希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

昨今の政治状況について僕なりにつらつらと書いてみる、という件

僕はこのブログで政治に関するトピックスは意識して取り上げてこなかった。

色々と言いたいことはあるのだけれども、あえて避けてきた。

なぜなら、どうしても感情的になってしまうし、自分の「正義」を振りかざすことになってしまうのではないか、というおそれがあったからだ。

普段から「正義」を信じるな、と言い続けてきておいて、己の「正義」の言を聞け、というのは矛盾することである。

 

安倍政権の非道ぶりは言を俟たない。が、通り一遍の現政権批判をしても芸がない。

僕は無党派層に属する人間だが、政治に無関心というわけではない。

イデオロギーというものを信じていない立場から政治を考えるというスタンスを貫こうと思っている。

 

現政権を批判する人たちは、それが「独裁」だとか「ファシズム」の発露だといった言説を用いる。僕からすれば、「何を今更・・」という感じである。

僕は独裁もファシズムも嫌であり、そんな社会の到来を全く望んでいない。

だからと言って、お気楽に「民主主義を守れ」とのスローガンを叫んで悦に入るという態度も取りたくない。民主制も人権思想もひとつのイデオロギーに過ぎない。

 

今の政権の国会軽視やアカウンタビリティの欠如、ノブリス・オブリージュの欠片もない姿勢等を見聞きすると、やれやれといった感じはする。

しかし、よくよく考えてみると、現在の悲惨な状況に陥ったのは、この国の民主主義の末路であり、大多数の人たちが望んでいたことが具現化した結果なのである。

「みんな」が決めたことを「みんな」で守るのは当然であり、それに異を唱えるマイノリティ・異端者は排除するといったことが日常化した社会では当然に多数派による強権体制ができあがる。

昨今の政治状況や社会状況は民主制の機能不全によるものではなく、逆にそれが強く機能した結果として到来したものである、と僕は思っている。

共生すること、協働することに重き価値を置かず、自己決定・自己責任の論理こそが絶対的な価値だとする社会を望んだのは僕たちである。

資本主義体制が未来永劫続くものとしてそれを全く疑うことなく、その価値観を全面的に受け入れているのは僕たちである。

 

今のこの社会を覆っている価値観から逸脱した生き方を選んだダメ人間の僕は、社会の片隅に追いやられても、何とか自分の居場所を見出して、ひっそりと生き延びる途を模索している。これが今の僕にとっての最適な生存戦略であると信じている。

 

現政権のろくでもない政策が直接僕の身に危害を加えるようであれば(あるいは危害を加えそうになるのであれば)僕なりに抵抗しようと、心密かに思っている。

似たような考え方や価値観を持った人たちと連帯するかもしれない。

あるいはさらに内に籠り、世捨て人のようになるかもしれない。

こればかりは「そのとき」になってみないと分からない。

ただ、「みんな」の群れの中に身を投じることはしないと心に決めている。

 

「おごれるものは久しからず」。

どんなに堅牢に見えるシステムもいつかは必ず瓦解する。

どんなに栄華を誇った権力者もいつかは必ずその座から滑り落ちる。

人が作り上げたものなんて、どんなものでも時が経てば脆く崩れ去る、その程度のものである。

太古の昔から繰り返されてきたこの法則は、僕に勇気を与えてくれる。

いつまでもこんな状況は続かないという確信。

消極的に見えるかもしれないけれども、僕が厭世的にならなくて済んでいるのは、この確信があるからである。

 

 

会社は潰れても人は潰れない社会が良いという件〈再掲〉

会社は利益集団である。利益を上げることができなくなれば、市場から退場するというそれだけの存在である。

会社を存続させるためだけにに働く人たちが犠牲になることなんてあってはならない。

 

初出 2018/6/21

 

労働基準法すら守れない会社を擁護する論法として「労基法を守っていたら会社が潰れる。会社が潰れたら労働者は路頭に迷う。」というものがある。

確かに勤めていた会社が倒産すれば従業員は一時的に路頭に迷う。

しかし大抵は転職先が見つかり、何とかなるものである。

ただ、中高年の人たちは現状ではなかなか次の就職先が確保できない状況にある。

この中高年の失業している人たちが無能なのではない。

この国の多くの会社が採用している賃金体系・人事体系が中高年の人たちを排除するのである。

 

