希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「ビジネスマインド」は限定的にしか通用しないという件〈再掲〉

僕は医療・福祉・教育にはビジネスの論理を適用できないと思っている。

それら以外にも公共性の高い領域ではビジネスマインドは通用しない。

市場原理主義的なマインドを押し付ける輩の罪は重い。

 

初出 2017/12/5

 

最近はあまり耳にしなくなったが、一時期「民間活力」の導入が殊更に取りざたされていた。民間にできることはすべて民間企業でやるべきだという言説だ。構造改革のキモである。

民間活力とはつまりはどんな事業もビジネス・マインドをもってあたることである。

この言説は一見正しいもののように思える。

 

ビジネス・マインドという言葉は耳ざわりの良いものではあるが、要は「カネ儲け」至上主義の考え方である。

資本主義体制下の社会ではこの「カネ儲け至上主義」自体は悪ではない。

利益を得てそれを極大化するために会社組織(主として株式会社)を利用し、組織を増大化させることを最大の目的とする、ということが資本主義体制下では善なるものとなる。

 

現行の社会システムではビジネス・マインドそのものは必要不可欠なものである。ただし、市場経済システムになじむ競争がなされている領域での話である。コストを最小化して利益の極大化を図るという行為が是認されている領域での話である。

医療、福祉、教育、芸術、社会的共通資本等は元々ビジネス・マインドにはなじまない領域である。市場の論理を適用すれば、破綻をきたすか、あるいはサービスの不均衡が生じる領域である。

これらの領域ではビジネス・マインドは全く通用しないか、良くても一部のみしか通用しない。

 

構造改革民間活力導入市場原理主義的な路線によって医療や福祉、教育、社会的共通資本などの領域では当初の意図に反してサービスの質の低下を招いている。

医療・福祉の崩壊、教育に関連する問題の頻出する要因はすべてではないにしろビジネス・マインドへの盲信によるものである。

この世に存在する商品やサービスがすべてカネに換算されるという考え方自体が歪なものなのである。

 

例えば街中に市民の憩いのスペースがあったとする。そこでは子どもが野球やサッカーに興じたり、市民が散策したり休憩したりしている。このままでは「利益」が出ないと判断して、その場所を有料化し遊具を備えたり、あるいは会社に売却して一部の人にしか利用できない施設にして利益を出すようにする。土地の有効活用を図るのである。これがビジネス・マインドである(実際にあった話である)。

ある歴史のある大学でのエピソードも挙げておこう。その大学の校舎は世界的な建築家が設計した校舎を有しており、その校舎の美観は優れていて文化的価値は高い(しかし老朽化している)。ある時その大学は経営刷新のためにコンサルタント会社に委託したところ、美観と伝統を誇る校舎を資産価値ゼロと査定し、全面的な移転を提案したという。これこそまさしくビジネス・マインドの限界を露呈し、ビジネス・マインドがもたらす空虚さを露呈したものだといえる。

 

繰り返すが、ビジネス・マインドなるものは限定的な場でしか通用しないものなのである。なのに、あらゆる領域でビジネス・マインドを適用させようとし、そのこと自体が正しいと妄信することが今のこの世の中にまかり通っている。市場経済の中でしか通用しないことを、すべての領域で適用させようとしていることは愚かであるとしか言いようがない。

政治家や官僚をはじめとする公の仕事に従事する者たちが(公共心が必要なのに)ビジネス・マインドに侵されていることが、社会システムの不調を引き起こしている要因のひとつとなっている、と言えるのではないだろうか。

 

ビジネス・マインドへの盲信は、イデオロギーと化している。その弊害はこの社会の至るところに顕れている。

ビジネス・マインドは絶対的なものではなく、限定的にしか通用しないものだと僕たちは心しておく必要がある。

 

  

 

 

働くことが嫌になっても、気にすることはないという件

僕は年がら年中働くことが嫌になる。

今は割と好きな自分に合っている仕事をしているけれども、それでも職場に出向く前に「あーあ、嫌だな」という気持ちになってしまう。

これは僕の資質や性格によるものなのか、あるいは労働というものが有している根源的なものによるのかは定かではない。

 

働くことが嫌いだと公言すると、世間からは冷たい視線を浴びることになる。仲の良い友人にもおいそれとは言えない。もし、働くのは嫌だと友人に言ってしまうと微妙な空気が流れる。さすがに説教されることはないが、でもなぜ労働が苦痛かという話題は深まることはない。

