希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「学歴なんて要らない」という言説は無責任であるという件

この国の人たちは学歴に関する話題が結構好きである。

学歴不要論にしても、学歴がやはり必要であるという話にしても、結局は学歴に捉われている証なのである。

 

この国の学歴とは知的レベルを担保しているわけでも専門的知識とか学識を担保しているわけではない。受験勉強に耐えうる忍耐力や「努力する能力」を表象する性質のものである。だから実務経験やスキルが未だ無い新卒者を一斉に採用する新卒一括採用が採られているのである。

 

僕は学歴は「ある程度は」必要だとの立場をとっている。

サラリーマン(特にホワイトカラー的な仕事)になるには有名校を卒業している方が相対的に有利となる。アルバイトに就くにしても、大半の会社では高卒以上の学歴を求めている。

いわゆる「普通の」働き方を選択する際には、学歴はあるに越したことはない。

 

たびたび「学歴不要論」的な言説が世間に飛び交うことがある。

学歴を持たない成功者が出ると、その人をモデルケースにして、これからは実力本位の社会になると喧伝されるのだ。あるいは欧米では実力本位・能力主義型のシステムになっていると煽ったりする。

ちょっと調べれば分かることだけれども、日本よりも欧米諸国の方が激烈な学歴社会である。

 

スポーツや芸術等に並外れた才能を持っている人については学歴は関係ない。人より飛びぬけた才能を持っている人たちはその才能を活かす場さえあれば、高い社会的威信を獲得することができる。しかし、それらの「特殊な人たち」のレアケースを普通の人たちに適用するのはあまりにも乱暴なことである。

 

勉強ができること(あるいは勉強し続ける努力をすること)は人が持つ才能のひとつに過ぎない。だから殊更に学歴の獲得だけが有効な生存戦略であるとする考え方は正しいとは言えない。ただ、相対的に社会生活を営む上で有利になるという程度のものである。

かと言って、「学び」を放棄して好きなように生きろ、という物言いはあまりにも粗雑なものである。学歴とは「学び」という営為を続けた結果を表するひとつの指標のようなものである。

学歴と言うものを絶対視するのはどうかとは思うけれども、さりとてそんなものは無駄で不要なものであるという言説も無責任極まりなくて僕は同意できない。

 

近年、この社会では経済的な格差が拡大しているとされている。そのエビデンスも多くの識者によって示されている。学歴獲得においても階層差が顕著になっているともいわれている。高学歴・高収入の親の元に生まれ育った子の方が高学歴になりやすいということだ。逆に階層の低い親は学歴の効用を信じていなくて、結果としてその子は学歴獲得の道が狭まるということである。教育の機会均等が有名無実になりかけているということだ。さらには階級の再生産に教育・学歴が寄与しているのである。

陰謀論的に言えば、この国の為政者やそれに連なる者たちは階級の再生産を強化して階級の固定化を図り、分断統治しやすくしているのではないかということである。

 

学歴を獲得するかどうかは個人の自由である。「学び」を忌避して、学歴獲得から逃避した結果、社会的威信が高くない仕事に就いたり、低収入に甘んじるのは自己責任である、という結論に至ってしまう。果たして、そんな単純な理路で納得していいものだろうか、僕は疑問に思う。

学歴不要論には、それらの疑問に対しての答えは用意されていないことが多い。

「学歴なんて要らない」という言説は、ただの無責任な精神論・感情論ではないか、と僕はついつい穿った見方をしてしまうのである。

 

 

 

この国には本当のエリートはいないという件

「エリート」と聞いて多くの人たちはどのようなイメージを抱いてるか。

おそらく、自分の学歴をはじめとする経歴を鼻にかけた鼻持ちならない奴といったネガティブな印象を抱いているのではないだろうか。

では、この社会にエリートは不要かと言えば、僕はそうではないと思っている。

 

共同体の維持・発展のためにはその共同体の成員の中で指導的役割を果たす人たちがどうしても必要となってくる。その指導的役割を果たすべき人物をどのようにして選び出すかは時代背景や社会状況によって異なってくる。

共同体の中で能力を発揮して次第に頭角を表す人を見出して指導者層に据えるという自然発生的なものか、エリート教育を施された人たちの中から抜擢するという人為的なものかのいずれかの方法による。

 

大衆社会となり、平等志向が行き渡るとエリートの存在価値が低くなり、またエリート層に属する人たちの資質が劣化する、と僕は感じている。と、同時にエリートのインフレ化が起こることになる。「選良」という言葉が死語になる。

 

世間では有名大学を出て一流とされる会社で勤めていたり、中央官庁に上級職採用された人たちをエリート視している。それらの人たちは確かに少数の「選ばれた人たち」には違いないが、真のエリートではない。インフレ化したまがい物のエリートと言える。

エリートとは自己利益の追求に血眼になっている人のことではない。

エリートとは、自分の恵まれた資質や恵まれた境遇を意識し、その能力を社会に還元することを使命だと意識し、自己利益ではなく公共の利益のために働く人たちのことである、と僕は思っている。

