそれら以下の副次的要素であると考えている。僕のこのような考え方は現実から逃避した絵空事だとの批判を浴びるかもしれない。

しかし、カネばかりを追求してきた結果が、ある種の人々にとっての生きづらい社会となってしまっているという事実から目を背けてはいけないと思う。

 

今、若い人たちを中心としてカネ至上主義から脱した価値観を有し、そのような生き方を志向し始めている。これは良い、健全な流れだと思う。右肩下がりの経済状況に最適の生存戦略である。カネ、カネといった右肩上がりの経済成長を是とする前世紀の遺物的な価値観とは全く異なるものである。

もはや「カネさえあれば、幸福となる」というイデオロギーからシフトチェンジするときなのである。

僕は「自分を大きく見せない」ようにしているという件

僕は殊更に自分を大きく見せようとする人が苦手であり信用できない。

社労士事務所を営んでいるときに、僕は自分を大きく見せようとしている人たちにちょくちょく出会った。会社でこんな凄いプロジェクトを任されているとか、俺はこんな凄い人と知り合いだとかの自慢話を幾度となく聞かされた。

そんな時、僕は何だかなぁという感じでやり過ごすのが常だった。

 

自分を大きく見せようとする人たちの気持ちは分からないでもない。コンプレックスの裏返しでもあり、自信のなさをカバーするための虚勢でもあり、単なる自己顕示欲でもあり、というように要は自分の弱さを覆い隠そうとする営為なのである。

自分を大きく見せることによって、自分にプレッシャーをかけてより成長するための糧にするのならば罪はない。

 

僕は幼少の頃から自分を大きく見せることができなかった。そのような行為は何となく気恥ずかしかったからである。別に謙虚だったとか自制心が強かったからではない。

これはただ単に僕の性格・気質の問題である。

自分を大きく見せることによって、相手から大きな期待を受けることにプレッシャーを感じてしまうから、そのような言動を慎んでいたというのが正しい。

 

僕はダメ人間である。

ダメ人間は自分を大きく見せるような真似はしないものだ。

周囲の人たちからの低評価を甘んじて受け入れて、それを楽しんでいる。

ちょっとだけ悲しいものはあるけれども、そうすることによって生きやすくなっている。

自分を大きく見せて、それをずっと続けている人たちを見るとしんどいだろうなぁと同情してしまう。

 

自分を大きく見せようと躍起になっている人たちとは付き合いづらいし正直関わりあいたくない。しかし、そのような人たちを全否定をしたくもない。自分を大きく見せずにはいられない心情を誰もが持っている。それは人が持つ業のようなものだから。

 

僕はといえば、これからもずっと「自分を大きく見せない」ようにして周囲の人たちと接していくだろう。

繰り返しになるが、これは僕が謙虚だからではない。

単なる僕のエゴである。

自分を卑下することまではないけれども、僕なんて取るに足りない十把一絡げな奴だと相手に伝えることで、余分なプレッシャーから逃れるのである。

僕にとって、有効な生存戦略なのである。

薄っぺらい正義がまかり通る社会は息苦しいという件〈再掲〉

底の浅い善悪二元論に今の世の中は毒されている。

正義の名のもとになされる弱者バッシングや少数派に対するバッシングが後を絶たない。

 

初出 2018/3/15

 

僕はほとんどテレビを観ない。

週刊誌の類も読まない。

芸能人や政治家のスキャンダルやゴシップは嫌いではないけれども、その報道姿勢が気にくわないのである。

それは相対的に弱い立場の人には執拗に絡み続け、強い立場にある人はスルーすることである。また、スキャンダルを起こした人に対して「正義」を全面に出して糾弾することである。薄っぺらい正義を振りかざして。

 

スキャンダルの定番のネタとして不倫問題がある。

確かに不倫行為はほめられたものではなく、「悪い」ことである。

しかしそれは不倫の当事者間の問題に過ぎないものである。第三者があれこれとやかく言う筋合いのものではない。色恋沙汰に他人が首を突っ込むのは「野暮」というものである。

 

他の定番ネタとしてはカネを巡るトラブルがある。借金未済とか税金の滞納で資産を差し押さえられたといった類の話題である。

これも不倫と同様に当事者間の問題に過ぎない性質のものである。

特に借金の相手が金融機関ならばこれは「契約不履行」の問題に過ぎない。借金を返さないような奴は人でなしであるかのように扱うのはおかしいことである。

それにたかだかカネを返す返さないといった話で人格攻撃をすることは明らかに間違っている。

 

マスコミ等が舌鋒鋭く絡むのは相手が弱い立場にいるときに限られるのが僕は気にくわない。

芸能人のスキャンダルでも、ジャニーズ事務所をはじめとする大事務所に所属する芸能人に対してはスルーする。力の弱い事務所に所属する芸能人に対しては完膚なきまで叩く。

力のある政治家(某総理大臣など)がどんなことをしでかしてもスルーする。

小さな問題や個人的な問題には異常なまでのバッシングを続け、大きな問題には目を背け続けているのである。

 

スキャンダルを起こした人たち(それも立場的に弱い人たち)への執拗なバッシングが「正義」の名のもとになされているというところに問題の根深さがある。

決して「悪意」からはなされていないのだ。ヘイトスピーチと同様に。

 

僕たちは「薄っぺらい正義」に身を置くことに快感を得ているのだ。それも自分とは直接利害関係のない「外側」にいる人間として安全地帯に身を置いて、身近ではない人をバッシングすることで普段の不満や欝憤を晴らすはけ口としているのである。

