希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

当事者が声を上げない限り何も変わらないという件

高度プロフェッショナル制度、いわゆる高プロの導入を巡っての議論が続いている。まもなく可決される見通しだという。

僕はサラリーマンではないので直接は関係のない法案である。でも、サラリーマンの友人がいて、彼らが高プロに適用される可能性もあるので無関心ではいられない。

 

僕が気になるのは高プロを適用されるサラリーマン自身の反応が鈍いことである。今のところ年収1075万円以上のサラリーマンに適用されるらしいが、財界は年収400万円以上のサラリーマンに適用しようと目論んでいるらしい。年収400万円以上が適用対象者となると多くのサラリーマンがあてはまることになる。こうなると、一部の高所得者の話だと対岸の火事としてやり過ごすことができなくなる。

それなのに、高プロに強く反対という意思表示をしているのは学者やジャーナリスト等の「外部」の人たちばかりである。

高プロの「当事者」であるサラリーマンたちはデモもせず、労働組合を通して政府と交渉もせず、ゼネストもせず、なすがままになっている。まともな国なら、労働者に不利益を強いる制度が導入されようものなら、労働組合が旗を振って、ゼネストを決行したり大規模なデモを行ったりするはずである。

高プロにせよ、少し前の裁量労働制の適用拡大にせよ、この国のサラリーマンは何の意思表示もしていない。反対の意思表示がないということは、それらの制度を受け入れ、より一層隷属するということを認めるということである。

 

似たような事例は介護労働者にも見られる。介護労働現場の人手不足・人材不足は広く知られている。将来はもっと悲惨な事態に陥るという。さらに介護労働者の待遇の劣悪さは改善される見込みがない。労働強化が進み、かつ低劣な待遇を強いられているのに、当事者の声は弱い。

 

僕がかつて高齢者施設で働いているとき、待遇の改善、いや明らかな労基法違反が常態化していることを正せと上層部にかけあったことがある。

どうなったか。

普段は会社への不平不満を愚痴っている他の従業員が会社側に立ち、僕は孤立したのだ。そのような事態になったので、僕はその職場に見切りをつけてすぐに退社した。

介護現場の労働者の意識が特別に低いというわけではない(多少はその傾向はあるけれども)。多くの従業員は会社側に睨まれることを恐れ、自己保身に走ったのである。

僕の狭い範囲の体験だけで一般化することはできないが、当事者意識が希薄な労働者が少なからずいるということが推測できるのである。

 

直接的に強い利害関係がある当事者が声を上げなければ、現状を変えることはできない。それは高プロの話だけでなく介護現場だけの話だけではない。様々な領域に及ぶ話である。

この国では問題点を言挙げすると、似たような境遇の人たちからはしごを外され、負の同調圧力にさらされることになることが多い。現状を変えることに多大なエネルギーを要することになる。

 

当事者意識を持つことすら忌避されるような「空気」や風潮が蔓延する社会はディストピアとなる。

声を上げようものなら、足を引っ張られ、時には集団から排除されるような社会は不健全である。

同時にこのような社会は権力を有する者、社会的強者にとっては誠に都合の良い社会でもある。

当事者が声を上げない、あるいは声を上げ辛いという常態は、一歩ずつ確実にディストピアの世界へと続いている。

一見役に立たない知識こそが実は大切であるという件〈再掲〉

昨今は高等教育において「実学」を重視する方向になっている。人文系学部を廃止せよという暴論もまかり通っている。

すぐに役に立つ知識の賞味期限は短い。

カネにならないように見える学問を軽視すると、手痛いしっぺ返しを喰らうことになる。

 

初出 2017/11/14

 

僕たちは何のために学ぶのか。

この根源的な問いに対しては明確な答えはない。

功利主義的に答えれば、知識を得ることあるいは学歴を得ることによって経済的な豊かさを獲得するため、ということになる。仕事に役立つ知識を得ることによって他者に比べて優位性を確保し専門性を得て相対的に優遇された処遇を手にするのである。

資本主義体制下ではカネを稼ぐ能力が高い人が社会的な威信を得ることになる。様々な知識を得るために学ぶという行為はカネ儲けのため、といった身も蓋もない結論が導かれる。

