希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

人と自分とを比べなくなってから、何となく生きることが面白くなってきたという件

僕の母は時々「あのまま公務員を続けていたら・・」といったことを未だに言うことがある。それと学生時代の友人たちが今どんなに社会的地位の高い仕事に就いているか、といった類のことも言う。

母に悪気はないことは分かっている。自分の息子の不甲斐なさを嘆きたい気持ちも分かる。でも、「立派な息子」を演じることに疲れた僕からすれば、責苦にあっているような心持がして落ち着かない。

 

僕はいつの頃からか人よりも何かの分野で抜きんでなければならない、ということを自明のものとしてきた。飛びぬけることはなくても人よりは頭一つ分だけは抜きんでなければならないと思ってきた。

僕の両親はとりたてて教育熱心だったわけではない。こんな仕事に就けと強要したわけでもない。ただ何となく競争に勝ち続けなければならない、と僕が勝手に思い込んだだけなのだ。

 

僕は僕なりに競争に勝とうと努力をしてきた。

いつも他者と自分とを比較していた。

しかし、それは終わりのないゲームみたいなものであった。ある課題をクリアしても、また次の課題が表れる。時には優越感に浸り、また時には劣等感に苛まれる。

僕という人間がどうあるべきかという確固とした価値観なり目標なりがないままに、他者との比較ばかりをしていつしか袋小路に入っていったのである。このような状態がずっと続いて心のバランスを崩してしまい、生きる意味を見失いかけるという泥沼に引き込まれたのである。

 

ある時、僕は開き直ることにした。人からどのように見られてもいい、自分が楽しい・面白いと感じられる生き方をしようと。人と自分を比べても仕方がない、という思いに至ったのだ。社会的地位も富もいらない。雇われて働くことが苦痛ならば、そうではない働き方をしよう。人から「使えない」「役立たず」「怠け者」などと後ろ指差されようが、気にせずにマイペースで生きていこうと決心したのだ。

 

何度もこのブログに書いているように僕は今「適当」に「ゆるく」生きている。必要以上に働かないし自分が好きなこと面白いと思ったことを優先させている。そのためにはビンボー生活を余儀なくされるが、それを受け入れて、ビンボーを楽しむことにしている。

結局は自分の人生は自分だけのものなのだ。人からどうこう指図されるいわれはない。死の瞬間に「ああ、俺の人生はまあまあ良かった」と思えればそれでいい。人との競争に明け暮れる人生なんて僕からすれば不毛なものなのである。

 

僕の今の生きざまが正しいとは思わない。人さまに誇れるものでもないことは重々承知している。

ここだけの話だけれども、僕は未だに何事かを為そうという野心を捨てきれていない。しかし、野心はあくまで野心であって、何事かを為すこともなく人生の終焉を迎えても、「まあ、しゃーないな」という諦念もある。

またまたここだけの話だけれども、強くお勧めはしないけれども、僕のような生き方も結構面白いよ、と声を潜めて言いたい。

常に不安と隣り合わせだけれども、競争から降りてみて、人と自分とを比べることを殆ど辞めてみたら、生きることの面白さを感じることができるようになった、とまた声を潜めて言いたい。

ニートやひきこもりをこの社会からなくしてしまえ、という考え方は間違っているという件

ニートや引きこもりの人たちの存在が「問題化」してから久しい。 

数年前から政府もその重い腰をあげて対策に取り組んでいる。ニートや引きこもりの人たちに対して自立を促す民間施設も数多く設立されている。

しかし、有効な改善策が打たれたかというと疑問が残る。

 

僕はニートや引きこもりの件に関して元々の前提が誤っているのではないかと思っている。

ニートになること、ひきこもることは「悪いこと」であってその存在自体が社会問題であるという前提そのものに違和感を覚えるのである。

ニートやひきこもっている人たちを労働市場に押し返し、「自立」することが素晴らしいという考え方にこそ無理があるのではないかと思っている。「真っ当に働いてこそ一人前」とか「働かざる者、食うべからず」といった労働至上主義イデオロギーに毒された価値観に依った「自立支援」を彼らに強いることが本当に正しいのか疑問を感じるのである。