多くの真っ当な人たちにとっては働くことはごく当たり前のことであり、それに異を唱えることは社会・世間に居場所を失くしてしまうような一大事なのである。

 

僕は元から働くことに苦痛を感じていたわけではない(働くことが好きなわけではなかったけど)。どうやら、歳を経るにつれて雇われて働くことがたまらなく苦痛になってきたようだ。自営業やフリーランスの形で働いているときは、辛いことや嫌なこともあったけれども、前のめりに仕事に向かい合っていたように思う。

僕が好きなこと情熱を傾けることができることとカネを生みだすことができる事柄とがうまくマッチングしていないだけなのだ。~だけなのだ、と強がってはいるが、これは僕にとっては大きな問題である。カネを生み出す仕事にうまいこと就けないことになるからだ。僕の志向と世の中にある仕事がマッチングしない、と泣き言を言っているだけでは干上がってしまう。僕はこれまで自分がやりたいことや実際にできることと世の中の仕事との間に折り合いをつけて、だましだましやってきたのだ。これは僕だけの話ではなく、大半の人たちにも当てはまることだと思う。

 

雇われて働くということは、そこに雇用者・経営者との間に支配ー被支配関係が生まれ、常に搾取され続けるということである。僕は搾取自体が悪だとは思わない。資本主義体制は搾取なしには成り立たない。資本主義体制を支持している限り、搾取を否定することはできない。でも、自分が働いた分の利益の大半を搾取されることに、何だかなぁ、という思いはある。それゆえに僕はフリーランスを指向することになるのだけれども、それはそれで別の違った様々な問題がある。

雇われて働くのは嫌だけども、ある意味では楽であるということも言える。

 

世のサラリーマンたちの中で、「嫌だなぁ」と思わずにすすんで働いている人たちはどれくらいの割合でいるのだろうか。

働くことが嫌になってしまったら、どのように対処すればいいのだろうか。

僕には正しい答えが分からない。

僕の主観であり、エビデンスのない予測だけれども、かなりの割合で働くことを苦痛に感じている人たちが存在しているように思う。生活のためにやむなく働いている人たちが多数派で、本当に仕事が面白くて仕方がないと思って働いている人はレアケースなのではないか。

 

僕は常に沸き起こる「仕事が嫌だ」という気持ちを手懐けながら生きていくしかないと思っている。仕事が嫌だという感情を無理に押さえつけることは不可能だ。ネガティブな感情は決して悪いものではない。ネガティブな感情を無理やりポジティブなものに変えることを称賛する世の中の風潮が間違っている。

働くことが嫌になることは常に起こりうるものとして、その気持ちに対峙し、否定せずに自分なりに飲み込んて「仕方なく」働き続ける。

働くことが嫌になっても、そんなに気にすることはない。

 

僕は「ヘタレ」であるという件

僕は「ヘタレ」である。

このヘタレという言葉は元々は関西圏で用いられたものだと思うが、テレビのバラエティー番組で屡々使われることによって人口に膾炙するようになった。

「ヘタレ」という語の持つ意味は、少々ニュアンスが異なるが、根性がないこと、すぐに泣き言を言うといった感じのものである。ただ、ヘタレは全くのネガティブな意味合いだけではなく、愛すべきものといった意味合いが込められているように思う。

 

さて、冒頭にも書いたように僕は典型的なヘタレである。

僕には根性がない。嫌なことをし続けることには耐えられない。

声の大きい人に対してはなかなか物が言えない。

時々、このブログでは強気な意見を吐くことがあるが、もし炎上したらかなり凹む。

もし仮に「労働忌避者処罰法」なるものが制定されたら、僕はいやいやながらも進んで労働に従事する。だって痛い思いや辛い思いや怖い思いをするのは嫌だから。警察に捕まって厳しい取り調べを受けたりしたら、僕はすぐに自分の非を認めて囚われの身から脱することを欲するはずである。

僕は弱い人間であり、ヘタレなのである。

 

僕が殊更に根性論や精神論を忌み嫌うのは僕がヘタレであるからだ。同様に体育会系的な組織に全くなじめないのも僕がヘタレであるからだ。

強い意志を持ってひとつの目標にまっしぐらに突き進むというメンタリティを僕は持ち合わせていないし、またそれを理解できない。大義に準ずるなんてことも僕の理解の範疇の外にある。だから僕は特定のイデオロギーを信じることができない。

