希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕は「奇人」「変人」と言われている人が好きであるという件

僕は自分自身のことを至って普通で平凡な人間だと思っている。突飛な発想なんてできないし強い個性があるわけでもない。

僕は子どもの頃から、人とちょっと違った考え方や行動をする人たちに憧れていた。周囲から少々煙たがられている(変わった奴だと見られている)ような人と友だちになることが結構あった。

今から思えば、変わり者の友達から得たもの、今の僕のメンタリティを形成するベースとなったものが多い。

 

中学の時に仲の良かったA君はやたらとアニメに詳しかった。彼は殆ど友だちらしい友だちがいなくて孤立しがちだったが、ひょんなことから話をするようになり、僕と友だちになった。彼から『ガンダム』が面白いと聞き、観始めるようになった。僕は今でもガンダム・フリークである。

B君は僕に小説を読む面白さを教えてくれた。僕はそれまで親が買ってくれた少年少女文学全集に収録されている古典的な物語を読んでいたが、現代日本の小説は殆ど読んだことがなかった。彼は僕に筒井康隆星新一が面白いぞ、と教えてくれ、一時期僕は両者の小説に嵌ったのだった。この経験が僕を活字中毒者へと導いたのである。

 

奇人変人とみなされる人たちは一筋縄ではいかないパーソナリティを有していることが多い。なかなかに付き合い続けるのも大変ではある。しかしながら、付き合っていると面白いことに出くわす。

彼らの常人離れしたものの見方や価値観にふれることは自分自身の殻を破ることにつながることがある。「みんなと同じようにしろ」という同調圧力に抗ってもいいのだとの気づきを得ることができた。

 

僕は今も周囲から変人と見られている友人が何人もいる。当然のことながら、彼ら彼女らは真っ当な勤め人ではない。中には未だに何をして稼いでいるのかよく分からない人もいる。常道から外れた生き方をしている人ばかりなのである。だからこそ、付き合っていて面白くて楽しい。

 

僕の「ちょっと変な」友人たちとは付かず離れずの関係を保っている。

そんなにしょっちゅう会って話す必要はないのだ。時々ふと思い立って会う。

たとえ数年間のブランクがあっても全く問題はない。以前と同じようにフレンドリーであり、訳の分からないこと(と他人が感じるようなこと)をワーワー言い合って楽しんでいる。あるいは自分たちが世間の中でマイノリティであることを自覚し、自然と連帯感が育まれているのかもしれない。

 

僕はこれからも「ちょっと変わった」人たちとの新たな出会いを楽しみにしている。

「ちょっと変わった」友人たちとの関係をずっと続けていけたらいいなと切望している。彼ら彼女らは間違いなく僕の宝物である。

「ちょっと変わった」友人たちさえいてくれれば、僕は生きていける。

今は「ビンボー自慢」すると白眼視されたり変人扱いされるという件〈再掲〉

僕はビンボー生活を続けている。

時々「もうちょっとだけカネがあったらなぁ」と思うことはあるが、ビンボーな自分を卑下したりはしない。

ビンボー自慢をしながら、スイスイとこの世を渡っている人を見聞きすると羨ましくなる。

 

初出 2017/4/25

 

僕は当然のことながら(なぜ当然なのか分からないが)ビンボー人である。僕はビンボーであることを悲観視していないし自分を卑下したりもしていない。

カネを稼げる人が偉い人でありカネを多く持っている人が立派な人だというカネ万能主義イデオロギーからすると僕は全くのダメ人間である。

まあダメ人間であることは否定できないところなのだけれども、何だかスッキリしないような心持ではある。

 

僕は今友人が経営する塾で講師をしている。

その塾で僕が担当する生徒(中学生)たちと話をしていて、僕がかつて公務員をしていて仕事が面白くなくて辞めたということに対してネガティブな反応があった。安定した仕事を辞めることが考えられないという。また、僕が楽しんで自由を満喫しているお気楽ビンボーライフなんかも考えられないという。彼らはちゃんとした会社に就職して結婚していい生活を送りたいのだそうだ。それらは親の価値観が反映しているのかもしれない。あるいは彼らなりに考えて周囲の人たちを見てみてそのような価値観を正しいと捉えているのかもしれない。

