僕は自分のことをダメ人間だとして受け入れている。
雇われて働くことができない、意識が低い、他人と比べることが嫌いでマイペース、といった感じで競争社会の脱落者である。
僕はよくこのブログでダメ人間であることを受け入れて生きることが楽になった、と書いている。これは半分が本当で半分は強がりである。
確かに自分のことをダメ人間認定すると楽なことは確かだ。
急き立てるように自己実現だの成長だのと言った空念仏を唱えることもなくなる。
でも、たまに本当にこのままでよいのか、と自分に問いかけることがある。
自分という人間が「役立たず」の存在である、ということを認めるのはなかなかに難しいくてしんどいことだ。大学まで出してくれて社会に出てからも色々と援助してくれた両親に済まないなという思いもある。
人は自分が属する共同体の中で何らかの役割を果たし、そこで自分の「居場所」を確保するものだと僕は思っている。果たして僕は自分に役割が与えられ、その役割を果たしているのか、と自問自答するとはっきりとイエスだと答えられる自信がない。
僕は自由だとか面白さだとかワクワク感だとかを殊更に追い求めているだけなのかもしれない。僕が嫌う利己主義的生き方を自分こそがしてしまっているのでは、と思ってしまう。
自分のためだけに生きていると、そこには自ずと限界がある。
自分以外の「誰か」のために生きてこそ、生きる力が湧いてくるのではないか、限界を超える力を得ることができるのではないか、そんなことをついつい考えてしまう。
僕はこの世間の片隅に自分の居場所を見つけて、その隙間で生き延びることさえできればいいと思ってきた。今もこの思いは変わらない(はずである)。
でも、時々、自分がなすべきことがあるはずだとの思いにも駆られてしまう。
社会の成員としてこの社会をより良きものにするためにこんな僕でも何か役立つことがあるのではないか、とついつい思ってしまうのだ。
僕は自分のことを未だに過大評価しているのかもしれない。
自分は単なるダメ人間ではないと、心のどこかで思い込んでいるのかもしれない。いや、そう思い込みたいだけなのだ。
等身大の自画像を描けない三流画家のようなものである。
正直な話、僕はダメ人間のままで一生を終えてしまうことに不安感を抱いている。
と同時にダメ人間であることに安住し居心地の良さを感じている。
これらのアンビバレンツな思いを手なずけながら日々を過ごしている。
これからもこの不安感と現状肯定的な思いを同時に抱きながら生き続けていくことになるだろう。
僕はそれでもいいと観念している。
もし、不安感がなくなれば、僕は本当に堕落してしまうと確信しているからだ。
僕は矜持と誇りを持ったダメ人間でいたい。
そんなことが本当にできるのかどうかはよく分からないけれども。