僕は「勤勉」ではない、と自己規定している。
隙あらば仕事をサボろうとするし、実際によくサボってきた。
仕事や学校をサボると一時的な解放感を得ることができたけれども、同時に何となく罪悪感を感じたりもした。僕のようないい加減な奴でも勤勉は美徳だとの刷り込みがなされていたのである。
経済成長や資本主義体制の確立のためには資本家は労働者に対して「勤勉は美徳」であるというイデオロギーを強制する。怠惰は悪だとの刷り込みも同時に行う。
多くの勤労者はそれを受け入れ、勤勉でなければ真っ当な社会人ではないと思い込むようになる。
勤勉は善、働き者であることは何よりも増して良いことだという常識が広まり、多数派を形成するようになる。
労働に懐疑的になったり、怠惰であることは悪いことではない、といった類の言葉を吐くと、そのような人たちは少数派として多数派の人たちから圧殺されてしまう。
確かに勤勉であることは悪いことではない。
右肩上がりの経済状況の下では多くの果実を得ることができたのは確かである。特別な才能や才覚がなくても、勤勉に実直に働き続ければ人並み以上の生活が保障されたのである。
経済状況が変化し収縮に向かっている現在でも、このイデオロギーの残滓があり、このことによって多くの人たちが苦しんでいるように思えてならない。
昨今の経済状況下では、勤勉に働き続けていても、それが報われる可能性はかなり低いものとなっている。しかし、経営層はより一層の働きを求めてくる。報われることのない努力を強いている、といってもいい。世のサラリーマンの多くは、実りが少ない収穫だと分かっているのに、労働強化の波に晒されているのである。
勤勉は美徳だという価値観を根底から疑った方がいいように思う。
自らすすんで勤勉に徹しているというのは思い込みであって、何か上の方から強いられて踊らされているのでは、という疑いを持ってみることも必要だ。
働くことがイコール人生なのではない。労働や仕事は人生の一部に過ぎないものである。人生の一部に過ぎない仕事に全精力を注ぎこむということは愚かなことであるのでは、という視点を持ってみてもよい。
勤勉であるということはひとつの行動様式に過ぎず、それは絶対的に良いことでも悪いことでもない。
ある人が勤勉ではないというだけでその人そのものを否定してはいけないものである。
勤勉な「ふり」をしないと評価されないというのもどこかおかしくて滑稽だ。
この国の勤労者が勤勉だというのは幻想にすぎず、その幻想に捉われてあるべき行動規範として強いられているに過ぎないのである。
勤勉は美徳だというドグマが多くの人たちを追い込んでいる。
勤勉に働いたり勉強をしたりしなくても、何とか生きていけるものである、というゆるさがある社会が健全で生きやすい社会である。
がちがちの価値観に縛られた社会はロクなものではない。