世間の良識・常識や薄っぺらい正義は時に暴走する。人々の自由を奪い、抑圧する。
正義を楯にした言説ほど胡散臭いものはない、と僕は思っている。
初出 2015/11/5
世間には自分が絶対の正義だと思い込み、他者に自分の価値観を押し付けても何とも思わない輩が多い。
僕はその手の人たちのことをPTA的価値観を持った人と呼んでいる。
テレビ番組にクレームを付けたり(確かに下らない番組は多いけど)、コミックやゲームを規制しろと言ったり、やたらと防犯意識が強かったり、不審者らしき人を見たらすぐに通報したり、公園に何人かの人がたむろしていてたらこれまた通報したり、と数え上げればキリがない。
人は時としてハメを外すし、「正しい」ことばかりをするわけではない。他人に迷惑をかけることもするだろう。
PTA的な言動とは異質なもの、常識外のものたちを排除する行為と相通ずるものがある。
あるいは横並び意識を行動化したものでもある。ちょっとでも自分たちの良識からはずれたものを認められない狭量さがあるのだ。
子どもの教育に良くないということを隠れ蓑にして、自分たちの正義を強要する行為は僕からすると恥ずかしい行為に思われる。大抵PTA的感性の持ち主は「みんな」が困る、「みんな」もそう思っている、などと口走ることが多い。この「みんな」とはどこの誰のことなのか。自分の意見や信念を持たずに、あるいは自身に責任が及ぶことを怖れて、「みんな」を持ち出して、常識らしきことを強要するのである。
僕はこのPTA的なものが大嫌いである。
あるいは「市民」的な感性と言い換えても良い。
多数派が絶対的に正しいと信じ込み、少数派を尊重せよと口では言いながら、実際には少数派を排除するメンタリティ。
社会は清潔であることが好ましいと捉える思考様式。猥雑で様々な人やものが入り乱れている社会が活力があり、面白いということが理解できないのだ。
要するに「不寛容」であり、「狭量」なのである。
このPTA的感性が多くの人に共有され、この世を覆ったら僕は生きていけない。生きていけない、が言いすぎならかなり生きづらくなるのは必定である。
昨今のこの国の様子を見ていると、僕の危惧が現実化している、つまりPTA的価値観が支配する世の中に向かっているような気がしてならない。
僕の、あるいは僕のような人たちの声は小さい。
世の中の大きな流れに抗うこともなかなかに難しい。
僕はたとえ小さくても、僕の声を上げ続けていきたい。