希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「ズル休み」をすることは楽しいという件〈再掲〉

会社や学校をズル休みすることは楽しい。背徳感がつきまとう。

休むことは悪いことだという同調圧力が強ければ強いほど、ズル休みをしたくなる。

たかだか1日や2日のズル休みを咎めたてるような組織・社会なんてろくなものではない。

 

初出 2017/12/14

 

この社会では「休む」ことに対して寛容ではない。多少の体調不良では無理してでも学校や会社に行くことが当たり前のことになっている。ましてや「ズル休み」となれば、そんなことをしてしまいバレてしまったら極悪人の扱いを受けてしまう。一日や二日ズル休みをしてそれがバレたら人格攻撃に晒されることもある(僕の実体験である)。そんな怠け癖のある奴は社会では通用しないぞ、という説教を喰らうのである。

 

確かに会社の経営者や職場の管理者目線からすると、急に理由もなくサボられたら事業の運営に支障を来すことになるので、ズル休みなんかする人間は許されないことになる。まあ尤もな言いぐさではある。

しかしながら、一人や二人が急に抜けただけで事業運営に支障が来すのは、その職場のリスク・マネジメントがなっていないだけの話である。いつもギリギリの人員で仕事を回しているから、いざという時に対処できないのである。人件費をケチったことのツケが回ってきただけなのである。労働者の責任ではない。誰かが休むことありきで人員配置をしない会社が悪い、と働く者は開き直ればいいのである。

 

僕は学校や会社をとことんサボれと煽りたいわけではない。

あまりサボると内申書にも人事考課にも響くし、不利益を被るリスクがある。

けれども、一方で休むことを罪悪視する風潮には抗いたい。

多少の迷惑をかけても、気の乗らない時にはズル休みができて、そのことを殊更に責めたてない程度の「ゆるさ」がなければ息苦しい社会となる。

 

僕が「ズル休み」をすることの快楽を覚えたのは高校生の時だった。僕が通っていた高校は生活指導がいい加減というか殆どそれが無いという誠に素敵な高校だったのだ。

一日全てを休むということはあまりなかったけれども、面白くない科目の授業を中抜けするということはよくやっていた。僕が通っていた高校は城に隣接していていて、その城の周辺にはサボった学生がたむろするスペースが沢山あったのである。

この僕の出身高校のいい加減さというか自由さのおかげで、今のダメ人間である僕の基盤ができた、といっても過言ではない。

 

僕は働きだしてからも、時折ズル休みをしてガス抜きをしていた。働く前から薄々気付いていたことだけれども、僕はサラリーマンという雇われて働くという働き方がどうにも性に合っていなかったのだ。フリーで働くための経験もスキルもない。ならば、時々ズル休みをして息抜きをし、自分の精神のバランスを保つしかなかったのである。自己正当化ではあるれけども。

 

ズル休みにはいくつかの効用があると僕は思う(これも自己正当化だけど)。

ズル休みをすることによってリフレッシュできるとともに、同僚が働いているのに自分だけズルして休んでいる「疚しさ」も生じる。それらによってちょっとだけ明日以降の労働意欲が湧いてくる。

また、自分が休むことによって職場が少しでもバタバタすれば自身の存在意義みたいなものがあるのではという思いを抱くことができる。 

一方で、自分ひとりがいなくても職場は回るということも確認できる。過度のプレッシャーを感じなくて済むのである。

仕事なんかに全精力を注ぎこまなくてもいいという考え方ができる、と同時に自分も少しは役に立っているという思いを抱くことができる。

これらを総合して、仕事なんか人生のほんの一部に過ぎない、ということに思い至るのである。

 

何がしかの「疚しさ」を乗り越えて、ズル休みをすることが楽しくなれば、人生の達人に一歩近づくことになる、と僕は勝手に思っている。

ダメ人間の戯言だと思われても、でもある。

 

 

 

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