そのように規定すると、この国にはエリートと呼べる人たちは存在しないことになる。

権力者層に属する人たち、官僚や大企業の経営者や政治家たちは皆が皆自己利益の追求のみに血道をあげている。利権を貪り、縁故主義が蔓延し、公共心の欠片もないような輩が我が世の春を謳歌している。

 

この国の現状として、真にエリートと呼べる人たちが存在しないということもってエリートなんて不要だ、と僕は思わない。

民主政の負の側面として、大衆迎合的になったり、行き過ぎた平等主義が蔓延したりする。あるいは現政権のように、愚か極まりない者がトップに居座ることにもなる。

これらの弊害は真のエリートがいないことによって引き起こされた帰結かもしれない。

 

かと言って、真のエリートが存在しているとしても、それらの少数のエリートによる全面的な支配体制も受け入れがたい。

一般大衆の意を汲んだ者と超然としたエリートが混然一体となって共同体を導くというシステムであれば、それが民主政の理想形である。要はバランスが大事なのである。

 

僕の勝手な思い込みなのだけれども、もはや既存の教育制度からは真のエリート的な人物は現れないような気がする。

そして僕の希望的観測なのだけれども、真のエリート的な人物はローカルな地域から、あるいは既存の教育制度から逸脱したところから出てくるのではないかと思っている。

綻びがあちこちにあり疲弊しかけた社会システムの中でそれを繕い再構築できるのは規格化された人ではダメなのである。

自分の老いを受け入れることは、もしかすると楽しいかもと思えるようになったという件

僕は若い頃、死への恐怖と同程度に老いへの恐怖心があった。

歳をとったら身体のあちらこちらにガタが来る、思考力が衰える、頑固で保守的になる、瑞々しい感性が失われる等々と思っていたのだ。これらの懸念事項は半分は当たっていて半分は外れているような気がする。

確かに身体にガタはきている。体力が落ちている。持病も幾つか抱えてしまっている。

しかしながら、身体面の衰えに反して、精神的な面ではそう衰えは感じない。逆に思考力は若い頃よりは向上しているように感じるし、柔軟な思考ができるようにもなってきている。個人差もあると思うけれども、僕の場合でいえば精神面では成長を続けていると自負している。

 

僕が精神面で老け込んでいない理由は、レールから外れた生き方を選択し、ダメ人間のヒマ人になったからだと思う。労働に無駄なエネルギーを費消していないからだともいえる。

ビンボー生活を余儀なくされることと引き換えに若々しい気構えを持ち続けることができているのである。このことを僕は言祝いでいる。まあ、半ば負け惜しみであることは事実だけれども。

 

若い頃の僕を苦しめた死への恐怖も、歳をとるたびに薄らいでいる。今すぐには死にたくはないけれども、もし今余命宣告をされても、それほどは取り乱さないという自信がある。もう残り人生がそれほど残っていないということを受け入れている。これは自分の老いを受け入れていることから生じた諦念のようなものである。

自分の人生が限られたものであるということを自覚したことによって、ならば残りの人生は自分なりに面白く楽しく生きようと強く思い、それを実践することに決めたのだ。

その結果、若い頃よりも随分と生きやすくなった。

 

僕は今、知りたいことや学びたいことが山ほどある。

この知的欲求は歳をとってから湧きだしたものである。若い頃よりも強い。

僕の知的欲求を満たすためには働いている場合ではない(正社員として雇われて働くことを忌避していることを正当化しているだけともいえるけど)。

最低限の生活を維持する程度だけ働いて、残りの時間は僕の知的活動に費やす、というのが僕の理想とする生活である。現状は7,8割程度はそれが実現している。まあ、これ以上を望むのは贅沢であるとも思っている。綱渡り的な生活で不安定なので、いつ今の状況が壊れるかが分からない。それでも、悲観はしていない。

 

これからも老いることは楽しいことだと常に心の片隅において、日々の生活を送っていきたい。

人から煙たがられるオッサン・爺さんにだけはなりたくない。

一本筋が通っているけれども、可愛げがあるオッサンになりたい。

僕の望む老境に達することができるかどうかは、これからの自分の生き方にかかってくる。

このことを常に肝に銘じておきたい。

大人になってからの学びは楽しくて面白いという件

学ぶことと「勉強」は完全に同一なものではない。

勉強にはどうしても強制というニュアンスがつきまとう。大雑把に言えば、楽しんでやるのが学ぶことで、いやいやながらもこなすのが勉強である。

僕は子供のころ、勉強が嫌いだった(今でも嫌いだ)。中学校までは予習や復習を全くしなかった。一方で百科事典を読んだり、学研の学習や科学を読んだり、少年少女文学全集を読んだりすることは好きで、学校の勉強そっちのけでそれらを貪るように読んでいた。この世には自分が知らないことが無数にあり、それらの知らないことを知るということが快感だったのだ。

 

