僕は競争そのものを否定しない。
競争があってこそ生み出されるものが多くある。
けれども、競争によって失われるものもまた多くある。
資本主義体制下の社会では競争が前提となっている。
ミクロのレベルで見ると、多くの人たちは会社という組織に属し、そこで出世・生き残りの競争にさらされる(フリーランスでもやはり生き残り競争がある)。
「できる人」だと他者から評価されようと必死になって働く。
仕事ができるかどうかがその人の価値だという決めつけが未だに残存していて、多くの人たちはその決めつけに右往左往している。
良い学校を出て、良い会社に入り、結婚して子を得る、といった画一的な価値観はもう崩れているという言説もあるが、未だに強い規範として残っているように思われる。
「できる人」でなければならない、「できる人」になるように粉骨砕身仕事に打ち込まなければならない、といった価値基準が大勢を占め、それに均一化されると非常に殺伐としたものになる。
「エコロジカル・ニッチ(生態学的地位)」という生物学の述語がある。
同一の空間に生物がひしめいて、限定された資源を分かち合っているときには種によって活動時間や食性を異にする方がそのシステムは安全となる。そのため生物はサイズや機能や生態を多様化しているのである。
僕たちは有限である経済のパイを分かち合っている。
皆が正社員という働き方を志向し、地位やカネを至上の価値として求めるような均一化した価値基準のもとで行動していては大多数の人たちがシステムから脱落し、また疲弊する。そして脱落した人たちの受け皿が十分にないときには悲惨な状況に陥ることになる。
エコロジカル・ニッチという考え方を類比的にとらえる必要がある。
経済のパイが無限にあると錯覚し、経済成長が至上の価値だととらえて、人々が際限のない競争に没頭するとその社会は衰退し下手をすると崩壊に瀕することになる。
人も生物の一種であるのなら、「棲み分け」をしなければならない。共存共栄を図らなければならない。
自立や自己責任を殊更に強調するのではなく、助け合い・相互扶助的な支え合いの精神を失ってはならないのである。
均質化された価値基準下での過当な競争、分かりやすく言えば他者よりも「できる人」に皆がなろうとする行動原理を少しでも疑ってみることが必要なのではないだろうか。
自分が働きやすい、生きやすい「場」をそれぞれが見つけ、その場が多く存在するような社会となるように僕たちひとりひとりが仕向けることが大切になってくる。
同調圧力が強い今のこの社会ではなかなか難しいことではあるけれども、あながち無理筋の話ではないように思う。散発的に局地的に新しい動きが胎動している。今はマイノリティでか弱い胎動であっても、僕は希望を捨ててはいない。
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