 

仕事のために役立つ知識を得ること、カネを稼ぐために有利な専門性を身に付けることが学ぶ意義だと言われたら、僕はそれに対して強い違和感を覚える。

昨今、経済界は大学(時には高等学校にも)に対して自社の利益の拡大に資するような学生を養成せよ、といった要望を出している。また、多くの大学はやれグローバル人材を養成するだの、国際人を作るといったスローガンを掲げている。大学という高等教育機関が経済界の下僕に堕しているのである。

何も僕はすべての大学に教養を身に付けさせろとか浮世離れした学徒を生み出せとか言いたいわけではない。職業教育は当然に必要である。この社会を構成し維持発展させる、社会の一員として己の役割を果たせるような「一人前」の人間を育む機能を有することが教育機関には要請されている。

 

もう一度冒頭の問い、人はなぜ学ぶのか、ということに戻る。

僕の個人的な考えだけれども、人は自分が何を知らないかを知るために学ぶ、あるいは自分が知らない森羅万象に対して向き合うために学ぶ、ということである。

学んだことの結果として、それが経済的利得を獲得できたならそれでいい。社会的威信の高い仕事に就けたのならそれでいい。ただ、これらのことだけを目的に学ぶということは何だか学ぶということの本義を履き違えているような気がしてならないのである。

 

人文科学系の歴史や倫理や哲学、神学、あるいは物理学や数学などといった知識を取得してもカネ儲けには直接はつながらない。だからといってそれらの学問は無駄なものではない。それらの知の体系は尊重されるべきものである。

一見して自分の生活に直接的に役に立たないように見える知識こそを大切にしなくてはならない、と僕は思う。

実学系の工学やコンピューター・サイエンス、経済学、経営学といった学問領域をマスターすれば高い確率でその専門性を活かして「良い仕事」に就ける。経済成長に資する何かを生み出せるかもしれない。だからといって「役に立たないように見える知識」を軽視して良いということにはならない。

社会の成り立ちはどのようなものなのか、現在の社会を分析すること、人が人として存在するのはなぜなのか、といったような根源的な問いに向き合う「学び」は時として実学的な学問よりも必要とされることがあるはずである。また、そのような「学び」、探求心を失ってしまえば、人は人でなくなる。

 

僕は人文系の学問や自然科学系の基礎研究といったカネにならない学問を軽視する風潮を危惧している。このような態度は知の劣化の表れだと思っている。

一見役に立たない学問・知識こそが大切なものである、「知の財産」であるということを、微小な声かもしれないけれども挙げ続けたい。 

 

 

「努力をすれば報われる」という嘘を垂れ流し続けるのはやめようという件

僕は「努力をすれば、必ず報われる」というのは嘘っぱちだと確信している。

この一見尤もらしい物言いは多くの人たちを傷つけている。

半世紀の間生きてきて、努力しても結果が伴わないことの方が多いということを痛感している。それが人生だということなのだ。

 

世の中の多くの人たちは知っている。

ある分野で成功に至った要因は、実は運であったり、時の流れに乗っただけであったり、持って生まれた資質によるものであったりで、努力というものは決して決定的な要因ではないということを。

しかし、努力することが良いことだというイデオロギーを否定すると社会の不安定化を招く恐れがあり、権力者やそれに連なる層は困ることになるのである。

 

確かにあることを為そうとするときは努力は必要である。全くの努力なしで社会の上層に達せるのは特権階級に生まれ、その既得権益を受け継いだ世襲の子女だけである。

いわゆる「普通の」家に生まれた圧倒的多数の人たちは何らかの努力を続けなければ浮かび上がることはできない。

 

人は生まれながらにして差がある。それは能力や資質の差であり、生まれた家の社会的威信・資産・文化資本等である。

そして、「努力をする能力」「努力をし続けられる能力」にも差がある。

教育関係者に多く見受けられるが、人の能力は生まれながらに平等であるとか、努力する能力は平等である、という幻想に囚われている。

この平等幻想が「努力すれば報われる」という努力至上主義イデオロギーを蔓延らせるひとつの要因となっている。

 