 

ニートや引きこもりの人たちを「あってはならないもの」扱いをすることが間違っている。この社会で一定数はニートになったりひきこもったりする人が出現しても仕方がない、ととらえる考え方を採用した方がすっきりするように思う。

ニートやひきこもりに至った人たちに「まともな生き方・働き方」を強いて、この社会から抹殺しようとすることはよくよく考えてみればとても怖いことだ。社会で多数の人たちに共有された価値観から外れた人たちを排除・抹殺しようとする空気ほど恐ろしいものはない。

ニートや引きこもりの人たちは単なる「規格外」の人たちで「異形」の人たちに過ぎない。それらの人たちを社会に包摂できないことそれ自体が歪であっておかしいのである。

 

ニートやひきこもりの人たちも当然のことながら日々の生活を営まなければならない。そのためにはカネを調達する必要がある。カネの調達方法として「労働」(雇われて働くこと、できれば「正社員」で)のみに選択を限定するとなかなかに難しいことになる。

ニートやひきこもりの人たちの殆どは勤労意欲そのものを全く喪失しているわけではない。何かのきっかけがあれば働くことができる。その働き方が問題となってくる。世間で真っ当とされる働き方になじめないのだ。無理に労働市場に放り込んでも、昨今の劣悪な労働環境下では「ワーキング・プア」に陥るケースが多発するだろう。

 

ニートやひきこもりの人たちが「自立」するためには次のいずれかの方法によるしかない。ひとつは従来の雇われて働くという形以外での働く場を作り出すこと。もうひとつはワーキング・プアとなっても一定以上の生活レベルを維持するための生活様式を採ることである。

いずれにせよひとりの力ではどうなるものではない。

良心的な支援団体の力を借りつつ、当事者は孤立せずに仲間同士で肩を寄せ合って世間の荒波に向き合っていくほかない。僕にはこの程度のことしか言えないし思い付かない。

 

ニートや引きこもりの人たちはこの社会のメイン・システムから零れ落ちた人たちであり、それらの人たちの受け皿となるべきサブ・システムが存在しないか存在していても貧弱なために事態が深刻化するのである。

まともな社会ではこのサブ・システムがある程度機能している。

このサブ・システムの存在形態は多様であることが望ましいニートや引きこもりの人たちにとっての「居場所」であればよい。

 

ニートや引きこもりの人たちをこの社会から失くしてしまうことは絶対に無理であり、またそのような考え方は危険である。

彼ら彼女らは21世紀的価値観を体現している存在であるといえる。

競争しない、ゆるく生きる、成長や自己実現の欺瞞を見抜いている人たちなのである。労働至上主義・経済成長至上主義イデオロギーに毒された人たちとは対極にある。

そのようなニートやひきこもりの人たちの居場所があるような社会、包摂される社会がまともで健全な社会である。

最近テレビがつまらなくなってきたと感じるのはなぜだろう、という件

テレビが面白くなくなってきたと感じている。あくまで個人的な感覚であり、本当にテレビ番組自体が劣化しているのか僕の趣味嗜好が変わったためのものなのかそれは分からない。

まあ、そんなことを言っていては話が進まないので、ここはテレビがつまらなくなったという前提で話を進めていく。

 

テレビがつまらなくなった理由として「規制」が強いためだというもっともらしい言説がある。確かに昨今はネット民のチェックは厳しいし、元々存在したPTA的良識に基づいたクレームも相変わらずあるだろう。それに噓か誠か分からないが政府筋からの介入もあるという。

果たして本当に「規制」がテレビをつまらなくしているのだろうか。

 

テレビ番組を構成する主なものは「バラエティ」「報道」「ドラマ」である。もっと単純化すると「芸能」と「ジャーナリズム」である。

元々この両者がどんな性質のものであったかを考えてみることも必要である。

 

