僕が一番嫌だなぁと思う死に方は過労死である。
働きすぎで死ぬなんて考えただけでもゾッとする。
人は生きる糧を得るために働くのであって、働きすぎて命を奪われるなんて本末転倒である。
自分の生命や心身の健康さらには尊厳と引き換えに会社の利益を増大させることに意味はあるのか、と問われれば多くの人は「否」と答えるだろう。しかし、現実社会では「死ぬまで働け」と社員に過剰な労働を強いる会社が少なくない。
僕は何も働くことに意味はない、と言いたいわけではない。
労働は生存のために必要不可欠な営為である。同時に労働によって得られるものは報酬以外にも色々とある。多くの人たちは働くことに喜びを見出したり、やりがいや生きがいを感じていて、それはそれで健全なことであると思う。
しかしながら、ものには限度というものがある。
労働がそれ以外の生活の領域を侵食する事態になると、労働が持つ害悪が前面に出てくる。
僕は昨今しきりに叫ばれている「ワーク・ライフ・バランス」という言葉があまり好きではない。その議論が主として「労働ありき」になっているように思えるからだ。
仕事・労働は人生の一部に過ぎない。仕事や労働ありきで人生を語ることが「常識」になっていて、僕はそれに違和感を覚えるのである。
繰り返すが、僕は仕事それ自体に、労働そのものが無意味だと言いたいのではない。
巷で言われている「働くこと」の意味が狭く捉えられてはいやしないかと思えてならないのだ。
確かに今は全労働人口の9割が「雇用者」言い換えれば労働者である。会社や役所等に雇われて働く形で仕事をしている人たちが圧倒的にマジョリティになっている。サラリーマンとしての働き方がデフォルトになっているのだ。
働き方の多様化といった言説はあるにはあるが、そのベースには雇われて働くことがデフォルトとなっている。
この社会は「総サラリーマン化社会」となっている。ゆえに圧倒的多数派のサラリーマン的な価値観が常識的なものとなって、それがこの社会を覆いつくしている。
そしてこの社会の根底には労働至上主義、精神主義といった土壌がある。これらとサラリーマン的価値観が融合すると「気合で、死ぬほど働け」といった僕からすればバカバカしい労働観もどきが生まれるのである。
現行の資本主義体制下では労働者は会社によって搾取される存在である。搾取されない労働者なんて一人たりとも存在しない。
サラリーマンたちは搾取された上に抵抗の術や抵抗する気概すらも削ぎ取られている。
少なくない数の人たちは死ぬほど働かないとまともな生活を成り立たせることができないという状況にある。これで本当に豊かな社会だと言い切れるのだろうか。どこか、現行の社会システムに歪みがある、としか言いようがない。
死ぬほど働くことが愚かでバカバカしいという共通認識が社会全体で共有できるようにならない限り、過労死や過労自殺はなくならない。
死ぬほど働かなければ生活が成り立たないという歪な社会構造そのものに疑いを持ち、それを少しずつでも良きように変えるためにひとりひとりが自分ができることを着実にこなすしかない。すぐにはこの世の中を変えることはできないことは分かり切っている。
まずは「死ぬほど働かない」ことから。