僕は適度な「いいかげん」さがある方が何事においてもスムーズに運ぶ面があると思っている。みんなが勤勉で生真面目だったらとても息苦しい。
何事もなるようにしかならない、と開き直ることもありだと思う。
初出 2014/7/3
漫才でつっこみがよく使うフレーズに「いいかげんにしろ!」がある。関西では「ええかげんにせえ!」となる。これはボケが常識外のことや極端なことを言ったときに諌めて、同時にそのボケを際立たせて笑いを増幅させるものである。
僕はお笑い論をしたいのではない(お笑いは大好きだが)。
「いいかげん」について言及したいのだ。
「いいかげん」なことはそんなに悪いことなのかとつっこみたいのだ。
この社会では「いいかげん」はネガティヴな意味合いを持っている。物事をきちんとこなしていない、真面目に取り組んでいないときなどによく用いられる言葉である。
「いいかげん」な奴だとみられると、その人の社会的な評価は低くなる。友人からの信頼も低い。
これらが「いいかげん」に関する常識である。
この常識は本当に正しいものなのだろうか。
「いいかげん」とは「良い」+「加減」という語源を持つ言葉である。つまり程よい具合に物事に当たるという意味のはずである。僕は言語学の知識が無いので正確なことは分からないけど、間違ってはいないと思う。
僕は「いいかげん」の持つ本来の意味と現在使用されている意味も加味したうえで、あえて「いいかげん」に生きていくことは悪いことではないと言いたい。
俗っぽい言い方をすると、時には手を抜いたり、肩の力を抜いて、のほほんと生きていけばよいのではということだ。常に一所懸命で真剣に生きていたら疲れるし、ガス欠を起こしてしまう。
自分ひとりが少々不真面目にしても、世の中はいつも通りに回り続けるし、自分のことを気にかけている人なんて殆どいないのだ。そうお気楽に考えると、世知辛いこの世の中で多少は生きやすくなると思う。
しかしながら、この社会での同調圧力は「いいかげん」をたやすく見逃してはくれないのもまた事実である。
特に会社社会ではそれが顕著である。
常に会社の利益を上げるために粉骨砕身働けとプレッシャーを与えてくる。僕は少しばかりでも「いいかげん」さを認めた方が生産性や効率も上がると思うのだが、会社社会での常識はそれを許さない。仮に「いいかげん」な人が高いパフォーマンスを示しても、決して人事考課では高い評価を得られない。企業活動においては結果(利益を生み出したか)が重要視されるはずなのに、いかに真面目に真剣に取り組んだのかが評価される人事システムでは「いいかげん」な人は排除される(但し、意欲を評価ポイントにすることを否定しない)。
本当の意味での能力主義が浸透しない理由のひとつは「いいかげん」さを認めない狭量な態度にあるといえるような気がする。
僕はこの社会(あるいは世間)の生き辛さや余裕の無さは、「いいかげん」さを認めないところに大きな原因があると思っている。
程よく適当(この言葉も考察に値する)に生きていても、他人様や世間から後指を指されないようになれば精神的に楽になる。
僕は「いいかげん」に生きていこうと思っている。そのことによって他者から認められなくてもいい。
楽しくない人生なんて、生きている甲斐がないと僕は思う。