 

僕は明日のために今日は我慢するという考え方に違和感を持っている。苦しいことや辛いことを乗り越えてこそ成長するという物言いは眉唾物だと思っている。

快楽や居心地の良さ、楽しいことや面白いことにならばひたすらにそれらを追求できる。

これらも僕がヘタレであるが故である。

 

実は僕がヘタレであることに気付いたのは最近のことである。

若いころは自分は意志が強く責任感も強いと自己規定していたのだ。競争から脱落することをおそれてそのようにふるまっていたのかもしれない。

様々なことが重なって、僕は脱力し、実は自分はヘタレだと思い知ったのである。

僕は自分の本質的な性質はヘタレだと気付くことによって、随分と生きやすくなった。

しんどそうなことや面倒くさそうなことを頼まれてもあっさりと断ることができる。だって僕はヘタレだもの、と開き直って、他者からの高い評価を求めない。僕にとって許容範囲外の負荷がかかりそうな仕事はしない。

今では僕という人間が採るべき最も有効な生存戦略だと思っている。

 

僕はヘタレではあっても、相手からは可愛げのあるヘタレでありたいと思っている。

全く使えない奴だと思われるのは癪だ。できないことは多々あるけれども、ある特定の分野ではなかなかに使える奴だと思われたい。そのためには僕なりの成長のための営為を続けていく。

僕はこれからもずっと「愛されるヘタレ」となるために、ダメ人間ながらも精進を続けていきたい。

「ニート」や「ひきこもり」はこの社会が変わりつつあることの表象だという件〈再掲〉

ニートやひきこもりの人たちが増えているのは現代社会の病理だという。僕はこの「病理」という物言いが気に食わない。

僕はニートやひきこもりの人たちが現れてきているのは「必然」だと思っている。

 

初出 2017/11/30

 

ニートやひきこもりとなる人たちが増加していることは社会問題だと捉える向きがある。

同時に個人の資質の問題だとする言説も多い。コミュニケーション能力の欠如だとか精神疾患によって表れた行動だとする。

いずれにしても現代社会が生んだ社会病理だという見方が大勢を占めている。

 

ニートやひきこもりが顕在化したのは社会が豊かになったことの顕れである。

昔から働かない人やフラフラとして生活が定まらない人は一定数存在していた。夏目漱石の『それから』の主人公は「高等遊民」を気取っていた。今で言うなら立派なニートである。生家が裕福で働かなくても生きていけたというだけの話である。

社会全体が物質的に豊かとなれば、働かなくても何とか生きていける人たちが増えてくるのは自明のことである。

ニートやひきこもりが「社会問題」とみなされるのはその社会を覆っている労働観をはじめとする価値観によって決せられているだけのことである。

 

昨今はニートになったりひきこもりになったりすることは絶対的に悪いこととはみなされない傾向にはなってきている。

労働環境の劣化、経済のグローバル化等によって昔に比べて働くことのハードルが上がってきているのはどうやら確かなようだ。一昔前ならどうにか一人前に働けた人が今の労働需要にはマッチせずに排除される、といったところである。

「総サラリーマン化社会」となったら、それに適応できない人たちは増えていく。「総サラリーマン化社会」は多様性を失った均質的な社会である。従来はそのような社会に順応することが当たり前であって、不適応をきたす人たちはその人自身に問題があると切り捨てられる傾向にあった。極言すれば国の経済成長に資することができない人たちは無用の長物扱いされてきたのだ。

 

かつては圧倒的な少数派だったニートやひきこもりの人たちが無視できないほどの数となってきて「社会問題化」し、全面的ではないにしろその存在が認められるようになってきた。ニートや引きこもりの人たちを支援する制度や施策が公共機関・民間問わずに次々と登場している。中にはニートやひきこもりの人たちを労働市場に送り出すことに主眼を置いた旧態依然とした支援もあるが、一方でその人の状況に応じた「自立」を促す支援が増えてきている。

 

誰でもニートやひきこもりになる可能性がある。特別な人だけがニートやひきこもりになるのではない。多くの人たちがそのように認識するようになったことは大きな前進である(一部には単なる怠けだとか病気だと捉える人もいるが)。

