希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

一斉に「できる人」になろうとする競争に飛び込むと疲弊するという件

僕は競争そのものを否定しない。

競争があってこそ生み出されるものが多くある。

けれども、競争によって失われるものもまた多くある。

 

資本主義体制下の社会では競争が前提となっている。

ミクロのレベルで見ると、多くの人たちは会社という組織に属し、そこで出世・生き残りの競争にさらされる(フリーランスでもやはり生き残り競争がある)。

「できる人」だと他者から評価されようと必死になって働く。

仕事ができるかどうかがその人の価値だという決めつけが未だに残存していて、多くの人たちはその決めつけに右往左往している。

 

良い学校を出て、良い会社に入り、結婚して子を得る、といった画一的な価値観はもう崩れているという言説もあるが、未だに強い規範として残っているように思われる。

 

「できる人」でなければならない、「できる人」になるように粉骨砕身仕事に打ち込まなければならない、といった価値基準が大勢を占め、それに均一化されると非常に殺伐としたものになる。

 

「エコロジカル・ニッチ(生態学的地位)」という生物学の述語がある。

同一の空間に生物がひしめいて、限定された資源を分かち合っているときには種によって活動時間や食性を異にする方がそのシステムは安全となる。そのため生物はサイズや機能や生態を多様化しているのである。

僕たちは有限である経済のパイを分かち合っている。

皆が正社員という働き方を志向し、地位やカネを至上の価値として求めるような均一化した価値基準のもとで行動していては大多数の人たちがシステムから脱落し、また疲弊する。そして脱落した人たちの受け皿が十分にないときには悲惨な状況に陥ることになる。

エコロジカル・ニッチという考え方を類比的にとらえる必要がある。

 

経済のパイが無限にあると錯覚し、経済成長が至上の価値だととらえて、人々が際限のない競争に没頭するとその社会は衰退し下手をすると崩壊に瀕することになる。

人も生物の一種であるのなら、「棲み分け」をしなければならない。共存共栄を図らなければならない。

自立や自己責任を殊更に強調するのではなく、助け合い・相互扶助的な支え合いの精神を失ってはならないのである。

 

均質化された価値基準下での過当な競争、分かりやすく言えば他者よりも「できる人」に皆がなろうとする行動原理を少しでも疑ってみることが必要なのではないだろうか。

自分が働きやすい、生きやすい「場」をそれぞれが見つけ、その場が多く存在するような社会となるように僕たちひとりひとりが仕向けることが大切になってくる。

同調圧力が強い今のこの社会ではなかなか難しいことではあるけれども、あながち無理筋の話ではないように思う。散発的に局地的に新しい動きが胎動している。今はマイノリティでか弱い胎動であっても、僕は希望を捨ててはいない。

 

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「自分らしさ」って本当に大切なものなのかという件

人は誰しも世間のしがらみに縛られずに自由に好きなように生きたいものだと思う。

世に出て働くようになると、自分を押し殺す場面が増えてくる。我を通すと人間関係が壊れたり、仕事が立ち行かなくなったりする。

 

世に多く出ている自己啓発もので相変わらず人気があるのは「自分らしさ」を大切にしろ、「自分らしさ」を見つけようなどといった「本当の自分探し」に類するものである。

多くの人たちは自分らしく生きていないことによってあれこれ悩みが増えて、自分らしさを見失っているからこそ実りのない人生を送っているといった言説である。

一見もっともらしい物言いではある。

人は皆それぞれ個性があり、それぞれに素晴らしい人生が待っているという。とても耳障りの良い言葉である。

 

僕はこの手の言説が苦手であり、はっきり言えば嫌いである。

そもそも「自分らしさ」とは何なのか、その定義が曖昧である。仮に「自分らしさ」なるものがあるとしても、それが大切なのかは甚だ疑問である。「自分らしさ」を至上の価値として、それを追い求める「自分探し」的な行為が果たしてその人の生き方を実り豊かにするのかも疑問である。

 

「自分らしさ」の前提には本当のあるべき姿が存在するという考えがある。今の生き方は本来の自分の姿ではなく、自分はもっと輝く存在であるべきだという妄信がある。

僕から言わせると単なる自意識過剰であり、傲慢である。現に顕れている自分が紛れもない本当の自分でありそれ以上でも以下でもない。

 

もし、今の自分に不満があり変えたいのならば、プロセスを踏んで一歩一歩階段を昇るしか手立てはない。それは地道なものだし時には辛いものである。

「自分らしさ」を表現したいのならば、周囲の人たちからある程度の評価や評判を得るしかない。

あるいは他者との関わりをすべて断ち切るしかない。

 

僕はこのブログで「好きなように生きたい」「自由でありたい」とは言っているが、決して「自分らしく」ありたいなどとは一言も言っていない。

「自分らしさ」という言葉に欺瞞や胡散臭さが潜んでいると感じ取っているからだ。

「自分らしさ」の中に独立独歩の気概が感じられず、絶えず他者の目を気にする小市民的小心者に過ぎないと思えて仕方がないのだ。

 

