昔から「手に職」をつけることが有効な生存戦略である、と繰り返し言われ続けている。確かに人には真似できない技能を持っていると食うには困らないように思われる。
ただ、この「手に職をつける」のイメージが最先端の技術や伝統工芸等の技能を習得するという意味に限定されがちである。僕は「手に職」の概念をこのように狭く解するのではなく、もっと範囲を広げて解すればいいと思っている。
競争社会の行き着く先はすべての働く人たちが「替えのきく」存在と化してしまうところにある。この「代替可能」とみなされた労働者の立場はより一層弱くなり、処遇は劣悪なものとなる。
「手に職をつける」ことは自分が代替不可能な存在にするための抵抗の手段であると言える。
「手に職をつける」を字義通りに解釈すれば、前述のように最先端の技術や伝統工芸の技能を身に付けることか、あるいは高い専門性を有する知識やスキルを身に付けるということになる。これは有効な生存戦略のひとつであることは確かだ。将来的にはAIに取って替わられるとか、知識や技術が陳腐化するといったこともあるだろうが、未来のことは誰にも分からない。
「手に職」的なものは最先端の技術や高い専門性を伴った知識・スキルに限らないように思う。
その人がいなければその場が盛り上がらない、その人がいればその場が盛り上がるといった的なことも大事なのではないか、と僕は思っている。場を盛り上げる「その人」は替えのきかない存在であり、その場にとっては有用な人なのである。会社をはじめとする組織を活性化させる「何か」を持つこともまた「手に職」的なものととらえる視点も必要である。対人スキル、コミュニケーション能力、オーガナイゼーション能力といったものである。ただしこれらは特定の組織のみに通用するものではなく、別の組織においても通用する汎用性を伴っている必要がある。
話題を変えて僕自身のことについてもふれてみる。
僕は公務員を辞めた後、社会保険労務士と行政書士の資格を取得した。資格を取っただけでは「手に職」にはならない。
僕は資格を取った後に社労士事務所を営み、専門学校や職業訓練の講師をして、時にはセミナーやミニ講演会の講師もして多少は稼がせてもらった。当時の僕にとっての「手に職」は何らかの専門知識を身に付けて、その知識をベースにした実務経験を積み上げることによって得られる優位性だったのだ。
現在は国家資格を取ってその資格に基づいた仕事をして稼ぎ続けることはなかなかに難しい状況にある。社労士程度の専門知識ではそれ自体が「強み」になりにくい状況にある。社労士や他の国家資格取得者が行う実務のかなりの部分がAIに置き換わるという説もある。難関国家資格さえ取れば何とかなる、という幻想は捨てなければならない。けれども、何らかの優位性は依然としてあり続ける、といった認識にとどめておく必要がある。要は「使いよう」なのである。
「手に職」的なもの、余人には替え難い何か、といったものは「絶対にこれだ」と断言できるものはない。他者と比して若干の優位性を保ち続けられそうなもの、と言った程度のもので十分なのかもしれない。それは人それぞれであって、自分が興味を持ち続けられるもの、自分が得意なもの・できそうなこと、といった感じで選択せざるを得ない。
「手に職」的なものを身に付けると、少しだけ「まし」である、ちょっとだけ生存戦略上優位にはたらく程度のものであると観念しておいた方がよい。
他者よりも「絶対的に優位」に立とうとして際限のない競争に巻き込まれ疲弊するよりは余程ましである。