希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「やってみなければ分からない」ことを理解できない人とは話ができないという件

僕は「やってみなければ分からない」をモットーにしている。

まあ実際にはなかなかそうはいかないけれども、何かひらめいたらまずはやってみることだと自分に言い聞かせている。

 

僕はこれまでに「やってみなければ分からない」と思い立って色々なことをしてきた。正規職員を辞めてフリーの講師になったり、社労士事務所を自営したり、福祉関係の仕事(ソーシャルワーカーとケアワーカー)にいきなり飛び込んだりしてきた。どれも経済的な成功には至らなかったが、貴重な体験をしたと自負している。

僕はこれまでの自分の生き方に全く後悔はしていない。ただし、傍からはフラフラしていて定まった生き方をしていない、と見られていたようだ。苦言を呈されたことも一度や二度ではない。

 

僕からしてみれば「やってみなければ分からない」ということは自明のことだけれども、どうやら世間ではそうではないらしい。

僕や何か新しいことを始めた僕の周囲の知人・友人たちは周囲からの同調圧力に悩まされたことが例外なくある。

この同調圧力とは「やってみなければ分からない」という態度は無責任であって、きちんとリスクを無くして、成功が確約された状況になるまで待ってから何かを始めろ、といった類のものである。ある者は善意で、ある者は妬みややっかみで、そういった忠告を行う。

 

先のことは分からない。

分からないからこそ、見切り発車であっても道を切り開こうとするのである。先が分からないからこそ面白いのだ。たとえ失敗するにしてもチャレンジすることに意味があるのだ。この当たり前のことを理解できない人たちが意外と多い。「安定」を人生の第一義としている人が多い。

確かにチャレンジに失敗すると、その後の生活に支障をきたすこともある。この社会はチャレンジや失敗に不寛容な社会である。しかしながら、安定なんて幻想に過ぎないと捉え、失敗しても生き延びる術を少しでも心得ておけば何とかなるものだ。

 

リスクをゼロに近づけて(そんなことはできないが)成功する算段をつけるまで待っていては寿命がいくらあっても足りない。そうこうしているうちに機を逃してしまい、何もせぬままに人生を終えてしまう。

僕はそんな人生は真っ平御免である。

僕は幻想に過ぎない「安定」というものにしがみつきたくない。

もちろん、安定した生活を営み、それを大事にしている人たちを否定しない。それはその人たちの生き様であり、人の生き様に口出しすることは愚の骨頂である。同様に「やってみなければ分からない」といった行動様式に則って何かを始めようとする人に口出しすることもまた愚の骨頂である。自分の価値観を人に押し付けてはならない。

 

僕はこれからも「やってみなければ分からない」という行動原理を大切にしたいと思っている。これと似たようなことをする人たちを素直に応援したいとも思っている。

この世では一寸先は「光」であることを信じて。

 

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世の中を変えるには目の前の問題と向き合うしか手立てはない件

僕は今の世の中に不満がたくさんある。

何に不満かをいちいち挙げていけばキリがないので、ここでは具体的なことは書かない。

常に漠然とした生きづらさを感じながら生きている。

 

生きづらさを軽減させるには自分自身が変わるか世の中が変わるしかない。

世の中の矛盾や歪みから目を背けて自分だけを変えるのも癪なので、僕は少しでも生きやすいようにこの世の中を変えたいと夢想している。

 

世の中を変える、という話になるときな臭いものになりがちだ。かつてのマルクス主義者や新左翼の人たちは武力革命を目指し、その試みは無残な結果となった。戦前の右翼によるテロにしても、結果としては軍部の台頭を招くことになり、いつしか社会の変革は片隅に追いやられてしまった。

僕たちは歴史に学ばなければならない。

急進的な社会の変革はやはり無理なのだ。

万が一社会の変革を成し遂げても、トップの腐敗は起こるだろうし、庶民の生活は省みられないまま特権層の既得権あさりの政治が行われる。

革命やクーデターによる「上から」の変革をなしても結局は世の中は変わらないのである。

 

このままずっと世の中は変わらないと諦めるのも面白くない。

自分の好きなように自由に生きても、邪魔されないような世の中にしていきたい。

ただ、僕ひとりが面白く生きてもつまらない。僕に関わる人たちと共に面白く生きていきたい。

 

結局は目の前に突きつけられた問題に向き合い、その都度克服し、少しずつ前に進むしか手立てはないのだと、僕は思っている。

自分ができることを着実にこなす。

例えば僕がコミットメントしている労働問題や貧困問題について。

劣悪な労働条件を改善するために職場で自分なりの抵抗をする。サービス残業を拒否したり有給休暇をきちんと取ったり休憩時間を確保したり、自分ができる行動を起こす。不当な扱いを受けたら労働組合を作ったり加入して会社と交渉する。

生活保護を受けている人たちをバッシングしない。失業して働いていない人たちをバカにしない。働けない人たちに対して「甘えている」とか「楽したいだけだろう」等の心無い言葉を吐かない。

時にはデモに参加してもいいし、署名活動に署名してもいい。

自分にできる範囲のことを無理せずに続けることが大切だ。派手なこと、目立つことなんかしなくてもいい。

 