僕は生徒たちが「真っ当な」考え方をしていることに感心した。その安定志向的なものを批判する気にはならない。ただ、人それぞれに様々な生き方・価値観があること、絶対的に正しい生き方なんてないことを伝えることができれば、との思いを抱いた。

 

このエントリーのタイトルに「ビンボー自慢」と書いたけれども、僕は殊更にビンボー自慢はしたくはない。カネはあるに越したことはない。

「衣食足りて礼節を知る」という成句はある面の真実をついていると思う。

ただ、カネ万能主義的なイデオロギーには拒否感を抱いている。カネが万能という価値観の一元化にどうしても馴染めないのである。

この「価値観の一元化」には多大な危険が伴う。例えばカネが万能という価値観ではなく、国家や会社に命を捧げることが正しいという価値観に一元化されたら、と考えると背筋が凍る思いがする。

これはただのヨタ話ではない。

現実にありうることなのである。

 

話題を塾の生徒たちとのやりとりに戻そう。

彼らのうちの一人が「先生の人生、もう終わってるやん」と問題発言をかましたのである。僕は怒りもせず、そんなことはない、僕の人生はこれからだ、とやんわりと否定した。

若い彼らからすると世間で「真っ当」とされるレールから外れた生き方をするともう終わりだと感じられるのだ。また、僕のような生き方を選択している大人に出会っていないのである。当たり前と言えば当たり前の話である。

救いがあるのは、彼らが僕を侮ったりしていないことが感じられたことである(ちょっとナメられてはいるけれども)。僕のようなちょっと変わった生き方をしていて、世間の真っ当な大人たちと異なった価値観を有する者に興味を抱いてあれこれとツッコミを入れることに楽しさを感じているのである。

僕が彼らに与えることができるもの、それはこんな僕みたいな奴でも何とか生き延びることができるということを身をもって示すことである。人生色々あって、それでも何とかなるという事実を知ってくれれば、それで十分である。

 

僕は自分のビンボーお気楽生活を満喫していることを控えめに表明しているが、もう少しだけ声高々に「ビンボー自慢」ができるようになればいいのになあ、と思っている。

ビンボー人が全く自分を卑下せずに「ビンボー自慢」が抵抗なくできるような世の中の方が「健全」で「真っ当」なような気がする。

  

自分はダメ人間だと受け入れているけど、時々不安になるという件

僕は自分のことをダメ人間だとして受け入れている。

雇われて働くことができない、意識が低い、他人と比べることが嫌いでマイペース、といった感じで競争社会の脱落者である。

僕はよくこのブログでダメ人間であることを受け入れて生きることが楽になった、と書いている。これは半分が本当で半分は強がりである。

 

確かに自分のことをダメ人間認定すると楽なことは確かだ。

急き立てるように自己実現だの成長だのと言った空念仏を唱えることもなくなる。

でも、たまに本当にこのままでよいのか、と自分に問いかけることがある。

自分という人間が「役立たず」の存在である、ということを認めるのはなかなかに難しいくてしんどいことだ。大学まで出してくれて社会に出てからも色々と援助してくれた両親に済まないなという思いもある。

人は自分が属する共同体の中で何らかの役割を果たし、そこで自分の「居場所」を確保するものだと僕は思っている。果たして僕は自分に役割が与えられ、その役割を果たしているのか、と自問自答するとはっきりとイエスだと答えられる自信がない。

 

僕は自由だとか面白さだとかワクワク感だとかを殊更に追い求めているだけなのかもしれない。僕が嫌う利己主義的生き方を自分こそがしてしまっているのでは、と思ってしまう。

自分のためだけに生きていると、そこには自ずと限界がある。

自分以外の「誰か」のために生きてこそ、生きる力が湧いてくるのではないか、限界を超える力を得ることができるのではないか、そんなことをついつい考えてしまう。

 

僕はこの世間の片隅に自分の居場所を見つけて、その隙間で生き延びることさえできればいいと思ってきた。今もこの思いは変わらない(はずである)。

でも、時々、自分がなすべきことがあるはずだとの思いにも駆られてしまう。

社会の成員としてこの社会をより良きものにするためにこんな僕でも何か役立つことがあるのではないか、とついつい思ってしまうのだ。

僕は自分のことを未だに過大評価しているのかもしれない。

自分は単なるダメ人間ではないと、心のどこかで思い込んでいるのかもしれない。いや、そう思い込みたいだけなのだ。

等身大の自画像を描けない三流画家のようなものである。

 