「自分らしさ」なんて幻想に過ぎないものである。

常に自分の頭で考え、群れることをせず、他者からの評価に一喜一憂などしなければ、「自分らしさ」なぞを超えた自分という存在が自然と確立される。

 

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強いリーダーなんて要らないという件〈再掲〉

僕は強いリーダー待望論に強い違和感を抱いている。

自分で決めることを忌避し誰かに決めてもらうことを良しとするメンタリティが嫌いだからである。

リーダーの良し悪しは強いか弱いかという単純な物差しで決めるべきものではない。

 

初出 2017/1/5

 

混沌とした世の中になってくると人々は強いリーダーを求めがちである。

確かに昨今のこの国のリーダーたちは不甲斐ないと見えるし、実際にその資質が疑われるケースが多発している。

僕は「強い」リーダー待望論に懐疑的である。

リーダーに強さばかりを求めると取り返しのつかない事態に陥るのではないか、と心配になるのである。

 

僕は「誰もがリーダー」なんて悪しき平等主義にも拒否反応を示す。

やはり、リーダーとしての資質を持つ人が人の上に立つべきだと考えている。

僕の個人的な意見なのだけれども、リーダーとしての資質は次のようなものだと考えている。

まずは社会的な弱者とみなされる人たちの思いや立場を理解できること。「共感」というレベルまでは要しない。自分が強者であることを自覚しつつ強者の目線のみでものごとを捉えないことである。

次に自分とは異なる意見や思想、立場の人たちを包摂し、時にはそれらの人たちの利益に資する行動を採ることができるような勇気を持つことである。一方的に自分の持つ考えを押し付けないことである。

 

上述のようなリーダー像は時として弱いリーダーと映るかもしれない。

しかし、自分の考えや理念をごり押しすること、特定のイデオロギーを普遍的な真理だとして人々に押し付けるような「強い」リーダーよりはよっぽどましである。

特定の思想、考え方のみが正しくて、それ以外のものは異端だとする狭量な態度は人々に不幸しかもたらさないことは歴史が証明している。

 

元々この国では「独裁者」を生み出さないようなインフォーマルなシステムとなっており、それを許さない人々のメンタリティが根底に存在する。

何も決められないことは問題であるが、強いリーダーの一存で誤った方向に行くことはもっと大問題である。

優れたリーダーとは多種多様な意見や考えを一旦受け入れて、場面に応じた解決策を選択する決断力を持った人だと僕は思っている。最適解を導き出す能力に秀でた人がリーダーたる者だともいえる。

 

どのような人がリーダーにふさわしいか、この問いに対する明確な答えはないように思う。

学校教育や社員教育で育まれるとは思えない。

仕事の場や学校で得た経験ももちろん必要ではあるけれども、それ以外の場での様々な経験で得たものがリーダーたる人の肥やしとなる、としか言いようがない。

歴史を学び、社会がいかにして成り立っているかを考察し、人と人との関わり方を経験して学ぶことなど、様々な知識と経験の積み重ねを経てリーダーとしての資質を備えるのである。

 

一見、「強そうに見える」リーダーには警戒すべきである。

強さ=器量ではない。

そして、強いリーダーに丸投げする態度は最も忌むべきものである。

強くは見えなくても、「支え甲斐のある」リーダーが最も適っているリーダーなのかもしれない。 

「つまらない仕事なんかない」とは経営者のたわ言に過ぎないという件

世の多くの仕事はつまらない仕事である、と僕は思っている。

これは全くの僕の個人的な意見である。この世のどの仕事も意味があってかけがえのないものである、という意見もある。これはこれで正しい。ただ、「僕にとって」つまらないと感じられる仕事が多いのだと言いたいだけなのである。

 

どのような仕事がその人にとって面白いかつまらないかは人それぞれであって明確な答えはない。

人の適性はそれぞれで異なっているので、要は自分にマッチしているかいないかの問題となる。人によってはつまらないと感じられる仕事であっても他の人にとっては面白く感じられるということはよくあることだ。

僕が嫌なのは経営者や上司が「つまらない仕事なんてない。だからどんな仕事でも喜んでやれ」という物言いである。

 

実際問題としてやりがいがあって楽しくて仕方がないというような仕事なんてほんの一握りである。そのような仕事をすることができている人は幸運であり幸福である。

大多数の人たちはたいして面白くもない仕事を生活のために仕方なくやり続けている。その面白くない仕事の裡にささやかな達成感等を見出して自分を奮い立たせながらどうにかこうにかやり続けているのである。

 

自分が就いている仕事が面白いかつまらないかは自分で決めつけてよいものである。他人がどうこう言う筋合いのものではない。

成功した経営者やビジネスマン(本当は「労働者」だがそれを認めたくない人種)が書いた自己啓発本なんかで「つまらない仕事なんかない」といった類のことが良く書かれている。それは自分が結果的に運よく社会的に成功したから無責任に言えるのである。つまらない下積み的な仕事も役に立ったと尤もらしい物言いをするのである。自分たちがたまたま成功し、その経験を一般論に帰するのは無意味である。