中高年の人たちに限らず、若年者にしてもなかなか転職は難しい。

昔から言われていることだけれども、労働市場が硬直化していたり、次々と職場を変える人たちに対して「どこか問題があるんじゃないか」という偏見が根付いていたりしている。

労働環境に問題があっても、その会社をなかなか辞められない。これは不幸なことである。転職しても待遇が悪くならないような状況が整備されていれば、無理してひとつの会社に固執する必要もない。最悪の場合、過労死や過労自殺に至るようなこともない。

 

この国の雇用環境は問題だらけである。これらの問題を一挙に解決するような妙案はない。

ただ、転職しやすい状況になること、ひとつの会社にしがみつかなくてもそこそこの生活レベルを維持できるような状況になれば、劣悪な環境で働き続けている労働者を救済するひとつの突破口になるのではないかと思う。

「会社は潰れても、人は潰れない」ような社会になれば、働く人たちが生きやすくなるというわけである。

 

会社の利益の極大化のためだけに、会社が大きくなるためだけに身を粉にして働くというのはバカバカしいと僕は思っている。

会社の利益をいかに多く生み出したかによって選別され査定される人生なんてクソみたいなものだとも思っている。

会社なんてたかだかカネ儲けという目的のために「便宜上」作られた組織に過ぎない。いつ、どこで潰れてもいいようなものだ。そんなもののために人生の大半を費やして、心身を擦り減らすことなんて馬鹿げている。

気に入った会社があったらそこで働いてやって、気に入らないことが出てきたら辞めて別の会社でまた働いてやる。この程度のメンタリティで十分なのである。

 

言うは易しだが、上述のようなメンタリティを涵養するのはなかなかに難しい。働き続けているうちについつい会社の論理・組織の論理に絡めとられてしまう。そして、その論理が疑う余地のない正しい価値観だと思い違いをしてしまうのだ。つまり、「会社ありきの自分」という自己規定をしてしまい、それに疑いを持つことすらなくなってしまうのである。

このループから抜け出さないと、労働者は永遠に搾取されるだけの存在に堕してしまうことになる。

 

「会社なんて潰れても何とかなる」、「気に入らない会社になんかいられるか」、といった気構えさえあれば何とかなる。

このような気構えを持つことが有効な生存戦略になりうるはずだという確信が僕にはある。

会社は潰れても、自分は絶対に潰れないという自信を持つにはどのようにすればよいか、ということを僕は常に考え続けている。今は明確な絶対的な答えは出せないでいるけれども。

  

 

 

会社を辞めることのリスクなんて大したことがないという件

世のサラリーマンで今している仕事に満足できずにできれば転職したりあるいはフリーランスになるとか起業したいとか考えている人たちが少なからずいるものと思われる。

その際にネックとなるのが、「会社員」という身分を失うことにより様々なものを失ってしまうというおそれの気持ちである。毎月振り込まれる定まった額の給料、健康保険や年金や雇用保険といった社会保障制度の恩恵、決まった仕事があるという安心感等が失われることの恐怖心である。

 

僕は今まで複数の勤め先を辞めてきた経験がある。

最初の勤め先を辞めるときはかなりの逡巡があった。辞めようと決断してから、実際に退職するまでにかなりの時間がかかった。やはり、安定した勤務先を失うことの恐怖心がつきまとっていたからである。次の仕事は本当に見つかるのかとか、フリーになるにしてもそのスキルや経験がないとかいろいろな心配をして、次の一歩へと踏み出す勇気が湧かなかったのだ。

僕の場合は、わりとすぐに次の仕事が見つかり、その仕事で身に着けたスキルと経験を基にしてフリーとなり、長期間糊口をしのぐことができた。

仕事を辞める際に心配し不安になったあれこれのことが杞憂に終わったのである。

 

