希望の舎―再生編ー

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「ニート」や「ひきこもり」はこの社会が変わりつつあることの表象だという件〈再掲〉

ニートやひきこもりの人たちが増えているのは現代社会の病理だという。僕はこの「病理」という物言いが気に食わない。

僕はニートやひきこもりの人たちが現れてきているのは「必然」だと思っている。

 

初出 2017/11/30

 

ニートやひきこもりとなる人たちが増加していることは社会問題だと捉える向きがある。

同時に個人の資質の問題だとする言説も多い。コミュニケーション能力の欠如だとか精神疾患によって表れた行動だとする。

いずれにしても現代社会が生んだ社会病理だという見方が大勢を占めている。

 

ニートやひきこもりが顕在化したのは社会が豊かになったことの顕れである。

昔から働かない人やフラフラとして生活が定まらない人は一定数存在していた。夏目漱石の『それから』の主人公は「高等遊民」を気取っていた。今で言うなら立派なニートである。生家が裕福で働かなくても生きていけたというだけの話である。

社会全体が物質的に豊かとなれば、働かなくても何とか生きていける人たちが増えてくるのは自明のことである。

ニートやひきこもりが「社会問題」とみなされるのはその社会を覆っている労働観をはじめとする価値観によって決せられているだけのことである。

 

昨今はニートになったりひきこもりになったりすることは絶対的に悪いこととはみなされない傾向にはなってきている。

労働環境の劣化、経済のグローバル化等によって昔に比べて働くことのハードルが上がってきているのはどうやら確かなようだ。一昔前ならどうにか一人前に働けた人が今の労働需要にはマッチせずに排除される、といったところである。

「総サラリーマン化社会」となったら、それに適応できない人たちは増えていく。「総サラリーマン化社会」は多様性を失った均質的な社会である。従来はそのような社会に順応することが当たり前であって、不適応をきたす人たちはその人自身に問題があると切り捨てられる傾向にあった。極言すれば国の経済成長に資することができない人たちは無用の長物扱いされてきたのだ。

 

かつては圧倒的な少数派だったニートやひきこもりの人たちが無視できないほどの数となってきて「社会問題化」し、全面的ではないにしろその存在が認められるようになってきた。ニートや引きこもりの人たちを支援する制度や施策が公共機関・民間問わずに次々と登場している。中にはニートやひきこもりの人たちを労働市場に送り出すことに主眼を置いた旧態依然とした支援もあるが、一方でその人の状況に応じた「自立」を促す支援が増えてきている。

 

誰でもニートやひきこもりになる可能性がある。特別な人だけがニートやひきこもりになるのではない。多くの人たちがそのように認識するようになったことは大きな前進である(一部には単なる怠けだとか病気だと捉える人もいるが)。

ニートやひきこもりという事象について考えることは実は僕たちの「生き方」を捉えなおすことでもある。

多様化・多元化を希求しつつも内実は均質化に覆われているこの社会で一面的な価値観に囚われない生き方ができるのか、ということである。

働けない奴はダメだとか稼げない奴は価値がない、といった経済至上主義的な価値観の下で、それに疑問を持ち、その価値観に縛られずに好きなように楽しく面白く生きていこうとすることである。

ひとりひとりがそれぞれに異なる価値観を有し、それを互いに認め合って生きていくことでもある。

僕はこれらのように、社会が変わりつつあると信じたい。

 

ニートやひきこもりのような少数者や異端者が社会に包摂され、「居場所」が確保され、人としての尊厳が保たれて生きていけるようになれれば、と僕は切に願っている。

ニートやひきこもりの存在は、この社会が変わりつつあることの表象だと思いたいし、僕の独りよがりな希望的観測に終わらないことを切に願っている。

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