特に経営者は労働者が自分の仕事がつまらないと感じて勤労意欲をなくせば搾取できなくなり会社の利益が減ることを案じているだけなのである。そのためにつまらない仕事でも喜んでやるべきだという下らないイデオロギーもどきー勤勉が美徳だとかつまらなく見える仕事にも意味があるといった類のーを蔓延らせようとするのである。

 

世のサラリーマン(労働者と言った方が良いが)は自分がやっている仕事がつまらないと感じながらも歯を食いしばって職責を全うしようとしている。そんなサイレント・マジョリティの生き様を上から目線で断罪することは許されることではない。

この社会は決して面白くもない仕事を責任感をもって遂行している人々によって成り立っている。

僕はそういった物言わぬ人々はかけがえのない人たちだと思う。

ただ、いつまでも「物言わぬ」人たちでい続けることはどうだろうと思う。サラリーマン根性に骨の髄まで侵されてはならないと思うし、会社に全面的に隷従する生き方はどうだろうとも思う。

 

今は「物言わぬ」人たちは「つまらない仕事なんかない」なんて経営者や成功者が勝手にほざいているたわ言だと突き放してみる態度を身にまとい、「抵抗の精神」的なものを常に持ち続けて、隷従に抗うような生き方や働き方を模索し続けてもよいはずだ。

 

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現行の生活保護制度では貧困や格差は解消されないという件

ある人が生活に困窮しているときには生活保護給付を受けることができると目先の問題は解決できる。とりあえずの最低限の衣食住が確保できるからだ。

高齢者や障碍者を除いて稼働可能な人たちにとって生活保護を受けることのデメリットがある。就労の意欲を削がれるケースが多々あることである。昨今の労働環境を鑑みると低賃金で劣悪な労働条件の仕事に就かざるを得ない場合が多い。それならばしんどい思いをして働くよりもずっと生活保護を受け続けた方が良いと考えてしまっても仕方がない面がある。

稼働可能な人たちがなかなか「自立」できないジレンマが存在し続ける。

 

貧困に陥った人たちへの対症療法的な施策として、生活保護制度はある程度は有効である。最低限度の生活を保障して、命を長らえることができるからである。

問題は貧困の解消や格差の是正に資することができないのではないか、という点にある。

 

貧困に陥っている人たちを厳しく選別し、それらの人たちに現金給付を行うと格差が拡大する「再分配のパラドクス」という事態を招く。

つまり、ある人が貧困状態に陥るまで放置し、生活が極限にまで困窮してはじめて社会保障の適用(生活保護の受給)がなされる。その時には多くの場合ー例えば心身の病等によってまともな仕事に就けない状況に陥っているーことによって生活保護を受給しても、その状況から脱することができずに、最低限の生活を営むことがようやっとの状態に固定される。

 

今は仕事をしていてそこそこの生活を営むことができていても、病気や倒産・リストラ等によって職を失い、再就職ができなくなったら即貧困に陥ってしまう。女性の場合、特に専業主婦だった場合、配偶者と離婚して子どもを抱えていたら、やはり貧困状態に陥る可能性が高くなる。

確かに雇用保険制度はあるにはあるが、これは非正規社員ならば受給するためには一定の要件が必要となり、多くの非正規社員は対象外となっているのが現実である。

片親家庭に対する扶助制度もあるが、十分な額とは言い難い。

要するに社会のレールから外れると、食うに困るほどの貧困状態に陥らないと公的な支援は受けられないのである。

確かに「自助努力」はある程度は必要である。しかし、弱っている人たちに自助努力を強いるのは酷なことである。

 

現行の社会保障制度は正社員であることを前提として構築されている(しかもその内容は貧弱である)。

高齢、障害、失業のリスクに対する公的支援は貧弱ながらもある程度はなされている。これらに加えて育児に対する補助や住宅費に対する補助、子どもの教育に対する補助、失業者の公的職業訓練(その期間の生活保障)も手厚くする必要がある。これらのユニバーサルな対人サービスが絶対的に必要である。

これらの公的支援は個々の人たちの生活保障を行う、という点だけではなく格差拡大を抑制するという点においても必要なのである。また、現行の資本主義体制を維持するためにも、労働者の生活基盤の弱体化を防ぐ目的に適うものである。

 

今世紀初頭の小泉政権後の歴代の政権は社会保障制度の削減を政策目的に掲げている。

これは目先の損得に目がくらんだ愚策としか言いようがない。

前述のとおり、勤労者の生活基盤が危うくなれば現行の資本主義体制が危うくなることが理解できていないのである。新自由主義的な政策は庶民の生活基盤を破壊し、結果として資本主義の行き詰まりに至ることを理解できていないのである。

資本主義というものを突き詰めると(特に新自由主義を押し進めると)必ず格差の拡大と貧困が到来する。それらを是正するのが政治の役割なのである。社会保障政策は将来に対する投資なのである。

特に従来の「救貧政策」から「防貧政策」にシフトを移す必要がある。

人々が貧困に陥らないように様々なリスクに対応したセーフティネットの目を細やかに張り巡らせて、人々に「安心」感を抱かせなければならない。

生活に困った人たちが生活保護に至る前に様々な公的支援を受けられることによって負の連鎖から免れる、そんな社会を構築しないと未来はない。

 

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