僕は今就いてる仕事に不満があれば即座に辞めてしまえ、という無責任なことは言いたくない。我慢できるものであれば、我慢して今の仕事にしがみついた方がいい。今している仕事を続ければかなりの確率で心身を壊すとか、どう考えても将来性がなく自分のためにならないと判断すれば、そのときに辞めればいい。

なんだかんだ言っても、サラリーマンをしていることのメリットは侮れない。

 

ただ、会社を辞めることによって負うリスクを過大評価しすぎると身動きが取れなくなり、二進も三進もいかなくなることがある。

これはこれで面白くない。

僕の経験からも、あるいは周囲の友人知人のケースを見ても、会社を辞めても大抵は何とかなっている。確かに収入が下がったり不安定になったり、あるいは社会的な評価が下がったり(特に大企業や公務員を辞めたときに)するかもしれないが、いやな仕事やつまらない仕事をいやいや続けるよりは精神衛生上は良い。

 

会社を辞めることのリスクなんてたかが知れている。

嫌な仕事やつまらないと感じている仕事を無理やり続けるリスクよりも大きくはない。

所詮は少しばかりの安定を失うことと、大企業勤めや公務員をしていたときの「○○に勤めていて凄い」、という世間の評価が低下するだけのことである。

見栄や世間体で仕事をすることほど不毛なものはない。

 

会社なんて所詮は利益を出すために人が集まった擬制的なものにすぎない。

会社があって自分があるわけではない。

自己利益のために会社を道具として利用するといったドライな感覚を持っておいた方がよいと思う。

会社という組織の論理に絡み取られてさえいなければ、会社を辞めて(転職するにしても、フリーになったり起業するにしても)も大抵は何とかなる。

「何とかなる」「なるようにしかならない」との気構えがあれば、会社を辞めることのリスクなんて大したことがなくなる、と僕は確信している。

 

人に対する「信用」や「格付け」は、人の「選別」に行き着くという件

新しいビジネスとしてAIによって人間の信用度を測り、そのデータを企業に売るというものがあるらしい。この話を聞いて僕は暗澹たる気持ちとなった。

そんなに人間を格付けしたいのか、選別したいのかと。

 

クレジットカードや消費者金融の会社が対象者の信用度を調査するのは理解できる。

貸し倒れのリスクを軽減せるためには当然のことである。ローンを扱う会社が債権回収のための便宜のために信用調査するのは、ビジネス目的だけである。

しかしながら、AIによる人に対する格付けはビジネス目的以外に拡張適用する余地がある。たかだか勤務先や年収や学歴や持ち家か否か等の指標によって、人の価値を決めるなんてことに僕は同意できない。

 

僕の考えすぎなのかもしれないけれども、人を選別し格付けしようとする圧力がこの社会に蔓延しているような気がする。

人それぞれの「生きざま」はデジタルのデータだけでは判断できない。

良い大学を出て一流と呼ばれている会社や官公庁に勤めているとか、起業に成功して高い年収を得て莫大な資産を保有しているとかいった事実だけで、その人が人として優れているわけではない。このことは多くの人たちが了解しているはずだ。

なのに世間では主に経済的指標をもって人の価値を決めつけている。資本主義のドグマに骨の髄まで侵されているのである。

 

僕たちはついつい見せかけの判断基準で相手を判断してしまう。相手が無職だったりフリーターだったりニートだったりするとその相手の価値を低く見積もり大したことのない奴だと判断しがちである。逆に相手が有名企業に勤めていたり、金持ちだったりすると過大に評価しがちとなる。

 

そもそもが人を格付けして選別すること自体が不毛なことなのだ。

人について回る属性なんてその時々でコロコロ変わる不安定な代物だ。

たとえ一流と呼ばれる会社に勤めていても、リストラされたりあるいは辞めたりすれば一気に無職のプータローに変容する。金持ちの社長がビジネスに失敗しても同様である。うまくいっているときは立派な人で、一度失敗すれば取るに足らない奴だとなってしまう。人に対する格付けや信用なんて仮初のものに過ぎないのだ。

 