世の中が少しずつ良い方向に向かうように漸進する、という立場を僕は取りたい。

このような立場をヨーロッパでは「保守主義」と言うらしいが、そういった意味においては僕は保守主義者である。

耳障りの良い言葉に騙されてはならない。

「正義」をすべて信じず、正義を疑うことも必要だ。

 

世の中を変えるには、身近な問題に真摯に向き合い、ちょっとずつ良い方向に変えていくことを繰り返すことしかないような気がしてならない。

 

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僕の「役に立たない」読書論・読書術を書いてみる件

僕にとって読書は趣味ではなく生活の一部となっている。

読書の時間を捻出するために今の働き方、生き方を選択したと言ってもいい。

社労士事務所を営んでいた頃の末期、僕はうつになっていて読書量が激減した。とても本を読む気になれなかったのだ。そんな状況が数年間続いたこともあり、今はその失われた時を取り戻すために以前よりも増して読書にいそしんでいる。

 

いや、「いそしんでいる」という表現は適切ではない。僕はなるべく読書を「楽しむ」ことにしている。

仕事に役立てようとか、自己啓発のためとかいった目的で読書をしていない。僕には知らないこと、知りたいことが沢山あってただそれらを知りたいがために読書をしているのである。

確かに多くの知識を取り込んで生きていくうえでその知識をアウトプットすることを読書の目的にしているという一面もある。このブログのネタを得ようとして何がしかの本を読むこともある。

でも、やはり僕は「楽しむ」ために読書を続けているのである。

 

僕の読書のやり方は3、4冊の本を同時進行で読み進めていくというものである。ジャンルがバラバラの複数の本を同時に読み進めている。

例えば今このブログを書いている時点で読んでいる著書はこのような感じとなっている。

・『待場の共同体論』 内田 樹

・『大衆モダニズムの夢の跡』 竹内 洋

・『学力とは何か』 中内 敏夫

・『7大企業を動かす宗教哲学』 島田 裕已

一冊の著書を集中して読破するのではなく、複数の著書を細切れにして同時に読んでいる。このような読み方にした理由は特にはない。あえて言えば、同時に何冊かの本を読んだ方が面白いから、といった単純な理由である。

 

僕はビジネス書や自己啓発ものといった類の著書は読まない。これは単に僕の趣味嗜好の問題である。ビジネス書に近い領域の組織論や労働問題の著作を読むことはある。自己啓発関係の本については昔から肌に合わない。

社労士事務所を営んでいるときは社会保障関連の実務書や労働関係の判例集、人事労務関連の専門書等を読んでいたが、これは業務遂行のために必要だから読んでいた。これらの大半の内容は忘却の彼方に去っている。すぐに役立つような知識は忘れてしまったけれども、そうではない理論的な事柄や包括的な内容については今でも覚えている。僕にとって十分にその当時の読書の効用があったということだ。

 

なぜ僕が読書にこだわるのか。

それは僕なりにこの社会の成り立ち、根本的な原理、生き延びるための智慧等を知り、得た知識や智慧をベースにして何か事あれば実践するためである。本で学んだ知識など役に立たない、という人もいるが僕はそうは思わない。実際に自分が経験できることなどたかが知れている。経験主義を否定はしないが、それにこだわってしまうと視野狭窄に陥るおそれがある。

それにすぐに役立たないからといって読書をやめる気にもならない。

一見役に立たないからこそ、読書をし続けている、ともいえる。

読書に即効的なものを求めるのはいかがなものか、と僕は思う。

 

読書に楽しさを感じられなくなった時、僕は生きがいを失ってしまうだろう。そんな時が死の間際まで訪れないことを僕は切に願っている。

 

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仕事を生活の中心とするな、という件〈再掲〉

僕はこのブログで「仕事は生活の一部に過ぎない」と繰り返し主張してきた。

仕事が絶対的にプライベートよりも優先する、なんて考え方は歪である。

仕事中心の生活が当たり前だというのもイデオロギーもどきに過ぎない。

 

初出 2017/1/10

 

表題の言葉は僕のオリジナルではない。

ニートや引きこもり支援をしているニュースタート事務局を主宰している二神能基さんの著書で用いられている言葉である。

説得力のある名言なので引用させていただいた。

 

多くの人たちは仕事が生活の中心となっていることを自明のものとしている。

趣味や社会活動の時間は仕事をやりくりして捻出するように、何事も仕事ありきで考えがちである。このことを半ば常識であると捉えている。

自分の仕事に支障が出るようなことは極力排除するようにしている。

自分の仕事以外の活動のために有給休暇を取ることは何となく憚られるような風潮がある。

仕事を「公」のものと考え、滅私奉公をすることがまともな社会人である、という一見古臭い考え方が未だに残っている。

 

僕は何度もこのブログで仕事は人生の一部に過ぎない、と言ってきた。

この仕事観、人生観、価値観はあくまで僕個人が持っているものなので絶対的に正しいとは言えない。仕事=人生だとの価値観を持っている人たちを否定するものではない。自分の仕事に全精力を注ぎこむ生き方を選んだ人たち、そんな仕事に巡り合った人たちはある意味幸せである。