正直な話、僕はダメ人間のままで一生を終えてしまうことに不安感を抱いている。

と同時にダメ人間であることに安住し居心地の良さを感じている。

これらのアンビバレンツな思いを手なずけながら日々を過ごしている。

これからもこの不安感と現状肯定的な思いを同時に抱きながら生き続けていくことになるだろう。

僕はそれでもいいと観念している。

もし、不安感がなくなれば、僕は本当に堕落してしまうと確信しているからだ。

僕は矜持と誇りを持ったダメ人間でいたい。

そんなことが本当にできるのかどうかはよく分からないけれども。

勉強が嫌いなのは当然のことであるという件

世の多くの親御さんはわが子が勉強しなくて困り果てている。

別に教育ママ・パパではなくても自分の子にはきちんと勉強をしてもらっていい学校に入ってほしいと願うものである。昔の立身出世なんか望んでいなくて、そこそこで真っ当な生き方をして欲しいと願う親がほとんどである。

 

ところがどっこい、子どもたちは親の願いに反して素直に勉強なんてしない。ごく一部のできの良い(親から見てのものであるが)子どもは自らすすんで勉強するが、ほとんどの子どもは親や教師や塾の講師があれこれと手を尽くしてどうにかこうにかようやっと勉強に手を付ける。

 

僕もずっと思っていたが、「勉強」なんてクソつまらないものだ。

もともと勉強という語は明治時代に作られたものらしい。強制されるものというニュアンスが込められたものだ。未知の、知らない、新しい知識を得る行為は「学ぶ」ものであり「習う」ものであった。

人は誰でも知的好奇心を持っていると思う。自分が知らないことを学ぶことはワクワクする楽しい行為であるはずだ。しかし、勉強することは必ずしもワクワク感を伴わない。勉強=学ぶことではないのだ。

 

僕は以前にこのブログで学ぶことの楽しさ、その大切さについて書いたことがある。勉強以前に学ぶことや習うことの面白さを知り、そのことによって学び続ける態度を身に付けることが大切なのだという僕の考えを書いた。この考えは今も変わらない。学ぶことの面白さやワクワク感を知ることなしで勉強好きになるわけがない。さらに言えば、学ぶことが好きでありさえすれば、常に学ぶ態度を持ってさえいれば、お勉強なんてどうでもよい。

この社会で生きていくうえで実際に役立つ(あまり好きな言葉ではないが)のは学びによって得た何かであって、勉強によって得た知識ではないことが多い。

学ぶことで得たものが実際に役に立たなくてもその価値を毀損するものではないが、勉強によって得たものが何の役にも立たないことが判明すればその価値を失ってしまう。このことが学ぶことと勉強が似て非なるものであることの証左である。

 

子どもたちの学力低下が叫ばれて久しい(僕はそうは思っていないが)。自宅での勉強時間も減少傾向にあるという。

本当にそうだとしたら小手先の対策ではどうにもならないことである。

元々つまらない勉強をいくら強制しても子供たちが勉強に向かうとは思えない。勉強すればいい高校・大学に入れていい会社に入れて物質的に豊かな生活ができるなんてインセンティブはもはや無効化されている。勉強すればこんないいことがある、といった類のエサで子どもの心が動くはずはない。子どもたちはそんなに愚かではない。

 

一見勉強が嫌いな子どもや苦手な子どもが自然の中で遊んだりすることやアナログな実験なんかに目を輝かせることがよくある。学校で強いられる勉強はこの子どもたちの「目の輝き」を蔑ろにしている。確かに基礎学力は大切なものだけれども、勉強のベースとなるべき学ぶことの面白さを知らしめなければ無意味である。勉強のみを強制し続けていけばいつか「ごまかし」がきかなくなるときが必ず訪れる。学ぶ意欲を喪失してしまえばその傷は深く大きくなる。

勉強が嫌いであることはもう当たり前だとの初期設定で学ぶ意欲を持ち続けていられるような手を打つことしかない、と僕は思う。

学ぶ意欲を持ち続けるための特効薬的な手段はないかもしれない。

けれども、子どもたちの「目の輝き」を失わせないようにする手立ては幾らでもあるはずである。

 

