希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

今日の予定が何もないとハッピーな気分になるという件

何度も言っているが僕はダメ人間であり、ヒマ人的生き方をしている。

これは謙遜でも何でもない。ありのままを述べているだけである。

自分がダメ人間であることを実感するのは、朝起きたときに今日一日の予定がないととてもハッピーな気分になってしまうときだ。

今日一日、何もすることが決まっていないと満ち足りた気分になる。

だからといって特別なことをするわけではない。

いつものようにラジオを聴き、読書をし、動画を見たりしてダラダラと過ごすだけのことである。

 

僕がフリーランスとして仕事をしているとき、一日の予定が決まっていない日があると半分は嬉しいけれども、半分は焦りの気持ちがあった。予定がないということは仕事がないイコール収入減を意味していたので、何とかせねばと焦りの気持ちが生まれてきたのである。ヒマは嬉しいけれども、同時にそこに疚しさを感じるというジレンマに陥るのである。

この点がフリーランスの辛いところだった。

 

僕はこれまで「スケジュールの空きを埋めなければ不安になる病」の人たちを何人も見てきた。スケジュール帳を真っ黒にし予定をびっしりと入れていないと不安になるという人たちだ。僕はそんな風にはなれないなと思っていたけれども、何となくその気持ちを理解できていた。ワーカーホリックだと嘲笑するのは容易いが、事はそんなに単純な話ではない。心の余裕を失ってしまっているそんな人たちを気の毒がり、哀れみの目で見るのは傲慢なことである。

予定がないことに強い不安感を覚えるのは、個人の資質や性格にもよるのだろうが、そうならざるをえなくした社会システムや労働至上主義イデオロギーといった「大きなもの」に目を向ける必要がある。

 

僕が今のように予定が空白なのを言祝ぐようになったのは、40歳を過ぎて生き方の転換をしたときからである。労働至上主義・勤勉至上主義イデオロギーから離脱したときからである。ビンボー生活およびヒマ人的生き方をしようと覚悟を決めたときである(そんなに大層なものではないが)。

何の予定もないときの爽快な気分。

何もしなくてもいいときの晴れやかな気分。

僕はこの快感を手放したくない。

 

無為の時を過ごすことの快楽・その大切さを何度もこのブログに書いてきた。

世間の真っ当な人たちはこんな僕の態度や行動様式を退嬰的だとか意識が低いとか言って批判するだろう。僕はそんな外野の声を甘んじて受ける。

何も予定がないことや何もしなくても良いことが最高の贅沢だと思っているから。

自由を満喫することだと思っているから。

やれやれ。

こんなことばかりを言っていると、いつまで経ってもビンボーヒマあり生活を続けることになりそうだ。

「強くなければ生きていけない」ような社会はいびつであるという件〈再掲〉

ヒトは弱い生き物である。

この弱さを既定事実としたうえでシステム設計をしないと、社会は成り立たない。

弱者を置き去りにするようなシステムを採用した共同体は近い将来に必ず衰亡する。

 

初出 2018/9/13

 

僕たちは幼少時から様々な刷り込みをされている。

「強くなれ」

「早く自立して一人前となれ」

「人様に迷惑をかけるな」

「人に頼らずに一人で生きていけ」

・・といったように「強くなければ生きてはいけないぞ」と思い込まされる。

 

今のこの社会の空気は「弱い」ことを罪悪視している。人は誰もが弱さを抱えていて、それをどうにか手懐けながらどうにかこうにか生きているということを忘却の彼方に追いやっている。

強さに対する単純な信奉ほど怖いものはない。

強いことが正義であり善であるとされる社会はディストピアである。

 

一見そこそこ強そうに見えてこの社会の中で真っ当に生きている人たちも、ちょっとしたきっかけで弱い立場に陥ることになる。

病気や失業・勤め先の倒産やリストラ等によっていともたやすく弱者に転落する。

本当に生きやすく健全な社会であるかは、その社会の中で最も弱い人たちをどのように処遇しているかで判断できる。

弱者を排除し棄民化しているような共同体はたとえどれほど経済的に豊かであってもまともな共同体ではない。

 

社会ダーウィニズム的な価値観に覆われた社会では「強くあれ」というプレッシャーが成員にかかり続ける。

競争に勝ち残った者だけが果実を享受できる。役に立たないと思われる人たちに居場所はない。一旦、「負けた者」とか「弱者」とのレッテルを貼られると、浮き上がる手立てを奪われてしまう。このような社会は地獄である。

 

資本主義体制は「カネを稼ぐ能力がある、強者」が利益を独占するシステムである。経済成長に大いに貢献する者が強者となり正義となる。

資本主義が内包する価値観を盲目的に信奉すれば、先ほど述べた社会ダーウィニズム的な価値観を良しとするディストピアとなる。

 

