希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

全ての人が豊かになり満ち足りてしまうと困る者がいるという件

全ての人に必要なモノやサービスが行き渡り、貧困や戦争や飢饉がなくなった世界、それが僕が理想とする世界である。

おそらく多くの人たちも同じように考えるだろう。

人類はあるべき「理想の世界、理想の社会」を夢見て、その理想の社会を作り上げるための営為を続けていくものだ、と。

 

これから僕が書くことは僕の妄想に近いものである。

確かなエビデンスはない。しかし、全く的外れなものだとも言えないはずである。

 

貧困も戦争もない豊かな社会になることを忌避している者たちがこの世には存在している。

まず真っ先に思い浮かぶのが、軍需産業関連者である。

巨大な軍需企業ともなれば、国家のエスタブリッシュメントに連なっている。

武器を生産し紛争当事国に売りつけ、紛争が継続し続ける限り巨万な富を得ることができる。この世から戦争がなくなれば商売あがったりとなる。

 

理想の社会を忌避するのは軍需産業には限らない。軍需産業が平和を忌避し戦争を好むのは分かりやすい話である。

多くの会社、特にグローバル企業も実は理想の社会の到来を歓迎していない。

話は簡単だ。

世界中に必要なモノやサービスが行き渡り、人々の生活が豊かになってしまえば、そのサービスやモノが売れなくなってしまうからだ。生活必需品やそれに類する商品は売れ続けるが、耐久消費財なんかは一旦行き渡れば買い替え需要がメインとなり爆発的に売れなくなる。

会社が提供する商品が売れなくなれば、それらの会社の存続が危うくなる。

 

資本主義とは常に市場を求め、後進地からの収奪によって利益を極大化する運動を延々と繰り返すことによって成り立つ経済システムである。

地球上でモノが不足しているエリアを見つけてその地でモノを売りつけ、コストの低い生産地を求め、その地の資源を収奪することによって利益の極大化を図っているのである。地球上で消費地と生産地を求め続けているのである。

もしも、どの地でも商品やサービスが充足されている状況となれば(モノ不足の消費地と低コストの生産地を失えば)、資本主義体制は自壊するかもしれない。

 

今は地球上で「未開の地」がなくなりつつあり、企業活動にも限界が見えてきている状況にある。

一方で世界各地で紛争はあり続け、政情不安な国々も多く存在している。この事実は世界平和にとっては良きものではないが、グローバル企業にとっては都合の良いものである。

戦争はすべてのものを破壊する。戦争の後に残るのはインフラが破壊された社会、慢性的なモノ・サービス不足に陥った社会である。経済成長率が高い国とは内戦・国家間紛争等によって国土が破壊され、そこからの復興途上にある国なのである。

あえて極論を言えば、企業にとって紛争や内戦なんかは大きなビジネスチャンスとなるのである。戦争による破壊、貧困や格差があればあるほど企業は儲かるのである。

だからこそ、企業特にグローバル企業は国家と結託するのだ。

戦前、財閥と軍部が結託し、植民地獲得を熱望したのもこの理路による。

 

人類の夢ともいえる理想の社会ーすべての人が物心共に豊かとなり満ち足りた社会ーの実現を阻むのは資本主義の権化ともいうべき企業の私利私欲に走った活動なのである。

特に帰属すべき国籍を持たないグローバル企業は、国家の安定・平和や世界平和など眼中にはなく、ただ自社の拡大と富の蓄積のみ(あるいは株主の利益の極大化)にしか興味がない。

 

僕も当然に多くの会社の生産活動の恩恵を多々享受している。

この世から会社なんか亡くなれ、なんて露ほどにも思っていないし、資本主義体制の転覆なんかも望んではいない。

ただ、経済成長至上主義的な価値観、剥き出しの資本主義の論理に対して無批判に盲従することは、いつか身を滅ぼすことになりやしないかとの杞憂があるだけだ。

 

僕の妄想はただの妄想なのか、一面の真理を衝いているものなのか、僕には分からない。この世界のシステムは複雑多岐であり、僕の出来の良くない頭では理解できないことが山ほどある。直感に基づいた妄想をすることしかできない。

僕の直感はよく外れるけれども時々当たることがある。

 

 