 

グローバル人材なんてバカでかい会社にとって使い勝手の良い労働者に過ぎないという件〈再掲〉

一時期やたらと「グローバル人材たれ」という言説が撒き散らされていた。

グローバリズムが進む資本主義体制下では労働者の待遇の下方均質化が進む。グローバル人材とは「安くこき使える」労働者に過ぎない。

 

初出 2017/4/18

 

僕の出身大学はやたらと「グローバル」を売りにしている。僕が在学中もその傾向があったのだが、昨今は度が過ぎているように思えてならない。私立大学は何らかの売りがなければ生き残れないと言われている。グローバルを売りにするのは最適な戦略なのか、僕には分からないが、なんだかモヤモヤとするものがある。

 

官民財界そろって「グローバル人材」を養成・育成すべきだとの言説が幅を利かせている。一時期ほどではなくなったにせよ、猫も杓子もグローバル人材がどうのこうのと言い立てている。

大学生の就活においても、特に大企業に採用されたい学生は自分がいかにグローバル人材になり得るのかを面接でプレゼンする、という茶番劇が繰り広げられている。

 

国境をまたいで事業を展開している多国籍な会社では自社の利潤の極大化のために「グローバル人材」を欲している。辞令ひとつで世界のどこへでも赴き、「国際人」になれという甘言を弄して根無し草にする。ゆくゆくは「世界標準」の処遇を強いてくるのは間違いない。今でこそ先進国出身のグローバル人材の待遇をそこそこ良いものにしているが、人材の供給量が増えれば途上国レベルに引きずられた待遇になる可能性が高い。世界をまたにかけたグローバル人材がもたらす売上・利益は大きいものになるが、その処遇は下方へ押し下げる圧力がかかる。つまりグローバル企業は莫大な額の搾取をするようになる。そしてさらに会社自体は巨大化していく。

 

グローバル人材とは、極端な言い方をすれば世界規模で織りなされる「搾取」をされ放題の労働者に過ぎないのである。グローバル企業にとって使い勝手の良い労働者のことをグローバル人材というのである。

グローバル人材=優秀な選別された人材という幻想がまかり通っているのを良いことに、使い勝手の良い、使い捨ての労働者をグローバル企業は囲い込んでいるのである。

グローバル人材と目された「労働者」たちは自分たちをエリートだと思い違いをしてはならない。ただ、世界規模でドサ周りをする労働者に過ぎないのだ。

 

多国籍企業に採用され働く人たちは程度の差こそあれ自分のことを選ばれた者だとの錯覚を抱く。ローカル規模で働く普通の労働者のことを見下す輩もいる。最悪の場合は自分が「労働者」であるという意識すら持たない者もいる。

その歪んだエリート意識を持つことはグローバル企業にとっては願ったり叶ったりのことである。グローバル企業はイナゴの大群のようなものである。コストの低い国々を駆け回り、利益の極大化を図る。同胞の生活向上のための事業という概念はなく、社会的な役割を果たすという意識もない。ただ、儲かればよい、自分の会社が大きくなれば良い。その尖兵、いや「駒」としてグローバル人材を使っているだけなのである。

 

僕はグローバル人材とされる人たちを貶める意図はない。自分がグローバル人材になれなかったルサンチマンを晴らそうとしているわけでもない。

やたらと世の中で「グローバル人材」を礼賛する風潮に違和感を持っているだけなのだ。

グローバル人材を何か特別なものでより優れた働き方だとの幻想を撒き散らし、グローバル企業という怪物をより肥大化させるだけになってしまわないか、と危惧しているのだ。

グローバリズムはグローバリゼーションという流れの中で出てきたひとつのイデオロギーに過ぎず、絶対的なあるいは普遍的なものではない。グローバリズムを絶対のイデオロギーとする流れは危ういものがあり、「国民国家」の理念を融解させてしまう危険性を有している。

 

繰り返すが、グローバル人材は「労働者」に過ぎず、ゆくゆくは均質化され、しかも搾取の度合いが極大化された「労働者」に過ぎないのである。

グローバル人材というものにまとわりつく幻想を取り払い、その本質的なものから目を背けてはならない。 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します