僕たちが働くうえで決められたことだけをしていては評価されない。たとえマニュアル通りの単純作業であっても創意工夫を求められる。営業にしても事務系の仕事にしても接客の仕事にしても、それぞれ自己啓発や能力開発を強いられる。
仕事の遂行能力を高めることは当たり前だと考えられている。
人事考課にしても、「成長」ありきでそのシステムが構築されている。より高度の仕事ができるようになってこそ処遇が良くなると働く人たちは思い込んでいる。経営側は労働者の能力が上がらなければ生産性が高まらないし「搾取」する量が減ってしまう。極端な物言いとなるが、労働者の能力開発は会社の搾取する分を増やすためになされている。
現在の労働市場ーちょっとだけましな待遇を得られる仕事ーでは自分の能力を高める意欲のない者、実際に能力を高めることができない者は価値のない労働力とみなされる。ゆえにやたらと自己啓発だの能力開発が個々の労働者に課せられているのである。
「できないことができるようになる」ことは絶対的に善であり正しいことであるというイデオロギーが存在し、そのイデオロギーは労働者に過度の努力や勤勉を求める。
確かにできなかったことができるようになると気分が良くなる。勉強にしても仕事にしても。人は本来成長するものであって、できることが増えることを「快」と感じるような遺伝的プログラムが内蔵されているのかもしれない。
だとすると前述のイデオロギーは人が既得的に持つものを反映したもので正しいということになる。
仕事においての自己啓発や能力開発は当然に正しいものであって、それに抵抗する一部のひねくれ者は人として価値の低い落ちこぼれということになる。
僕はある程度の自己啓発は必要だと思う。
ただし、仕事に限定した自己啓発ではない。この社会システムの全体像を把握すること、どのような形で社会にコミットするかを考え既存の社会システムに批判的な視座を持ちつつより良い社会にするために自分に何ができるかを考えることなど、広い意味での自己啓発である。
仕事の遂行能力を高めるためだけの自己啓発・能力開発は単に会社の利益に供するためのみのものに過ぎない。それは人としての価値(嫌いな表現だが)を高めるものではなく、労働マシンとしてのスペックが高まったものに過ぎないと思えてならないのだ。人の営みのうちの一部が労働に過ぎないのにである。
できないことをできないままでいることももっともっと認めた方がいい。
より高度とされる仕事ができるようになることが本当に貴いことなのか、至上の価値があることなのか、疑問である。
できないことをひとつでも多くできるようにすることが正しいというイデオロギーは人々を袋小路に追い込むことになる。「成長神話」への妄信は人々を際限のない競争に駆り立て、殺伐としたものになる。
自己啓発は社会の一員としての自分の立ち位置を定めるためになされるものである。
何者かに急き立てられてなすようなものではない。ましてや会社の都合のみによってなされるものでもない。
できないことをそのままにしておくのも全くの自由である。
自己啓発は本来は辛く感じるようなものではない。
本来は楽しくて自由なものである。