この「薄っぺらい正義」がいつかは自分に向けられるかもしれないということに思いをはせることもなく。

 

 

「強くなければ生きていけない」ような社会はいびつであるという件

僕たちは幼少時から様々な刷り込みをされている。

「強くなれ」

「早く自立して一人前となれ」

「人様に迷惑をかけるな」

「人に頼らずに一人で生きていけ」

・・といったように「強くなければ生きてはいけないぞ」と思い込まされる。

 

今のこの社会の空気は「弱い」ことを罪悪視している。人は誰もが弱さを抱えていて、それをどうにか手懐けながらどうにかこうにか生きているということを忘却の彼方に追いやっている。

強さに対する単純な信奉ほど怖いものはない。

強いことが正義であり善であるとされる社会はディストピアである。

 

一見そこそこ強そうに見えてこの社会の中で真っ当に生きている人たちも、ちょっとしたきっかけで弱い立場に陥ることになる。

病気や失業・勤め先の倒産やリストラ等によっていともたやすく弱者に転落する。

本当に生きやすく健全な社会であるかは、その社会の中で最も弱い人たちをどのように処遇しているかで判断できる。

弱者を排除し棄民化しているような共同体はたとえどれほど経済的に豊かであってもまともな共同体ではない。

 

社会ダーウィニズム的な価値観に覆われた社会では「強くあれ」というプレッシャーが成員にかかり続ける。

競争に勝ち残った者だけが果実を享受できる。役に立たないと思われる人たちに居場所はない。一旦、「負けた者」とか「弱者」とのレッテルを貼られると、浮き上がる手立てを奪われてしまう。このような社会は地獄である。

 

資本主義体制は「カネを稼ぐ能力がある、強者」が利益を独占するシステムである。経済成長に大いに貢献する者が強者となり正義となる。

資本主義が内包する価値観を盲目的に信奉すれば、先ほど述べた社会ダーウィニズム的な価値観を良しとするディストピアとなる。

 

多くの人たちは自分の弱さを隠して、表面上は強い自分を演じ続けている。

助け合い、「共生」を密かに望みながらも、そんなことを一旦言挙げすると競争社会から脱落するのではないかという恐怖心を抱いている。その人々の持つ恐怖心を原動力にして資本主義体制は維持発展し、経済成長至上主義イデオロギーが拡散していく。

 

本当に生きやすい、健全な社会とは「強くなくても、弱くても、後顧の憂いなく生きていける」社会である。

人の持つ本質的なもの、つまり弱さから目を背けずに、弱さを肯定した人間観が根底にある社会がまともで健全な社会である。

ある社会の中で最も弱い立場にある人たちに対しての優しい眼差しを欠いた共同体はいずれは崩壊する。

人の持つ弱さを否定した社会に明るい未来はない。

人は自分が「有用」な存在だと思えると、自己肯定感が保たれるという件

人には承認欲求がある。

誰かからあてにされ、信頼されるとそれだけで嬉しい。

自分が誰かのために役立っていると、共同体の成員としての役割が果たせていると充実感を得ることができる。

しかしながら、誰かの「役に立っている」かどうかばかりに拘泥すると、時として精神的に追い詰められることがある。自分が役立たずな存在だと思ってしまったら(本当はそうでもないのに)、自己肯定感が損なわれてしまうことになる。

 

僕は誰かのために「役立つ」ということに殊更こだわらないメンタリティも時には必要なのではないかと思っている。

僕の全くの独りよがりの感覚なのだけれども、「有用」な存在であればいいのではないかと考えている。「有用」であるというのは直接的に役に立っていなくても、その人がいるだけで周囲の人や属する共同体に何らかのメリットが生じるといった感じのものである。

ある会社で直接的な利益をもたらしはしないけども、その人がいるだけで組織が活性化するといったタイプの人がいるとすれば(組織の人たちのモチベーションが上がる、宴会が盛り上がる等)、その人は有用な存在である。

野球のチームで技術的には劣るけれども、チームの雰囲気を盛り上げるのに長けているとか、雑用を黙々とこなすとかいったタイプの人も有用な存在だといえる。

 

かつて、名経営者や名監督といった有能なリーダーは組織を活性化させるような有用な人を重用していたという。直接的に組織に利益をもたらす人たちばかりを遇するのではなく、それ以外の目に見えない形で組織に貢献する人たちを決して見捨てたりはしなかったのである。

また、組織や共同体においても「縁の下の力持ち」的な有用な人がいればこそ、組織や共同体の力が強化できたのである。

昨今はこのような地味な貢献を果たす人たちを正当に評価していないような気がする。可視化された業績や成果によって人々を選別する傾向が強まっているのではないだろうか。いわゆる「できる人」ばかりを集めても組織や共同体は活性化しない。

 

人にはそれぞれ向き不向きがある。

人によってはビジネスシーンにおいての目に見える形での力量が劣っている場合もある。その手の人たちは排除されたり低い評価を与えられて「できない奴」というレッテルを貼られるだけでていいわけがない。

また、病気や高齢、障害を負ったりして健常者よりもある面で(特にビジネスの面で)力量が劣る場合もある。そのような人たちは決して無用な存在ではない。それらの人たちがいることによって家族の絆が強まったり、弱い立場に置かれた人たちへの思いやりが芽生えたりすることが多々ある。それらの人たちはやはり有用な存在なのである。

 

僕たちは「自己肯定感」があれば、世知辛いこの世の中を渡っていけるという感覚を持ち続けることができる。

自分が「有用」な存在だと意識できれば、この自己肯定感を損なうことはない。

人は誰もが「有用」な存在となれるはずだと僕は強く確信している。

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