僕は努力することを全否定したいわけではない。努力やプロセスを放棄してただ気ままに怠惰に生きろという極論には首肯できない。

何事かを為すため、結果を出すためにはそれ相応の努力は必要である。当たり前の話である。

 

ただ、生まれついた家の資産や文化資本の差や、遺伝的に伝えられた資質や能力の差を度返しして、努力を強いる態度はいかがなものかと、ちょっと懐疑的になっているだけなのだ。

繰り返しになるが、残念ながら人は平等に生まれついてないし、差がある。

また、殆どの努力は報われないし、努力をする能力そのものが人によって差がある。

この厳然たる事実を直視しなければならない。

お花畑的に「やればできる」という甘言を投げつけて、後は放置して、その人の意欲を削いでしまう事例があまりにも多い。

 

努力至上主義的イデオロギーはすぐさま自己責任論に結びつく。

結果が出ないのは努力が足りなかったからだ、と個人のみに責任を押し付けることになる。ある人が報われないのは多くは(全てではないが)環境や社会システムの歪みに起因するものである。また、運の良し悪しにもよる。

結果=努力とする思考様式は危険性を孕んでいるものだとの意識を持たないと、思考停止に陥ってしまう。

 

「努力はしなくてはならないものだけれども、それはほんの一部が報われることがあり、殆どは報われない、でもそれで十分なのだ」程度の認識でいいのではないか、と僕は思っている。

努力をする能力がほんの少し欠如していたり、努力を続ける環境に恵まれていなければ、その人に対して無理して努力を強いることもない。

想定する結果を得られなくてもいい。

不完全ながらもそこそこ満足できるような生き方ができればいい。

自分の「居場所」を世間のどこかに確保して、自分の存在意義を認めることができればそれでいい。

このように考えてしまう僕はやはりダメ人間なのだろう。しかし、それでもいいと思っている。

僕は本当は貧困やひきこもりの問題を声高に主張したくないという件

僕がこのブログを書き続けているのは労働問題や貧困やひきこもり等の問題をもっと多くの人に知ってもらいたいと思うからである。

僕の弱小ブログの影響力なんてたかが知れている。

芥子粒ほどの力しかなくても、積み重ねていけば何らかの形になると信じてこのブログを続けている。

 

しかし、僕は貧困やひきこもりの問題や労働問題等について、「こんなにひどいことがあるぞ」「こんなことはおかしいぞ」と主張することにちょっとだけ疚しさのようなものを感じるときがある。

ある問題を強く主張し、その「責任者」を糾弾・追及することはその問題を可視化することである。本来ならばひきこもりも貧困も「問題」とならなくなればよいことである。

社会問題を声高に主張する人たちは無意識の裡に問題がこじれて社会を揺るがす大問題となることを望んでいるのではないか、と邪推してしまう。穿った見方をすれば、社会問題が解決してしまえば声高に主張している人たちの食い扶持やアイデンティティを奪うことになり、実はその問題の根本的な解決を望んでいないのではないかと思ってしまうのだ。

ある社会問題が存続すればするほどそれらの人たちの存在価値が高まっていくのである。

 

もちろん、社会運動をしている人たちは大多数が善意で正義感をもって活動をしている。社会問題の解決に心血を注ぎ、今よりも生きやすい社会を構築しようと懸命になっているのも理解している。

しかしながら、「正しいこと」「正義」に基づいた活動はちょっと間違うと暴走し、時には「弱者権力」みたいなものを生み出してしまうおそれがあることを知っておかなければならないと思う。

 

僕は被差別部落に関する問題にも多大な関心を持っている。あんな理不尽な差別なんか一刻も早く根絶すべきだと考えている。

全国水平社を設立する経緯、その運動に関した著書を読んでいると胸が熱くなる。他方、「同和利権」を漁るような運動体の腐敗には強い憤りを感じる。生存のための闘争、人間の尊厳を守るための闘争には強く共感するけれども、運動体が大きくなりその組織存続のためだけの運動や利権漁りには強い拒否反応を示す。

同和団体のことに限らず、何らかの社会問題を解決するための活動にはこういった類の話はよくあることである。

 

