僕は若い頃、死への恐怖と同程度に老いへの恐怖心があった。
歳をとったら身体のあちらこちらにガタが来る、思考力が衰える、頑固で保守的になる、瑞々しい感性が失われる等々と思っていたのだ。これらの懸念事項は半分は当たっていて半分は外れているような気がする。
確かに身体にガタはきている。体力が落ちている。持病も幾つか抱えてしまっている。
しかしながら、身体面の衰えに反して、精神的な面ではそう衰えは感じない。逆に思考力は若い頃よりは向上しているように感じるし、柔軟な思考ができるようにもなってきている。個人差もあると思うけれども、僕の場合でいえば精神面では成長を続けていると自負している。
僕が精神面で老け込んでいない理由は、レールから外れた生き方を選択し、ダメ人間のヒマ人になったからだと思う。労働に無駄なエネルギーを費消していないからだともいえる。
ビンボー生活を余儀なくされることと引き換えに若々しい気構えを持ち続けることができているのである。このことを僕は言祝いでいる。まあ、半ば負け惜しみであることは事実だけれども。
若い頃の僕を苦しめた死への恐怖も、歳をとるたびに薄らいでいる。今すぐには死にたくはないけれども、もし今余命宣告をされても、それほどは取り乱さないという自信がある。もう残り人生がそれほど残っていないということを受け入れている。これは自分の老いを受け入れていることから生じた諦念のようなものである。
自分の人生が限られたものであるということを自覚したことによって、ならば残りの人生は自分なりに面白く楽しく生きようと強く思い、それを実践することに決めたのだ。
その結果、若い頃よりも随分と生きやすくなった。
僕は今、知りたいことや学びたいことが山ほどある。
この知的欲求は歳をとってから湧きだしたものである。若い頃よりも強い。
僕の知的欲求を満たすためには働いている場合ではない(正社員として雇われて働くことを忌避していることを正当化しているだけともいえるけど)。
最低限の生活を維持する程度だけ働いて、残りの時間は僕の知的活動に費やす、というのが僕の理想とする生活である。現状は7,8割程度はそれが実現している。まあ、これ以上を望むのは贅沢であるとも思っている。綱渡り的な生活で不安定なので、いつ今の状況が壊れるかが分からない。それでも、悲観はしていない。
これからも老いることは楽しいことだと常に心の片隅において、日々の生活を送っていきたい。
人から煙たがられるオッサン・爺さんにだけはなりたくない。
一本筋が通っているけれども、可愛げがあるオッサンになりたい。
僕の望む老境に達することができるかどうかは、これからの自分の生き方にかかってくる。
このことを常に肝に銘じておきたい。