希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

働きすぎて死ぬ、ということが異常だという意識を共有できないこの社会、という件

過労死や過労自殺のケースが未だに頻出している。

怖いのはその報にふれた僕たちが鈍感になり、なんとなくやり過ごしてしまうことである。一時的に過労死を出した会社に対するバッシングは起きるが、そもそもなぜ過労死・過労自殺が起きるのか、という根本的な原因究明がなおざりにされてしまう。

極端な言い方をすれば、この社会では過労死・過労自殺をある一定程度許容しているのである。過労死をした人たちはたまたま運が悪いだけだと。相変わらず多数の労働者は異常な「働かされ方」には目を瞑り、多くの経営者は従来の「働かせ方」を続けて搾取量の極大化を図るのである。

 

冷静に、あるいは常識的に考えて「働きすぎて、死ぬ」なんてことはありえないことである。太古の昔の奴隷であれは一日中こき使われて死ぬまで労役を強いられることはあったかもしれない。その太古の昔の奴隷にしても死ぬまで働かされることはレアケースだったのではないか。奴隷が死んでしまえばその主人は労働力を失ってしまい自分が損をする。「生かさぬよう、殺さぬよう」に使役していたはずである。

ならば過労死の脅威にさらされているサラリーマンの一群は太古の昔の奴隷以下の境遇にあることになる。

 

過労死や過労自殺が起きるとその原因を労働者に帰するような言説が巻き起こる。たまたまその社員が弱かっただけで、他の社員は同じような労働環境下で働いているのに何ともないといった類の物言いである。あるいは休もうと思えば休めたはずだとか。

この手の詭弁を経営者が弄するのはまあ当然と言えば当然である。責任逃れの常とう手段である。

しかし、立場を同じくするべき労働者からも時として過労死した人に責めを負わせて、まるで自分が経営者かのような見方を取ることがある。過労死が起きた職場で上司や同僚が過労死認定の調査に非協力的な態度を取ることがしばしばある。

 

実は「働きすぎて、死ぬ」ということがかなり異常事態だという意識がこの社会では共有できていない、と感じることがある。

紋切型の報道姿勢もそうだし、実際に過労死・過労死事案が一向に減らないこともそうである。

労働至上主義的イデオロギーに毒されたままなのである。

大多数の人たちが勤勉が美徳というイデオロギーを疑いもせずに受け入れているのである。

まともな社会人ならば、働きすぎるほどに働くのが当然だとの考えに固執し、その考えに異を唱えると「社会人失格」「怠惰な奴」「使えない人間」などといったレッテル貼りをするのである。

 

いくら政府が音頭をとって「働き方改革」なるもの(実態は「働かせ方改革」であるが)を押し進めても無駄足に終わるだけである。

小手先の改革では何も変わらない。

根っこにある「働きすぎるほど働いて一人前」という歪な労働観が払しょくされない限り悲劇は繰り返される。

そして、「働きすぎて、死ぬ」ということがありえないこと、人として絶対に受け入れられないこと、といったような意識を共有できない限り悪夢から覚めることはない。

 

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