ニートやひきこもりという事象について考えることは実は僕たちの「生き方」を捉えなおすことでもある。

多様化・多元化を希求しつつも内実は均質化に覆われているこの社会で一面的な価値観に囚われない生き方ができるのか、ということである。

働けない奴はダメだとか稼げない奴は価値がない、といった経済至上主義的な価値観の下で、それに疑問を持ち、その価値観に縛られずに好きなように楽しく面白く生きていこうとすることである。

ひとりひとりがそれぞれに異なる価値観を有し、それを互いに認め合って生きていくことでもある。

僕はこれらのように、社会が変わりつつあると信じたい。

 

ニートやひきこもりのような少数者や異端者が社会に包摂され、「居場所」が確保され、人としての尊厳が保たれて生きていけるようになれれば、と僕は切に願っている。

ニートやひきこもりの存在は、この社会が変わりつつあることの表象だと思いたいし、僕の独りよがりな希望的観測に終わらないことを切に願っている。

「忙しい」ことが善とされるこの社会はおかしい、という件

僕は何度もこのブログで自分は「ヒマ人」であると公言している。自慢しているわけではなく、ちょっとばかり自分を卑下している。と同時に「忙しいことは良いことだ」というイデオロギーに抗っている。

 

今でこそヒマであることを誇っている(?)僕ではあるけれども、20代・30代の頃は忙しい自慢をしていた。スケジュール帳の余白がなくなることに喜びを感じ、やるべきことでもないのに「しなくてはならないこと」だとして時間の隙間を埋めていたのだ。

ヒマそうにしている人を見聞きすると、「あの人は使えない人」だと勝手に決めつけていた。今にして思えば本当にどうにかしていたのである。

 

世間では、忙しい人、忙しそうにしている人が有能だとみなされている。

その同調圧力はかなり強いものがある。

多くの人たちは本当は忙しくないのに忙しいふりをしていたり、無理やり自分を忙しい状況にしていたりする。

僕は嬉々としてスケジュールを埋めて、忙しい自分に陶酔している人を何人も見てきた。それらの人たちが本当に有能だったのかといえば疑問符が付く。

 

僕は誰もが僕のようにヒマ人になればいいとは思っていない。僕のようなダメ人間が増殖すればこの社会は回らなくなるに違いない。

ただ、多くの人たちがそこそこスケジュールがつまっていて、適度に休みがある状態になれば、生きやすい社会になるのではと僕は思っている。ある程度の「ゆとり」や「ゆるさ」がなければ効率性も落ちるのではないだろうか。

ぎちぎちのスケジュールに振り回され、余裕をなくした常態となれば、トラブルが起きたり人間関係がギスギスしたものになって、結果として良いパフォーマンスを発揮できなくなる。

 

「忙しいことが良いこと」だという風潮が蔓延しているのは、「人は常に勤勉でなければならない」という勤勉至上主義イデオロギーが人々を捉えているせいだと思う。このある種の精神主義が「忙しいことは良いことだ」という風潮を作り出している要因のひとつになっている。

あるいは資本主義体制を成り立たせ、それを突き動かすドグマが「忙しいことは善」というイデオロギーもどきのものを作り出している。

 

忙しい人たちや忙しそうにしている人たちは、実は非効率な動き方をしているだけなのかもしれない。実は周囲からの同調圧力にさらされて、忙しい「ふり」をしているだけなのかもしれない。忙しいことに本当に喜びを感じているのはほんの一握りのワーカーホリック的な人たちなのかもしれない。

僕は根っからの怠け者なので、忙しいことをよしとしている人たちの気持ちが理解できないでいる。僕も若いころは忙しそうにしていたが、本心ではどうだかなぁと疑問を抱いていたように思う。その疑問を打ち消すためにより一層、自分を忙しくさせていた節がある。ヒマそうにしている人に対して「使えない奴」とのレッテル貼りをしていたのは、そうでもしないと自分が否定されるような気がしていたからである。

 

「忙しいことが善」というイデオロギーもどきはそうそうは消滅しないだろう。

この疑似イデオロギーは人を評価する基準となっている。

この強固なものに正面からぶつかっても自分が砕け散るだけである。

僕は自分がヒマ人であることを公言しつつ、細々と世間の隙間を縫って生きていくしか、今のところ手立てがない。

まあ、仕方がないか。

 

 

 

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