しかしながら、仕事一筋の人生は何となく歪である、偏っていると思えてならないのだ。もし、その仕事を失ったり、仕事ができなくなる状況に陥ったときにどうするのだろう、と心配になってくる。

 

殆どの人たちは自分の生活を営むために何らかの形で仕事をしなければならない。雇われる形であれ、フリーランス・自営であれ。

元々は生活費を稼ぎだすための手段として仕事をしているはずだ。仕事が人生の目的になっているわけではないはずである。

巷では仕事を通して自己実現を図るだの、仕事が人生を決めるなどといった言説がまかり通っている。よくよく考えてみるとおかしいことである。会社は利益を追求するために存在するのであって、労働者個々の自己実現なんて関係のないことである。労働者は会社に「搾取」されることを前提に自分の労働力を売っている、それ以上でも以下でもない。「自己実現」の類は会社が労働者を統制するための道具に過ぎないのである。

 

人々の生活は仕事の場以外の家庭や地域社会、様々なコミュニティでの営みも大切なものである。言い換えれば、自分の「居場所」を確保し、そこで自分の役割を果たして他者に承認され自身の存在意義を確かなものとするのである。

仕事の場以外に自分の居場所がない状況に陥ると人生の幅が狭まるし、何より生きづらさが増幅することになる。仕事を生活の中心とすると容易にこのような状況に陥ることになる。

 

今は、あるいはこれからは仕事を生活の中心としないような生き方を選択することがより良い人生を送るためのひとつの方法となる、と僕は思っている。

会社や役所等の組織はその成員に仕事中心の生き方を強いて、組織の論理に絡め取ろうとする力学を働かせる。放っておけば個々の「私」の領域をどんどんと侵食してくる。そして次第にそれに抗う気概や気力を奪ってしまう。

フリーランスという働き方を選んだ場合でも、仕事中心の生活をしていると同様のことが起きる。

 

僕は「仕事を生活の中心となるな」という言葉を常に心に留め置いておこうと思っている。労働至上主義イデオロギーに毒されないためにも、勤勉至上主義イデオロギーに抗うためにも。

人に何と言われようと、仕事だけの人生で終わりたくない。 

ダメ人間だと自覚すればするほどワクワクしてくるという件

僕はダメ人間だと自覚している。このブログでも何度も自分のダメさ加減を書いている。人から「いやぁ、ダメ人間なんかじゃないですよ~」とかなんとか言われたいとは思ってはいない。

でも、「あんたは無価値な人間」だとか「下劣な人間」とか言われるととても腹が立つ。ダメ人間であっても、人としての尊厳とか矜持とか誇りなんかには敏感なのである。

 

僕は40代のはじめの頃まで自分を高付加価値のある人間だとか役に立つ人間だとかにしようとあくせくしていた。他者から優秀な奴、できる奴と見られたかったのだ。常に理想と現実とのギャップに苦しめられていた。現状を打破しようともがいていた。

あるときふいに「どうでもいいや」と開き直ることにした。成長至上主義的な考え方を拒否することにした。やりがいのある仕事なんて幻想にすぎないし、人は仕事によってのみ成長するなんてありえないとの結論を得るに至った。全くのひとりよがりな考え方だけれども。

 

自分のことをダメ人間だと規定することは全然悲しいことではない。ただし、自己肯定感を持ったままでなければならない。自己否定を伴ってダメ人間であると自分を規定してしまうとドツボにはまることになる。ダメ人間ではあるけれども、ちょっとは見どころがある、この世の隙間で存在し続けてもよい、と自分の存在を肯定する気持ちを持つことがキモである。

世間で言うところの真っ当なレールからは外れているけれども、谷底には落ちていない。レールの周りに広がる平原を自由に彷徨しているだけなのだ。

 

自分がダメ人間であることを自覚し、自分に対する期待値が低いと現実に押しつぶされることがなくなる。

他者からの評価に気を揉んだりする必要はない。世間からの同調圧力にさらされても、どこ吹く風と受け流す。真っ当とされる生き方、こうあるべきだという生き方なんて所詮は多数派の人たちが勝手に作り上げた幻想に過ぎない。多数派が常に正しいとは限らない。

もし、誰かが僕のことを嘲るのならば、好きなようにさせておく。可哀想な奴だと同情しながらも。

人が人の生き様にあれこれ口出しすることは筋違いであり愚行である。

 

僕はダメ人間であるがゆえに持つことができたものの見方というものを大切にしたい。

世間で流布している常識や良識といったものの根拠が実は確固としたものではないこと。

真っ当とされる生き方や働き方なんて、支配者層にとって都合のよいものに過ぎないこと。

ひねくれたものの見方が時として本質を衝くことだってあるのだ。

 

ダメ人間として生きていると面白いことにたくさん出会う。

少々の悩み事なんて笑い飛ばせてしまう。そもそも悩むこと自体がそんなにない。

僕はもっともっとダメ人間を極めたい。

 

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