「カネの亡者」は悪人ではないという件

カネ儲けにあくせくしている人、カネに細かい人、カネに汚いのことを疎ましいと思っている人たちは多い。カネのことを大っぴらに話すことは何となく憚られる。

カネは生活を営むために必要不可欠なものなのに鬼っ子的な扱いを受けることがある。

僕たちは未だにカネを賤しいものととらえるメンタリティを持っている。これは重農主義的なエートスの残滓である。

と、同時に人の評価基準をカネをどれだけ稼げるか、どれだけそれをストックしているか、というところに置いている。極言すれば資本主義体制を採用している社会ではカネを多く持った者が勝ちなのである。

 

資本主義体制下の社会ではカネ儲けに血眼になっている人たちは善なる存在である。

カネの亡者と目されている人たちは決して「悪人」ではないのである。そしてカネを持ち旺盛な消費活動をすれば、それは経済成長に資する立派な行為となる。カネを多く稼ぎ、沢山のモノやサービスを購入し、経済活動を活性化させる行為は資本主義体制を維持発展させる「立派な」行為なのである。

逆に僕のように経済成長至上主義的なものに懐疑的となり、必要最低限にしかカネを稼がず消費行動が低調な人たちは「悪」なのである。自給自足、半農半Xミニマリストといった人たちは資本主義の発展・経済成長を阻害する極悪人なのである。あくまで資本主義が絶対善というイデオロギーが正しいという前提での話だけれども。

 

なぜ、ニートやひきこもりの人たちが周囲の多くの人たちから忌避され時には排除されたりするのか。それはニートや引きこもりの人たちの人格の瑕疵を責めているのではなく(たまに責められたりもするけれど)、資本主義が絶対的に正しいという価値観と労働至上主義イデオロギーの双方に照らしてアウトだからである。資本主義的価値観と労働至上主義イデオロギーには強い相関関係がある。

ニートやひきこもりの人たちは消費はするが大抵はその活動は低調である。しかも働いていない、あるいは働きの度合いが小さい。つまり経済成長にほとんど寄与していないし、経済成長を阻害しているとみなされ、この社会では「役に立たない」人たちとの烙印を押されているのである。だから、ニートになったりひきこもりになったりする人たちが増えると、それらの人たちは罪悪視されるし社会問題として取り扱われるようになるのである。

 

他人を蹴落とし押しのけてカネ儲けをしている人たちには道義的・道徳的な非難が向けられることがある。しかし、そんなことは無意味なのだ。ただの羨望や嫉妬に過ぎないことも多い。

繰り返しになるが、カネの亡者になることは資本主義体制下の社会では決して「悪」なのではなく正しいこと、「善」なのである。

 

僕たちは程度の差こそあれ、カネを稼ぐ営為に心血を注ぎこまなければならない。そうしないと生活を成り立たせることができないからだ。今のこの社会の経済体制に順応するためには仕方のないことなのだ。

カネに縛られないためには、カネの持つ魔力に惑わされないためには自分なりの代替案を作り出さなければならない。その代替案はひとつではない。人それぞれの価値観や生き方に関わる問題である。

 

カネから逃れられるための確かな解決策があるのか、僕には分からない。

カネの亡者たちを横目に見ながら、彼らを殊更に敵視するわけでもなく、嫉妬や羨望を抱くわけでもなく、僕なりにこの社会を漂流するしかないと思っている。

今の社会システムの中では僕という存在は「悪」の存在だと心の片隅に置きつつ、僕だけの中で善悪の転換をしつつ、漂泊し続けていく。

 

 

 

 

自立とは誰かに「助けて」と言えることであるという件〈再掲〉

今は自己決定・自己責任において「個人」が自立して生きるべきだとされている。

自立した個人がデフォルトという社会が生きやすいものなのかは分からない。

助け合いや相互扶助が軽んじられる社会は人に冷たいものとなるのは確かである。

 

初出 2017/4/13

 

僕たちは常に他者から世間から「自立」することを強いられる。

一般的には生活費を自分で稼ぎ、誰からも援助を受けずに自力のみで生活を成り立たせている状況にあることを自立とみなされる。

世間では自立できていないと目される人たちを「ごくつぶし」だの「甘えている」だのと言い立てて責めたてる。

この国の支配層は人々に対して自立せよと急き立てる。一見自立していないように見える人たちを非国民扱いする。

 

