行き過ぎたグローバリズムに対しても同様である。
市場経済の徹底が多くの社会問題を解決するという能天気な言説には同意できない。
新自由主義を貫徹すると、共同体が破壊され人々はむき出しの「個」となり自己決定・自己責任が至上の価値とされる社会で弱い足場の上で生きていかなければならない。
また、貧富の格差がますます増大し、持てる者がすべての利益を総取りする不公正な社会になってしまう。
僕は競争そのものは必要だと考えているし、一定程度の格差も容認すべきだとは考えている。
しかし、持たざる者が貧困に陥り、人としての尊厳が毀損されるようなことがあってはならないと思う。
公正な再分配政策が是非とも必要だと思うし、普通に働いていればそこそこ豊かな生活を送れるような社会でなければならないと思う。だから、僕の政治的立ち位置はどうしても中道左派的あるいはソーシャルなものとなる。
しかしながら、僕は自分の政治的立場が絶対的に「正しい」とは思わない。
僕の現下の政治的な信条自体が僕の今の境遇に依るものに過ぎないからである。つまり、経済的に恵まれず、まともに正社員として働けないような僕の属性から社会的弱者に配慮した政策を望んでいるがために僕の立ち位置が決まっているのである。
事実として、僕は正規社員として働いていた時、自営業を営んでいた時、新自由主義的な考え方に親和的だったのである。
僕は何度もこのブログに書いているように特定のイデオロギーを信奉していないし、そもそもイデオロギーを信じていない。
たまたま新自由主義的なイデオロギーあるいは政策から自己の利益が得られないだけの話であって、それゆえに新自由主義的な価値観に馴染めない、というだけのことである。
仮に僕が新自由主義的な政策によって利益を得るような境遇にいたのならば、僕はそのイデオロギーを支持するだろう。
また、僕が他者と比較して恵まれた境遇に身を置いていたとしたならば、僕は現体制を強く支持していたに違いない。
実は僕が親近感を抱いている政治哲学はリバタリアリズム(自由至上主義)である。自由を至上の価値として、国家の介入を極力なくそうという立場である。
他方で経済政策としては社会民主主義的なものを支持している。こちらは個人の生活に国家権力が介入するものである。
リバタリアリズムとソーシャル(社会民主主義)は当然に相容れない。対立する概念である。要するに僕は両者の「良いとこ取り」をしているのである。矛盾している。
この矛盾を僕は自覚している。
貧困問題や格差問題等社会の不公正について問題意識を持ちながらも、心のどこかで「やっぱり自由に生きたい」「自由には責任が伴う」「結果の不平等が生まれるのは仕方がない」と思っていたりする自分がいる。
このような引き裂かれた自己意識を手なずけながら、僕は僕の考えを表明しているのである。
僕は新自由主義を忌避する仮面を被って(社会民主主義的な考え方に同調する仮面を被って)、新自由主義に親和性があるリバタリアン的なメンタリティを有している。
個人の信条なんてその程度のものである。
絶対的なものではなくてあくまで相対的なものに過ぎないのである。
中には特定のイデオロギーに盲従している人たちがいるが、大多数の人たちは自分の置かれた境遇に沿った信条を有しているに過ぎない、と僕はそう思っている。
僕は今の自分の境遇が変わらない限り、現下の信条を表明し続けることになるだろう。
これはあくまで「かりそめ」のものである、ということを常に忘れないでおきたい。
イデオロギーの海に溺れないように気をつけながら。