僕はひきこもりや貧困の問題には自分なりにコミツトしたいと思っている。元々の専門だった労働問題についてはもっと突っ込んだ関わりを持ちたいとも思っている。これらの問題を他人任せにしておいて、自分は「外」に身を置いて高みの見物を決め込む、といった態度は取りたくない。けれども、バリバリの「活動家」になりたいとも思わない。僕の心のどこかに問題に深入りすることへの違和感が棲みついている。この違和感がどこからきているのか、僕にははっきりとは分からない。もしかすると、このエントリーのはじめのところで述べた社会問題を声高に叫ぶことの「疚しさ」がこの違和感に関係しているのかもしれない。

 

貧困やひきこもりの問題や労働問題は僕の「身近にある問題」であり、僕は自分の身を守りたいがためにこれらの問題についてコミットしているのである。利己主義的であることは否めない。この社会を変えてやろうという壮大なビジョンなど持ち合わせていない。ただ、自分の手の届く範囲にあることをひとつひとつ解決することが「蟻の一穴」になる、という確信は持っている。

僕はこれからも「小さな声」を上げ続けていきたい。

 

効率性・生産性重視の世の中に僕はついていけないという件〈再掲〉

生産性やコストパフォーマンスばかりを求められる風潮に僕は抗いたい。

ビジネスの論理がそれになじまない医療や福祉あるいは文化芸能にまで及んでいることに苛立ちを覚える。ビジネスの論理は限定的にしか適用できないものである。

 

初出 2017/11/7

 

僕は経済成長を至上の価値とする価値観になじめない。

「カネがすべて」というイデオロギーにもなじめない。

これらのイデオロギーが正しいとされる社会では効率性を追求される。カネ儲けに直接役に立たなそうに見える知識やスキルは無用のものとされがちである。

 

僕は20代、30代の頃は常に効率性を追い求めていた。いや、そうでなくては競争に負けてしまい「負け組」に転落すると思い込み、何かに急き立てられていたのだ。

勤め人の時もフリーランスで仕事をしている時も、効率性を高めることが成長につながると思い込んでいた。自分を成長させようとしない人たちはクズだと切り捨てていたのである。この成長という概念もいかにカネが稼げるか、仕事ができるかというように限定された範囲でとらえる視野狭窄に陥ったものだった。

結果、終わりのない先の見えない競争に疲れ、僕は真っ当とされる社会のレールから逸脱してしまったのである。

 

効率性ばかりが求められる社会では、経済成長に直接資することのない様々なものが軽視され排除される。何でもカネに換算され、カネに換算されないものは無用のものとみなされる。

均一化された度量衡によって計られるもの、例えば経済指標や会計上の帳簿等によって目に見える数字だけが独り歩きするようになる。人は目に見える数字に縛られ、その数字を上げるためだけに存在する駒のようになってくる。

 

僕たちは経済成長の駒となるためだけに生きているのだろうか。

カネを稼ぎ、消費するためだけに生きているのだろうか。

おそらくこのような根源的な問いは今の世の中では無意味なものとされるだろう。

こんな問いを発する時点で、そのような人はこの社会では足手まといな存在に堕することになる。そして効率性重視の社会ではこの手の足手まといな人たちは生きる場所を狭められるかあるいは生きる場所そのものが存在しない、ということになる。

 

効率性や生産性を高め続けて、その先には何があるというのだろう。

モノが溢れて、過剰なサービスが溢れる物質的に「豊かな社会」となり、人々はその豊かな社会で幸せな消費者となるのだろう。現に今はその意味での豊かな社会を実現している。そして更なる豊かさを追求し続けている。

この国は少子高齢社会となり人口減に見舞われている。これ以上の経済成長は見込まれない「縮小社会」となっている。この現状から僕たちはいかにして縮小社会の中でひとりひとりがその人なりの豊かさを享受するか、という考え方に軸を変えなければならないはずである。いつまでも経済成長至上主義イデオロギーに囚われていてはだめなのである。同時に効率性や生産性が高いことが善、というイデオロギーも無効化されるものである。

 

効率性を重視するイデオロギー埒外で僕は生きていきたいと願っている。

近い将来、効率性の高さを競わない社会、あるいはそのような共同体が出現するという淡い期待を抱いている。

僕のようなダメ人間でも、社会の隙間に居場所がある、そのような社会になればいいと切に願っている。 

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