人は自分ひとりの力のみで生きていけるわけではない。

常に誰かと関わり合い支え合いながらどうにかやっていけるのである。もし、己ひとりの力で生きていると思っている人がいたとすれば、その人は愚かだとしか言いようがない。

 

昨今の風潮として、「自立」の意味をかなり狭く捉えようとする傾向がある。ある人が自分の力だけでは生活を成り立たせることができないとき、親族からの援助を受けていたり公的な給付を受けていたりすると、即自立できていないと断罪されることになる。

一方、会社の奴隷となっているサラリーマンは自立していることになっている。サラリーマン根性に浸かり、会社組織に隷属するしかない人たちは自律的に生きていないにもかかわらず立派に「自立」しているとみなされる。

「自立」を経済的なものだけに狭くとらえる風潮が幅を利かせているのである。

 

自立を経済的なものだけに限定するとおかしなことになってくる。

障がい者高齢者、生活困窮者等は半人前の人となってしまう。また国家や隣人に寄生する厄介者とみなすようにさえなる。

元々人は共同体に属し、そこに自分の「居場所」を確保し、共同体の一員として自分の役割を果たし、何か困ることがあったときは共同体から救いの手を差し伸べられ、どうにかこうにか一人前の人間として生きてこられたのである。

しかし、新自由主義的な価値観の下、ひとりひとりは共同体から引きはがされて個人として自立して生きることを強いられるようになった。

俗な言い方をすれば、「お互いさま」として支え合うような生き方は否定され、自分の力のみでどうにかするのが正しい生き方であると刷り込まれ、多くの人たちは途方に暮れているのである。

 

今、ひとりひとりが個として自立することが絶対的に正しいという価値観を見直す時に来ているような気がしてならない。

本当の自立とは、自律的に生きつつも、困ったとき行き詰ったときに誰かに「助けて欲しい」と素直に言えることではないか、と僕は思う。そしてもし身近の誰かが困っているときにはこちらが手助けをする。「お互いさま」の精神でさらっと助け合うのである。

誰かの手を借りることを恥じたり、そのことが自立の妨げとなると感じるのはただ単に洗脳されているだけなのである。

狭い意味(誤った意味)での自立を強いることによって得をする者たちの意のままになってはならない。

 

 

  

物事を結果論で語ることの愚、という件

僕は何事も結果論で語る人たちを信用していないし嫌いである。

ある結果に至るプロセスを分析し検討することは必要である。そのことによって次につながることもある。

しかしながら、そのプロセスの分析・検討と結果論とは似て非なるものである。

 

結果論を嬉々として語る人たちは、そういった行為が自分が知的であることの証左だと思い込んでいる。結果を「客観的に」「論理的に」語れる俺ってすごいだろうと周囲に自分の優秀さを誇示したいだけなのである。

 

僕はこれまでにこういった結果論を滔々と語る輩に遭遇してきた。

それがプロ野球の話だったり政治談議の類だったら害はない。

僕が社労士事務所を自営していて訳があって廃業したとき、あーだこうだ言う人が何人かいた。営業戦略が稚拙だったとか顧客へのフォローがなっていなかっただとか色々な声が耳に届いた。そういったことを言ってきたのは、はっきり言えば大したことのない人たちだった。彼らとは今は全く付き合いがない。

僕が事務所を畳んで打ちひしがれているときに、「気にすることはない、たまたまうまくいかなかっただけ、運がなかっただけ」と言ってくれたのはいわゆる成功している人だった。

 

物事をすべて結果論で語ることは楽なことであり無責任である。

ある結果がでてしまってからは後付けで何でも言える。一見客観的で論理的な言葉を吐くことができる。

結果が出る手前で予測を立ててこうなるだろう、とはなかなか言えないものであることは僕も承知している。しかしそのことをせずに逃げてしまっては真に知的で真摯だとはいえないように思う。

 

世に出ている評論家やコメンテーターといった人たちの多くは結果論のみを語っているように思えてならない。ひどい人になるとこういう結果が出ることは自分は分かっていた、といった物言いをする。この手の輩は信用できない。そういう人に限って事前に警鐘を鳴らすような知見を示してはいない。

