希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は中学時代の記憶が殆ど欠落しているという件

僕は進学塾で中学生を教えているのだけれども、学生から僕の中学生時代のことを聞かれるとはたと困ってしまう。

大ざっぱな記憶、例えば校内暴力が吹き荒れていたこと、校則が厳しかったことなんかは覚えているが、具体的にどのような感じで中学時代を過ごしていたかについては殆ど記憶がないのだ。

学校以外での事柄については何となく覚えている。流行した歌、流行っていたテレビ番組、人気があったアイドル等は記憶に残っている。

要は中学校時代の学校生活が記憶に残らないほどつまらないものだったのである。

 

僕は学校嫌いで一時期不登校になったのだが、特に中学校が嫌だった。

無意味な校則の数々、つまらない授業、暴力教師の存在、荒れに荒れた生徒たちによる暴力・いじめ等々何一つとして良い思い出がない。同窓会に参加したこともない。中学の同級生とは今は一人として付き合いがない。

僕は一日でも早く高校生になりたかった。

 

僕は学校嫌いであったし、働きだしてからは会社嫌いになった。元々組織に属し、その論理になじむことを忌避するメンタリティを持っている。

僕が通った高校はかなりリベラルであったのでそのときは学校嫌いメンタリティは後退した。高校に輪をかけて大学は自由だったから息苦しさをほとんど感じることはなかった。

けれども中学校(特に公立の中学校だったので)はたまらないほど僕に息苦しさを感じさせる場であった。もう二度と中学校時代に戻りたくはない。

 

僕が中学校時代に息苦しさを感じたのは「思春期」特有の感性によるものだったのかもしれない。その要素はあるにしてもあの辛さ、しんどさは他の理由があってのものだ。

その理由とは何か、今でもはっきりとは分からない。組織の持つ内在的論理的なもの、といった漠然とした言い方しかできない。僕の自由を抑圧する何か目に見えない大きな力が常に働いていた、と表現するしかない。

 

あるとき友人に「中学のときの記憶がない」という話をしてみたら、その友人も僕に似た感覚を持っていた。

中学校時代が嫌いであって、思い出したくもない、記憶がほとんど残っていないということは僕だけの特殊事例ではなく、ある程度共有できるものなのかもしれない。広くとらえれば義務教育・公教育の抱える問題が顕在化したものだとみなしてもよいと思う。その外的要因と僕の生まれ持った資質があいまっての事象なのである。

僕は時々、中学時代の僕に「よく頑張ってる、よく我慢してるぞ」とタイムマシーンに乗って声をかけに行きたい衝動に駆られる。

 

中学時代の記憶が殆ど欠落しているのは生物学的に正しい防衛本能だと僕は思っている。

嫌なこと、辛いことをいつまでも記憶に留めておいてはロクなことにならない。

どうやら一生の間、こと中学校時代にかぎってはノスタルジーに浸ることはなさそうである。