人はそれぞれ個性があり多種多様である。
のっけから当たり前のことを書いてしまった。
しかし、この世の中は当たり前のことが当たり前でないという事象が数多く存在する。
人はみな「ばらつき」があるのが当たり前だということもそうである。
僕は「多様性」という言葉があまり好きではない。
この多様性という言葉を多用し、一見リベラルな言説をする人たちも好きではない。
彼らの言う多様性とは所詮は自分の度量衡の及ぶ範囲でのそれであって、そこに欺瞞を感じるからである。
例えば発達障害(学習障害や多動性のある人、自閉症スペクトラムの人たちも)のある人たちに対して、いかに社会に適応させるかが問題視される。確かにこの社会で無難に生きる術を教えることは大切なことであるけれども、本当にそれでいいのか、とひねくれ者の僕は疑問に思ってしまう。
発達障害等の人たちが機嫌よく楽しく生きていくためには、時として社会規範からの逸脱を認め、無理に適応を促されることなしにいた方が良い場合もある。しかし、一般的にそれらは認められない。
ニートやひきこもりの人たちに対してその解決策として、就労支援を行い、労働市場に投げ入れて自立を促すことがよしとされている。労働至上主義的イデオロギーを信奉し画一化された価値観に基づいての、「善意」の支援は時としてニートやひきこもりの当事者を追い込むことになる(実際にそういったケースが多発している)。
これらのケースは実は「ばらつき」を認めたがらない、いわゆる真っ当な人たちからの一方的な価値観の押し付けに過ぎないのである。
僕は発達障害等にしてもひきこもりにしても、人の「ばらつき」が現れた事象のひとつに過ぎないのではないかと思っている。
世の中の均質化圧力によって、それらの人たちに「障害」や「病気」とかいったレッテルを貼り、異端視しているだけのような気がしてならないのである。
昔から発達障害等に類した行動様式を採る人たちはいたはずである。あるいはコミュ障と呼ばれるような行動様式の人たちも多くいたと思う。彼らにはそれなりの仕事があり、それなりに生活が送れていたのである。
資本主義が突き進み(「発展」という語は使いたくない)、「総サラリーマン化社会」つまり会社に雇われて働く人たちが多数派を占める社会になって、それに適応できない人たちが前景化してきただけの話である。
「ばらつき」をある程度許容していた社会から、均質化圧力が強まった結果として「ばらつき」が「あってはならない」社会に変化したのである。
雇われ人が大多数を占める現行の社会構造は一朝一夕には変わらない。
均質化圧力に常にさらされ続ける状況も続くだろう。
そうした中で、人それぞれ「ばらつき」があって当然である、という当たり前のことを社会全体で共有する手立てはいかなるものなのか、僕には分からない。
みんなの意識を変えようとかいった精神論に逃げるのは嫌だ。
社会システムの劇的な変化(例えば革命的な出来事の到来とか)も望まない。
ぎちぎちの社会から少し離れた場所にちょっとだけ「隙間」とか「ゆるさ」を作り出すような営為を当事者やその周辺の人たちが続けていくしかないような気がしている。
蟻が巨象を倒すような気の遠くなるような話だけれども、かすかな希望を信じて。