学校を出て、働くようになってから僕は学ぶことを一旦やめてしまった。

仕事に関する「勉強」はしたが、当然にそれは楽しいものではなかった。仕事に関係する勉強は業務の一環である。楽しいはずがない。

仕事に面白さを感じられず、人生に迷っているときに自己啓発系の著書に手を出したことがある。やはりその手の著書は僕にとっては面白くなかった。

そのような20代、30代の頃が僕にとっての暗黒時代だった。学ぶことの楽しさを忘れ、日々流されるように過ごしていて、そのくせ焦りばかりが募っていく。

 

40代になって、開き直って「真っ当な生き方」を諦め、ダメ人間の道に入ってから、僕は学ぶことを再開した。学んだことが自分の経済的成功や社会的地位を獲得することに直結しないことがまたいいのだ。ただ楽しいから学ぶ、ただ面白いから学ぶ。実利に結びつかなくても、ほんの少しでも人間的な成長が叶えばそれでいい。

 

「学ぶこと」とは本来そういうものだったはずた。

 

この世には僕の知らないことが無数に存在する。このことがワクワク感を増すことになる。自分には知らないことが山ほどあることを知ることが教養の入り口である、と喝破した人(誰だか忘れた)がいるけれども、僕はその考え方に頷く。

社会の成り立ちとか人の営為の不可思議さとかはいくら学んでもその全容を知ることはできない。正しい答えや正解なんてあるようでないものだ。

ある物事を学ぶということは、正解を知ることではなく、ものの見方を知ることだ、と僕は思っている。

 

僕はずっと「大人になることはつまらない、いいことなんかないなあ」と思ってきた。

自分の力でカネを稼ぎ、生活を成り立たせることができるようになると、自分も大人になったなあと自己満足に浸ることはできる。しかし、それだけではなんだかなぁという心持になる。

真っ当な生き方をしていれば、それだけでこの社会ではマジョリティとなり流れに乗ることはできるけれども、僕はそのこと自体に息苦しさを感じてしまう質の人間だ。

 

こんなダメ人間のマイノリティに属する僕が「大人っていいなあ」と思えるようになったのは、学ぶことが楽しくて面白いという感覚を得ることができるようになったからである。言葉にはできないけれども、学びの楽しさは大人と子どもでは異なるところがある(共通点も多々あるけれども)。

もしかすると「学びの楽しさ」を知るということは、大人の贅沢な楽しみなのかもしれない。

僕はこの大人の贅沢をずっと満喫していきたい。

 

 

 

 

「若者の○○離れはケシカラン」と言う輩はアホであるという件

モノが売れなくなった時代だと言われて久しい。

特に若年世代の消費性向は低調であると言われている。

自家用車を持たない、高級ブランドの服飾品にさしたる関心がない、等々。

オッサン連中はこんな若者たちの行動様式に青筋立てて批判する。

 

オッサンである僕の若い頃は確かに消費意欲が旺盛だったような気がする。

僕はクルマに興味がなかったので自家用車は持たなかったが、小綺麗なマンションに住みたがり、ブランド物の服をたくさん買ったり、デートにお金をかけたりと華やかな(?)消費生活を謳歌していた。

今から思えば単に企業の宣伝広告に踊らされて、消費を煽られていただけなのだけれども。

そのときのメンタリティを持ち続けている一部のオッサン連中が若者叩きに邁進しているだけの話である。

 

巷間で言われている「若者の○○離れ」であるが、例えば活字離れとか政治離れといった、芸術文化や政治活動に関するものは問題点もあるけれども、ここでは(話がややこしくなるので)ふれないことにする。

ここでは「若者の○○離れ」の○○の部分が消費財に関することに限定しよう。

 

若者世代の消費意欲が旺盛でない理由の一つとして雇用の問題がよく取り上げられている。非正規社員の増加、たとえ正社員として雇用されても昇給やベースアップの額が小さいことにより、若者たちはカネがないのである。

しかし、僕が若い頃もカネはなかったが、消費意欲は高かった。

カネがないことだけに消費意欲の減退の理由を求めるのは無理があるような気がする。もっと根本的な理由があるはずであるが、その明確な答えが僕には分からない。

 

おそらく生まれた時から右肩下がりの経済状況に身を置いている若者たちは、オッサン連中と異なる価値観や生存戦略を身に着けているのだろう。

消費するだけの生活に虚しさを感じ、それがバカバカしいと感じているのではないだろうか。

この感覚は真っ当である、と僕は思う。

 

この社会を牛耳っていると勘違いしているオッサン連中は、この若者たちの真っ当な感覚を理解できていないのだ。右肩上がりの経済成長という幻想に縛られて、前世紀の遺物的な価値観を未だに後生大事に持ち続けているのである。消費資本主義的な社会が未来永劫続くと妄信しているのだ。

 

繰り返しになるが、若者たちの消費性向は真っ当なものである。余計なものは買わない、シェアできるものはシェアをする、レンタルで済ませられるものはレンタルにするといった行動様式は真っ当である。

それを批判し、昔のバカみたいな「消費は美徳」といった価値観に囚われている連中はもうどうしようもないほどの愚か者なのである。

そんな愚か者連中にもう付き合う必要はない。

この社会の(特に経済的な)問題点を克服する処方箋として経済成長が効果的な薬になるということをいつまでも言い立てているような連中は前世紀の遺物的存在である。

 

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