多くの人たちは自分の弱さを隠して、表面上は強い自分を演じ続けている。

助け合い、「共生」を密かに望みながらも、そんなことを一旦言挙げすると競争社会から脱落するのではないかという恐怖心を抱いている。その人々の持つ恐怖心を原動力にして資本主義体制は維持発展し、経済成長至上主義イデオロギーが拡散していく。

 

本当に生きやすい、健全な社会とは「強くなくても、弱くても、後顧の憂いなく生きていける」社会である。

人の持つ本質的なもの、つまり弱さから目を背けずに、弱さを肯定した人間観が根底にある社会がまともで健全な社会である。

ある社会の中で最も弱い立場にある人たちに対しての優しい眼差しを欠いた共同体はいずれは崩壊する。

人の持つ弱さを否定した社会に明るい未来はない。

道草を食ったり、寄り道することは楽しいという件

僕が小学生あるいは中学生のころ、学校からの帰路に道草を食うことがその頃の楽しみだった。友達と連れ立って通常の帰り道から外れたり、駄菓子屋や本屋に寄ったりすることがささやかな楽しみだったのだ。友だちと道草を食う行為の共犯関係になることでより親密になることができたのである。

今の子供たちはこの道草の楽しみを味わっているのだろうか。

通学路に見守りのボランティアの人たちが立っていたり、集団登下校するところが多くなっている昨今の状況を鑑みると、どうやら道草をする余地が狭まっているようだ。

 

社会に出て、働き始めると道草を食ったり寄り道することを自由にできるようになる。

しかしながら、その頃には道草を食うことによって生まれる背徳感のような感覚が薄れてしまい、楽しさが半減してしまうのである。

それが「大人」になるということなのかもしれない。

 

人生においても道草や寄り道は必要なものなのではないか、と僕は思う。

確かにレールから外れずに順風満帆に人生を渡っていくのも悪くはない。

僕もできれば寄り道をしないでまっすぐに歩いていたかった。

寄り道をすることで違った風景が見えてくる、と強がりは言ってみるもののロスを生じてしまい、まわり道をしてしまったことは疑いようのない事実である。

 

でも、あえて強がりを言いたい。

寄り道や道草を食うことによって、得られたものは少なくない。

画一的な度量衡で人を判断してはならないということを知った。

世の中には本当に様々な生き方をしている人たちがいて、それらの人たちは自分なりに懸命に生き、生活を営んでいることを知ることができた。

そして、「正しい」生き方なんて実はないんだということを知ることができたのがなにより大きい。

 

世の中には弱い立場に立たされている人たちが数多いる。

そういった人たちはすべてが自身の責任ではなく、多くの部分は社会システムの欠陥や歪により生み出されているということを知った。

また、多数派に属する人たちの発する考えが常に正しいわけではないということも知ることができた。

マイノリティの側に身を置いて生きていくことも悪くはないという思いに至った。

 

僕はレールから外れて、さんざん寄り道をしてきた。

まわり道をしすぎて、目の前には路地のような道ばかりがある。

その入り組んだ「路地」に足を踏み入れることが楽しみとなっている。

どんな風景が僕を待ち受けているのか。

それを思うだけでワクワクして面白い。

 

 

 

 

 

「働けなくなったら、死ね」という社会はまぎれもなくディストピアであるという件

僕たちは特別な状況に自分が陥らない限り、自分が働けなくなった時のことを想像できない。心身の病気になったり、心身に障害を負ったり、劣悪な労働の条件の会社に勤め続けて消耗して退職を余儀なくされたり、ただ何となく今の仕事が嫌になったりと、これらのことは誰にでも起こりうることである。

 

「働かざる者、食うべからず」という労働至上主義的なイデオロギーが蔓延している社会では、働けなくなることイコール自分の存在価値が毀損されることを意味する。

働けなくなっても尊厳のある生活を保障する、という政策目的を有することが先進国の為政者に課されたのはそう遠い昔のことではない。

働けなくても一定程度の生活を保障されるという社会システムを構築されるということは、この世界が歴史的に進歩したことだといえる。

 

僕の考えすぎ、思い過ごしかもしれないけれども、昨今、「働けない者は存在価値がない」といったイデオロギーが色濃くなってきているような気がして仕方がないのである。

「一億総活躍社会」という空疎なスローガン。老齢年金の支給開始年齢の繰り上げ、定年延長あるいは廃止。僕には死ぬまで働け、と強いられているような気がして仕方がない。働けなくなった者は年金を受給せずにすぐに死ねという隠れたメッセージではないかと疑ってしまうのだ。

穿った見方かもしれないけれども、僕にはこの国のエスタブリッシュメントやそれに連なる者たちが庶民に「働けなくなったら、死ね」との意志を持っているように思える。

経済活動に関われない人たちや経済成長に資することのない人たちは「役立たず」であり存在価値がないとでも言いたげに。

さすがにいくらバカで無能な安倍さんや麻生さんでも、「働けない者は死んでしまえ」とは言わない。しかしながら、両者や閣僚、国会議員が発する言葉・失言からはそういった意図が透けて見える。

 

