僕の日々の生活は淡々と過ぎていく。
心をときめかすような出会いも皆無であり、深い悩み事もない。
仕事をしない日は自室に閉じこもり、読書をするかラジオを聴くか動画を観て過ごしている。あまり外に出て遊ぶということをしない。せいぜいが行きつけの喫茶店に行くか古本屋巡りをするくらいである。
僕の日々の生活の様子を傍から見ると「怠けている」「生産性がない」などと言われそうだが、それはそれで全く構わない。
労働に全精力を傾けるなんて馬鹿らしい。
仕事が生きがいなんて全く思わない。
忙しいことを人に誇るなんてはしたない行為である。
僕はずっとヒマ人でありたい。
僕はわりとルーティンが好きであり、自分に「きまりごと」を課す過ごし方をしている。
就寝・起床の時間もほぼ一定している。
読書をする(ラジオや動画を視聴することも)時間や時間帯も一定である。
ブログを書く時間帯、それに費やす時間もほぼ変わらない。
僕は「何事も起こらない」日々が続くことを切望している。
時々、イレギュラーなことがあって自分にとって面白いことが起きることは大歓迎である。変化が激しい、血肉湧き上がるような事が連続するような日々なんていらない。
僕は30代の終わりころまで、平凡で退屈な日常に耐えられなかった。
仕事をするにしても常に刺激を求めていたし、プライベートにしても同様であった。
何か刺激的なことが起きないと生きている実感を味わうことができなかったのだ。
自分がする仕事はクリエイティブなものでなければダメだと思い込み、打ち込む趣味がなければ潤いがないとも思い込み、華やかな異性との交流がなければ味気ないものだと決めつけていた。こんなメンタリティではいつかは疲弊してしまう、ということは自明のことである。
僕は今、平々凡々な自分の日常生活を愛おしんでいる。
このブログでたびたび触れているように、僕は40代のあるときにキレてしまい、それまでの生き方をリセットすることにした。リセット後に辿り着いた境地が今のダメ人間的な生き方である。
僕は今の生き方が正しいとは思わないし、人に誇れるものではないと自覚している。しかし、居心地が良いのは確かである。
他者から高い評価を得られるか、世間から正しいと評価されるか、なんてことはどうでも良くなった。
僕がどのような生き方をするか、は僕が作り上げる「作品」である。
この「作品」の出来栄えは僕の死の瞬間に分かるものである。決してどれだけ富を蓄積したか、社会的地位を得たかといった経済至上主義的イデオロギーに毒された度量衡で決めつけて欲しくない。
特別なことが起きず平凡な日々を面白おかしく過ごすことに幸福感を抱く、といった生き様をひっそりこっそりとひとり自分だけで誇ることに僕は快感を覚えるのである。