希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

何でもかんでも「教育が悪い」と言っていればいいわけではないという件〈再掲〉

ある社会問題が多発するとすぐにその理由を教育に求める風潮がある。

青少年犯罪、ニートやひきこもり、競争力の低下、学力の低下等々は教育に問題があるとされてしまう。それは思考停止以外の何物でもない。

 

初出 2017/8/29

 

教育に関する話題となると多くの人は熱くなり持論を語りたがる。

受験競争、偏差値偏重主義、エリート教育の是非、学力低下等々手を変え品を変え様々なトピックが登場し、そのたびに自称教育評論家があちらこちらから湧き出てくる。

 

多くの人たちは過剰に教育に期待し、同時に教育(特に公教育)を信頼していない、というジレンマに陥っている。

教育さえまともならば、この社会の様々な問題は解決するという幻想を抱いている。ならば、「まともな教育」とは何かと問われれば、はっきりとした答えを出すことは困難である。民主主義教育をもっと徹底せよ、とか戦前の教育に回帰せよといった声がよく聞かれるが、この手のイデオロギーに毒された物言いがさらに教育の荒廃を招いている。

 

ある社会問題があがってきたときに例外なく「教育が悪い」「教育の問題」だという言説がまかり通ることになる。

猟奇的な事件が起きたら大抵は訳知り顔の自称識者が社会システムの不完全さ、教育不全だといった無責任なコメントを垂れ流す。

僕が強い関心を持っているニート、ひきこもりの問題にしてもその原因を教育に求める手合いも多い。

 

確かに教育の不全は社会問題が起きる要因のひとつだろう。

そもそも完璧な教育システムなんて存在しない。そんなものがあったらとても怖い。

教育、特に公教育は「健全なる市民(あるいは国民)」を育成するものだと言われている。シニカルな言い方をすれば「良質な労働者」を大量生産するために教育はある。この「健全な市民・国民」や「良質な労働者」というものが曲者なのである。「誰にとって」健全な国民であり良質な労働者なのかを今一度深く掘り下げる必要がある。

 

教育制度はこの社会において根幹をなしているのは確かではある。

明治維新の時のように近代化を押し進めようとする時代背景があるときには近代的な教育制度の有用性は高かったと思う。しかし、成熟した社会においてその当時と同じ感覚で教育を捉えればどこかに歪みが生じる。

当たり前の話だが教育だけでは対処できない多くの社会問題が次々と生まれてくるのである。

 

この社会で次から次へと生まれ出てくる様々な社会問題に対して、「教育が悪いから」だと切って捨てる態度は無責任極まりないものである。一種の思考停止状態に陥っている。

例えばひきこもりやニートの問題(そもそも僕は「問題」視することがどうかと思っているが)について、その根源的な要因を考察することなく単純に教育が悪いと断罪してしまえば何も状況は変わらない。教育の在り方をどのようにこねくり回してもニートやひきこもりの人たちは一定数存在し続ける。

 

教育によって社会システムを変える、人心を変えることには限界がある。 

教育は万能薬なんかではない。

教育に過剰な期待を寄せ、完璧な教育システムが存在するはずであって、それによって社会を安定させることができる、といった幻想を国家やあるいは人々が持ち続けている限り、何も変わることはない。「教育が悪い」と言って、そのことで解決策を提示していると思い込んでいる人たちの自己満足に過ぎないのである。