死ぬまで働きたい、生涯現役でいたい、という声をよく耳にする。そのような人たちはそうすればよい。それはそれで幸せなのかもしれない。

僕は一生を馬車馬のように働き続けるなんてことは御免蒙りたい。

労働は苦役である、との西洋的(キリスト教的)価値観には全面的に同意はできないが、労働は素晴らしいと能天気に考えることはできない。

 

人は働いていても働けなくても、生きていること自体に至高の価値があり、誰もが人としての尊厳が保たれる程度の生活を保障されなければならない。僕はそう信じている。これもイデオロギーの一種かもしれないけれども。

僕はイデオロギーというものに懐疑的であり、それを信じないスタンスではあるが、このイデオロギー的なもの(尊厳ある生活が保障されるべきという)には心を寄せてもいいと思っている。

 

「働けなくなったら、死ね」という価値観に覆われた社会はとてつもなく生きづらいものである。働けないときを過ごした経験がある僕にとっての皮膚感覚である。

この世には少なくない数の働けない人たちが世間を憚りながら存在し、それらの人たちへの冷たい眼差しが、いかにそれらの人たちを切り刻んでいるかを想像しなければならないと、僕は思う。

働いているか、働けないかで人を評価し選別する画一化・均一化された価値基準・度量衡が実はまわりまわってすべての人の存在価値を毀損することになるのである。

 

 

 

 

僕はたまたま新自由主義に異を唱える立場にいるだけという件

僕は新自由主義的なイデオロギー・政策に拒否感を持っている。

行き過ぎたグローバリズムに対しても同様である。

市場経済の徹底が多くの社会問題を解決するという能天気な言説には同意できない。

新自由主義を貫徹すると、共同体が破壊され人々はむき出しの「個」となり自己決定・自己責任が至上の価値とされる社会で弱い足場の上で生きていかなければならない。

また、貧富の格差がますます増大し、持てる者がすべての利益を総取りする不公正な社会になってしまう。

僕は競争そのものは必要だと考えているし、一定程度の格差も容認すべきだとは考えている。

しかし、持たざる者が貧困に陥り、人としての尊厳が毀損されるようなことがあってはならないと思う。

公正な再分配政策が是非とも必要だと思うし、普通に働いていればそこそこ豊かな生活を送れるような社会でなければならないと思う。だから、僕の政治的立ち位置はどうしても中道左派的あるいはソーシャルなものとなる。

 

しかしながら、僕は自分の政治的立場が絶対的に「正しい」とは思わない。

僕の現下の政治的な信条自体が僕の今の境遇に依るものに過ぎないからである。つまり、経済的に恵まれず、まともに正社員として働けないような僕の属性から社会的弱者に配慮した政策を望んでいるがために僕の立ち位置が決まっているのである。

事実として、僕は正規社員として働いていた時、自営業を営んでいた時、新自由主義的な考え方に親和的だったのである。

 

僕は何度もこのブログに書いているように特定のイデオロギーを信奉していないし、そもそもイデオロギーを信じていない。

たまたま新自由主義的なイデオロギーあるいは政策から自己の利益が得られないだけの話であって、それゆえに新自由主義的な価値観に馴染めない、というだけのことである。

仮に僕が新自由主義的な政策によって利益を得るような境遇にいたのならば、僕はそのイデオロギーを支持するだろう。

また、僕が他者と比較して恵まれた境遇に身を置いていたとしたならば、僕は現体制を強く支持していたに違いない。

 

実は僕が親近感を抱いている政治哲学はリバタリアリズム(自由至上主義)である。自由を至上の価値として、国家の介入を極力なくそうという立場である。

他方で経済政策としては社会民主主義的なものを支持している。こちらは個人の生活に国家権力が介入するものである。

リバタリアリズムとソーシャル(社会民主主義)は当然に相容れない。対立する概念である。要するに僕は両者の「良いとこ取り」をしているのである。矛盾している。

この矛盾を僕は自覚している。

貧困問題や格差問題等社会の不公正について問題意識を持ちながらも、心のどこかで「やっぱり自由に生きたい」「自由には責任が伴う」「結果の不平等が生まれるのは仕方がない」と思っていたりする自分がいる。

このような引き裂かれた自己意識を手なずけながら、僕は僕の考えを表明しているのである。

 

僕は新自由主義を忌避する仮面を被って(社会民主主義的な考え方に同調する仮面を被って)、新自由主義に親和性があるリバタリアン的なメンタリティを有している。

個人の信条なんてその程度のものである。

絶対的なものではなくてあくまで相対的なものに過ぎないのである。

中には特定のイデオロギーに盲従している人たちがいるが、大多数の人たちは自分の置かれた境遇に沿った信条を有しているに過ぎない、と僕はそう思っている。

 

僕は今の自分の境遇が変わらない限り、現下の信条を表明し続けることになるだろう。

これはあくまで「かりそめ」のものである、ということを常に忘れないでおきたい。

イデオロギーの海に溺れないように気をつけながら。

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