格付けや信用に限らず、人を「選別」するという営為自体がその先に恐ろしいものが待っている。

ナチスユダヤ人を劣等人種として選別し、また障がい者を役に立たない者として選別し、収容所に送り込み大量殺戮という蛮行を犯した。

ナチスの犯した蛮行を、特殊な狂気じみた例外事項としてとらえるのは間違いである。いつでもどこでも起こりうることなのである。

 

時の権力者は例外なく、民衆の自由をコントロールしそれを奪い統制することに快楽を覚えるものである。人に対する「選別」もその権力の行使のひとつである。

僕たちはこのことを心しておく必要がある。

人を経済的指標のみで判断したり、「役に立つ」か否かで判断することはその権力行使に加担する行為である。

安易に人を格付けしたり、盲目的に信用度の評価を信じるということを続けていると人の「選別」という恐ろしい行為に加担することになる。

僕たちはこのことも心しておく必要がある。

「ほどほどに」生きていく、ということをもっと考えてもいいのかもしれないという件〈再掲〉

成長や自己実現という言葉に踊らされ、背伸びすることを強いられる社会は窮屈だと感じる。それらは経済成長に資する生き方をせよ、と急き立てられているような感じもする。身の丈に合った生き方を志向することは間違ってはいない。

 

初出 2018/6/14

 

成長や自己実現や努力を至上のものとするイデオロギーに毒された社会では「身の丈に合った」生き方を志向しづらいものがある。

自分の「居心地の良さ」が第一だと僕は思うけれども、世間様はなかなか許してくれない。

 

僕は若いころ目に見えない何かに急き立てられていた。

それは自己実現とか仕事のやりがいとか成長し続けることと言った類のものである。

今いるその場に留まっていてはいけない、もっと高いところへといかなければならない、という強迫観念に似た何かに常に追い立てられていたのだ。

成長神話といった実体のないものに僕は囚われていたのである。

 

僕は40歳を過ぎたころから、今まで囚われていた上記のようなイデオロギーを信じることをやめて、「ほどほどに」生きることにシフトチェンジをした。

半ば諦めの境地に達したのである。そして、経済成長に資するための成長というものに対してバカバカしく感じるようになったためである。

 

「ほどほどに」生きるということを公言したら、現状維持に甘んじているだとか成長がなくなるだとかの苦言をいただくことになる。

現状維持のどこが悪いのか。

「ほどほどに」生きることのどこが退嬰的なのか。

ありもしない幻想に踊らされて、一生を馬車馬のように働き続けることがそんなに尊いことなのか、と問いたくなる。この問いに明確に答えられる人はほぼいないだろうと断言できる。

 

「ほどほどに」生きることは、自分の「分」を弁えることである。

分を弁えるといっても、僕は身分制社会を肯定するわけではなく、メリトクラシーを否定するわけでもない。

働き続けることが成長につながると信じている人たちは、そのイデオロギーに則って生きていけばいい。ただ、僕とは寄って立つ価値観の相違があるだけの話である。

僕は僕の価値観が正しいとは思ってはいない。一方で、勤勉至上主義的なあるいは労働至上主義的なイデオロギーが正しいと思っているわけでもない。

人は自分を取り巻く環境やそれまで生きてきた道程がそれぞれ異なっていて、人それぞれに自分なりの価値観を形作る、それだけの話である。

 

僕は「ほどほどに」生きるようになってから、それまでよりは随分と生きやすくなった。確かに経済的に豊かになることや高い社会的地位を得ることはできなくなったが、一日一日を楽しく面白く過ごせるようになった。

肩書やカネに汲々とする生き方から数歩隔ててみて、別の面白さを見出すことができるようになったのである。同時に「男なら〇〇であるべきだ」という世間からの同調圧力からも少しだけ離れることができたのは大きい。

 

僕は僕が実践している「ほどほどに」生きることを押し付ける気はさらさらない。

ただ、競争に疲れた人がいたならば、こちらの世界も結構楽しくてワクワクするよ、とそれらの人たちに悪魔の囁きをしてみたいだけなのだ。競争することだけが人生ではない、とオルタナティブを目の前に見せたいだけなのだ。

「ほどほどに」生き続けていって、良きところでほどほどの人生だったなぁと振り返りつつ自分の人生を終えたい。そうなれば万々歳である。

  

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