僕が勤め人をしているときは金曜日の夜だけが楽しみだった。明日からの土曜日と日曜日が休みだというだけで少しだけ心がウキウキしたのだ。
けれども日曜日ともなるとウキウキ感を喪失し、「明日からまた仕事か~」という思いに囚われ、明日からの仕事に備える態勢をとることになる。
サラリーマンたちは実は休みの日を「自由」に過ごすことができないのである。「仕事ありき」の休みなのだ。
「休み」=余暇は労働力の再生産のためにある、という事実がある。
資本側は労働者を酷使すればするほどもうかる仕組みとなっている。しかし、労働者を酷使しすぎると効率と生産性が落ちることになるので、適度に労働者に休日を与えるのである。労働者にとっての休みは資本主義システムの中に組み込まれているのである。
現代社会では休み・余暇は「消費者」として商品やサービスを費消することに費やされる。また、「意識の高い」サラリーマンと見られるためには休みの日を自己投資に充てて成長を図らなければならない、という言説も流布している。
所定労働日には当然に労働に従事し、休日は自由に休むことができず、労働のための下準備に費やさなければならない。サラリーマンに安息の日はない。
サラリーマン(労働者)であることの「息苦しさ」、あるいは労働がもたらす「息苦しさ」を生む要因のひとつは、休みが真の休みではないことにある。
雇われて働くようになると、自由になる日が全くなくなるか、あるいはほんの少しだけとなってしまうのである。
休みの日は仲間と集い、一日中深夜までドンチャン騒ぎをして、翌日の仕事は午前中はボーっとしていても咎められない。そんなゆるい社会を僕は夢想する。
目一杯遊ぶことや自由を満喫するために働くのであって、働くことが第一義ではない、というような社会であれば、と僕は夢想する。
しかし、現実の社会では、そんなことを口にすると、「できない奴」「変わり者」といった烙印を押されてしまう。
労働至上主義や勤勉至上主義的イデオロギーが支配的な社会では、休むことを重視したり、その休みを自由に使うことは許されないのである。
残念ながら、自分の休みは自由に使うものだ、と抗う術はない。サラリーマンを辞めて、狩猟採集民的な生き方を選択するしかない。でも、現実的にはそんな生き方は不可能に近い。
資本主義システムを採用している限り、労働者の「休み」は資本家にコントロールされ続ける。かといって資本主義に取って代わるような経済システムは今のところ見当たらない。
雇われて働いている限り、自分の休みは自由に使えないということを甘んじて受け入れるしかない。僕には休みを自由に使えるような名案は浮かばない。
自由に休みを過ごすためには、「自由な働き方」をするしかない。
言うは易しだが、真に「自由な働き方」を選んで進むこともまた難しい。フリーランスや自営にはそれはそれで雇われて働くことよりもしんどいことが多々ある。
やはり自分の休みを完全に自由に使えるようにするための名案や妙案を僕は思い付かない。