教育や労働の現場で何か問題が起こると、責任者は個人にその責を負わせて収束を図ろうとする。再発防止のために研修や教育を徹底すると判を押したように答える。
システムの歪や不備を放置したままでは根本的な解決にはならないことは火を見るよりも明らかなのにである。
初出 2018/3/29
この社会には様々な矛盾や歪みが存在する。
その多くは既存の社会システムが機能不全に陥っていることに由来する。
厄介なのはシステムの綻びがなかなか可視化せずに取り返しのつかない状況になってようやっと多くの人たちが気づくことである。
ある領域でのシステムの機能不全が白日の下に晒されると、多くの場合その綻びをなんとか取り繕おうとすることしかされない。システム自体が不調に陥っている根本的な原因を追究することなく、当事者のがんばりや資質の向上なんかで乗り切ろうとするのである。
貧困問題、経済的格差の拡大は無視できない段階に至っている。
これらの問題は明らかに政策の失敗によるものである。富が偏在し、再分配政策がまともに機能していないのである。しかしながら、社会的な強者や支配層に連なる者たちは自己責任によるものだと強弁する。
昨今の教育問題にしても様々な要因はあるが、教育の劣化は新自由主義的な政策によって引き起こされている部分が大きい。
教育制度や理念そのものに瑕疵があるのに、個々の教員の資質や生徒のやる気や意欲や資質の向上をもってして事足れりとするのは明らかに間違っている。
働きすぎ、過労死・過労自殺等の問題にしても同様である。
個々の労働者の意識改革でお茶を濁すようではいつまでたっても良い方向には向かわない。この社会を覆っている労働観(労働至上主義や勤勉至上主義等)に基づいて設計されているシステムそのものを変えなければ、根本的な解決は叶わない。
確かにかっちりと構築されているように見えるシステムの再構築は困難なことである。
元々のシステムによって恩恵を受けている人たち、既得権者が多くなればなるほど再構築を阻む圧力は強くなる。
もうそろそろ社会システムの機能不全を個人の頑張りや意欲で補って良しとするようなことはやめにしないといけない、と僕は思う。
システムを構築する者、既存のシステムを固守し既得権にしがみついている者の責任逃れにしかなっていないのだと知るべきなのである。
個人の資質向上の営為は続けるべきなのは当然のことである。しかし、それはシステムの綻びを隠蔽するためになすことではない。ひとりひとりがより良き生を全うするためのものなのである。
機能不全に陥ったシステムの再構築の主体を「お上」のみに頼っていてはどうにもならない。そのことは理解はしているが、根源的な解決策は僕には分からない。
粛々と自分のなすべきことをやり続け(資質の向上に資することも続けながら)、ひとりひとりの声は小さくても「声を上げ続ける」しかない、としか言えない。
システムの再構築は大掛かりな営みだけれども、そのベースとなるのはやはりひとりひとりの日々の営みの積み重ねしかないのだから。