 

僕は自分が嫌な目に何度も遭っているので、結果論でものを言うことを慎むように努めている。「そやから、言うたやろ」的な物言いはしないようにしている。

自分だけが高みに立って物事を語ることは愚かな所業であると思っている。

結果論で物事を語っても新たに何かが生まれるわけでもないし、良きように流れが変わるとも思えない。

 

たとえ傍から見て愚図で知的ではないように思われても、嬉々として結果論を語るような人間にはなりたくない。

それらしきことを結果論で語る人が知的であるようにみなされる社会はどこか歪んでいて間違っている。

 

僕が学歴エリートでなくなったことのメリット、という件

僕は大卒だけど学歴エリートではない。

東大や京大といった伝統があり超難関大学の出身ではない。

僕はこれでも高校時代は京大や阪大を目指し、学歴エリートの末席に連なろうとしていた。生き方の選択肢が少なく、偏った価値観を有していたため、学歴エリートにならないと幸せになれないと思い込んでいた。

また、自分は学歴エリートとなるにふさわしい人間だと思い違いをしていたのだ。今となっては恥ずかしい限りである。

 

僕は高校2年生の後半頃から原因不明の体調不良になり(パニック障害うつ病の症状に近い)受験勉強どころではなかった。この病気による勉強不足と自分の資質の限界から国立大学に落ちて意に反した私立大学に進学することになった。ただ、進学した大学の雰囲気が僕には合っていたようで、僕は充実したキャンパスライフを送ることができた。まさに「瓢箪から駒」が出たのである。僕は今でも出身大学に対する愛校心を持っている。

 

しかしながら、僕の学歴エリートに対するルサンチマンは暫くの間残り続けた。

上昇志向を有し、社会的地位を得ようと必死になって働いた。手始めに地方公務員の上級職として採用されて勤め、それでは飽き足らず独立して一旗揚げようとした。

結局は成功せず、心身共に疲弊し、40代を過ぎたころには放り出して今のようなダメ人間となった。

 

僕は社労士事務所を廃業して以降、様々な仕事に就いた。

倉庫や工場での単純作業、福祉施設ソーシャルワーカーをしたり、非常勤のケアワーカーもした。それらの仕事の殆どは学歴不問であった。

いつしか僕の学歴エリートに対するルサンチマンは消失していた。

逆に学歴エリートではないゆえに学歴不問の決して社会的威信の高くない仕事に抵抗なく就くことができたといえる。

これらの仕事に就くことにより介護業界の闇の部分に触れることができたし、単純作業に従事せざるを得ない人たちの実情に触れることもできた。

格差社会、あるいは階級の固定化等が確実に進行していることを肌で感じ取ることができたのである。

 

学歴エリートが何らかのきっかけでレールを外れた時にはとても辛いものなんだろうなと思う。

「そんないい大学を出て、そんな仕事をするのか」だとか、「いい大学を出たのだから、真っ当にならなければならない」といったプレッシャーを受け続ける。「日本一有名なニート」のphaさんは京大出身だがやはりこのようなプレッシャーを受けつつ、自分の生き方を貫いている。phaさんのようになるにはなかなか難しい。世間の同調圧力や常識に抗うことは骨の折れることである。

 

僕のような中途半端な学歴所有者でも、世間のプレッシャーはあった。

しかし、高学歴者の比ではない。

要はくだらないプライドをいかに捨て去るかがどうかだけの話である。学歴エリートとされる人たちはこの「くだらないプライド」をくだらないと思えないことの方が多いように思う。

もちろん、プライドは大切なものである。人としての矜持とか人として譲れないものがあるといった類の誇りは持ち続けなければならない。

けれども、良い大学を出たからこんな行動を取るべきとかこんな行動はとるべきではない、といった自分の行動範囲を狭めるプライドはやはりくだらないものである。

 

僕は学歴エリートになれなかったことを昔は臍を噛む思いであったけれども、今はそれで良かったと思っている。

一旦レールから外れても何とか生き延びることができているからである。

僕はさらにサバイバル能力を身に付けて、もっともっと生き延びようと地を這って生きていくつもりである。

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