希望の舎―再生編ー

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内申書は長時間労働やサービス残業等の労働環境劣化の源である件

僕は公立中学校に通っていて府立高校に進学したのだけれども、そのときに内申点の比重が大きかったことを覚えている。僕とそんなに成績が変わらないのに、内申が悪くて1ランク下の高校に進んだ友人がいた。 

昨今の内申書は授業態度や意欲を殊更重視する傾向がある、ということを何度も見聞きしている。授業中に手を挙げる回数とか、提出物や宿題をきちんとしているとか、授業を聞く態度とかを細かく点数化しているということだ。

 

僕が学生時代にはそんな意欲や授業態度はそんなに問われなかったように思う。定期テストの点数で自動的に内申点が決まっていたとの記憶がある。僕は決して授業態度は良くなかったし、意欲なんか微塵も見せなかった。ガリ弁は格好悪い、教師に気に入られるなんて恥だという美意識があったのだ。その割には僕の内申点は高かった。

確かにテストの点数だけで評価するのは公正なものではないという論にも頷ける点がある。やる気や意欲、コツコツと取り組む姿勢や真面目さを評価すべきなのかもしれない。いや、それらを重視すべきという考え方は正論である。

 

僕はこの「正論」が社会に及ぼす悪影響が結構あるのではないかと思っている。

会社での人事考課は内申書と似通った点が多い。テストの点数だけで評価しないというところは仕事における成果や実績だけを評価しないという点で類似している。かつての会社での人事考課ではやる気や意欲、勤務態度等の情意面を評価しその比重が大きかった。今は人事考課に成果主義や業績主義が採り入れられているが、情意面の評価がすべてなくなったわけではない。相変わらず情意面の評価を重視している会社も多い。

 

中学校の内申書では授業態度や意欲に加えて生徒会活動やクラブ活動の実績も評価の対象となる。つまりはいかに学校の活動にコミットしているかが評価されるのである。地域活動やボランティア等も評価するらしいが決して主たるものではない。

要するに教師や学校にとって従順で扱いやすい生徒が内申書で高得点を得る仕組みになっている。たとえテストで高得点を取っていても反抗的であったり態度が好ましくない生徒は高い評価を与えない。

当然と言えば当然である。

学校制度、特に義務教育制度は国家や会社に従順な「人民」「良民」を大量生産するためのものであるからだ。どんなスローガン(例えば「自ら学ぶ力」や「自ら育む力」の類)を掲げようとも本質的には変わらない。

 

一方、会社においての人事考課の本質も内申書と同質のものである。

長時間労働サービス残業が蔓延する理由のひとつに人事考課で情意面を評価することにある。多くの職務は他のそれと差別化できない。その差別化できない仕事をしている労働者は差別化するために長時間働いて会社にコミットしていることをアピールするという挙に出る。本来ならば自分の業績や成果をアピールすればよいだけれども、元々個人単位ではなくグループ単位で仕事をしているというこの国の会社での仕事のやり方ではどうしても「頑張り」や「意欲」あるいは「協調性」をアピールすることになってしまう。

 

大阪府では公立高校の入試改革があり、一部の高校で合否判定に内申書の比重をかなり下げて入試での成績を重視することになった。僕の個人的な意見だがこの改革は良いことだと思う。内申書なんて付け足し程度のものでよい、と僕は思っている。

現行の内申書の評価方式に囚われすぎると、生徒の「自律性」や「抵抗するメンタリティ」を奪ってしまいかねないからである。

また、将来において会社の論理に容易にからめとられてしまうメンタリティが根付いてしまう可能性もある。

教育の目的は断じてサラリーマン根性に毒された労働者を大量に生み出すことではない。

 

賛否両論はあるけれども、僕は情意面を殊更に評価するような内申書なんて害ばかりが大きいと思っている。

内申書に内在するものが果ては会社や役所での人事考課につながり、労働のあり方や雇用環境をいびつなものにしているのである。

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