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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「楽しさ」を感じられない労働は「苦役」であるという件

働くということ 生きるということ

一般的にこの国の人たちは勤勉だとみられている。また勤勉が美徳だという価値観・労働観が浸透している。

多くの会社や経営者は「働く喜び」「働けることへの感謝」などを繰り返し説いて労働者を酷使している。

 

欧米では労働は苦役である、とされていたという。

ただ、プロテスタントの一部の派が勤勉が美徳であるということを教義に取り込み、「勤勉革命」が起き、産業革命へとつながり資本主義社会が誕生したと言われている。

ただし、欧米では労働は苦役だという考え方は根強く残っていて、一般的な労働者の働き方は仕事は生活費を稼ぐための手段に過ぎないと割り切ったものになっている。

 

僕はこの国の人たちが元々勤勉だったなんて嘘だと思っている。

勤勉が美徳なんて明治維新以降に近代国家を作り上げるために動員されたイデオロギーに過ぎない。あるいは功利主義的な思考法が紛れ込んできて個人の利益の拡大が善となり、そのためには勤勉さが必要不可欠となったものである。

 

「労働」なんて突き詰めて考えれば決して楽しいものではない。

資本主義体制下の賃労働では搾取され放題である。

雇われて働くと自分の好きなようには仕事ができないし、自分の好きな仕事もできない。労働者は会社に首根っこを押さえられていて、働く場所や職種さえも勝手に決められてしまう。

 

労働が全くの苦役であるなら話は簡単なのだけれども、時々「働く喜び」を感じたりするから話はややこしくなる。

クリエイティブな仕事をやり遂げて達成感を得るといった類の話は稀にある。これはこれで分かりやすい。一方で創造性とは対極にあるルーティン・ワーク的な仕事をやり遂げても達成感を得られることがある。自分なりに創意工夫をしたなら尚更である。

 

そう、僕たちは働くことが楽しいと感じることがたまにあるのだ。

たとえブラック企業で酷使されていてもこの種の楽しさを感じることがある。客観的な事実としては労働者が楽しさを感じて働けば働くほど搾取の量が増大する。一流とされる経営者は労働者に働く楽しさを感じさせるように仕向けて搾取量を増やし会社の利益の極大化を図るのである。

労働者の側としても、どうせ働くなら楽しく働いて給料をもらった方が良いと考える。これを合理的な選択だと思い込んでいる。ある会社のある部署で働いていて苦痛を覚えると人事異動によって解決しようとする。それでも楽しさを感じられないのならば転職して会社を変えることによって苦痛から逃れられると思ってしまうのだ。いくら会社を変えても労働者が持つ「宿命」からは逃れられないのは自明のことである。でも、それを言ったら身も蓋もない。せめて労働の喜びとまではいかなくてもささやかな楽しさを求めるのである。

 

労働者が大同団結してゼネストが行われず、革命なんて起きる気配すらないのは、労働者であり続けるメリットがあるからだ。あちらこちらに楽しさを感じられるような仕事がまだ残っていて、運よくそのような仕事に就く可能性が個々の労働者に開かれているからである。

楽しさを感じながら働ける労働者がいるうちは現体制はそのまま維持され続くことになる。

楽しさを感じられない労働は単なる苦役となる。

苦役と感じる労働が大半となった世の中になるとどうなるか、僕には分からない。社会の大変動が起きるか、ディストピアの世の中が続くかは人々が「変化」を求めるか「安定」を求めるかどちらが多数を占めるかで決まってくるだろう。

僕は「安定」なんて幻想に過ぎないと思っている。