まずは「芸能」について。

元々諸芸能はシャーマニズムに起源があるらしい。

虐げられた庶民の心を癒すものとして、同じく虐げられた身分であった芸能の民が諸国を遍歴しながら、その伎をもってナリワイとしていたのである。今でこそ芸能人はセレブ視されているが、古代から中世、近代の時代においては賎視され、常ならざる者として差別されまた同時に畏怖されていた。

時として芸能は権力者に抑圧されてきた。芸能の民が時の権力者を批判したり揶揄したりすることもあった。能のように権力者に取り込まれるケースもあったが、殆どの芸能の民は権力者や支配者と対峙してきた。容易に権力に従わない姿を見て庶民は溜飲を下げ喝采をおくってきたのである。

特に「笑い」を提供する芸能は権力者を揶揄したり、タブーに切り込んだりする点にその真骨頂があったのだ。また、人の持つ「業」、その愚かさや弱さ、醜さを面白おかしく表現する神業に観る人たちは心を奪われたのである。

 

ジャーナリズムも元々は世間で起きた事件を庶民に伝えることをナリワイとし、同時に権力者の非道、無能、スキャンダルを庶民に分かりやすくかつ面白おかしく伝えることもまたナリワイとしていたのである。江戸時代の瓦版、明治維新以降の自由民権運動と結びついた新聞がジャーナリズムの源流である。

 

芸能もジャーナリズムもその本質は「反体制」「反権力」的なものであり、庶民に寄り添ったものであった。

直接的に権力者批判はしなくても、その存在自体が権力にとって目障りなものだったのである。

 

テレビの話に戻そう。

テレビがつまらなくなったのは送り手側の人の質が劣化したと言う人たちがいる。テレビ局の人事・採用の問題であると。クリエイティヴな才能を持つ人を採用せず、学歴偏重、コネ優先の採用による弊害が表出したものだという言説もある。これもテレビがつまらなくなった理由のひとつであるかもしれないが、根源的な理由は別のところにあると僕は思っている。

芸能やジャーナリズムが本来的に持っていた面白さをないがしろにしたせいではないかと思う。またテレビ局(あるいはマスコミが)自体がエスタブリッシュメントの一翼に連なり、それに満足して庶民の欲望に背を向けたからだとも思っている。テレビ局そのものがエスタブリッシュメントだと「思い違い」をしたときから堕落が始まったのである。

テレビが抱え込んだ芸能とジャーナリズムに内在している権力者と対峙する気概が決定的に欠如し始めたために、本来テレビが持つであろう面白さが失われたのである。

 

現在のテレビ局が持つ体質では規制があろうとなかろうとつまらないコンテンツしか生み出せない。かつての芸能にしてもジャーナリズムにしても今とは比べ物にならないほどの規制をかいくぐって庶民に面白いものを見せてきた。規制があるから云々はただの言い訳に過ぎない。僕が最も敬愛する映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーは当時のソ連当局の厳しい抑圧下でも、「惑星ソラリス」や「ストーカー」、「ノスタルジア」といった映画史に残る傑作を製作している。

テレビが面白くなくなったのは「規制」のせいではない。

テレビ局が庶民の持つリアリズムや庶民のダイナミズムを軽んじて、その重要性に気付かないことによる必然で決定的にテレビがつまらなくなったのである。

「先のことは分からない」という事実を僕たちは看過しているのではないかという件〈再掲〉

将来に不安を抱えている人たちは多い。

当たり前の話である。誰も先のことなんて分からない。

しかし、先のことが分からないからこそ希望が持てるのである。

 

初出 2017/3/2

 

未来に起こることなんて誰にも分からない。

マクロな視点からの未来予測が困難であること、ミクロな視点からの自分がどうなっているかなんて分からないこと、いずれも同じことである。

 

「先のことなんて分からないよ」といった類の言葉を発すると大抵の人は「そりゃそうだ、何当たり前のことを言ってるんだ」と返してくる。

でも、待てよ、そんな返しをする人の行動様式を見てみると、首をかしげたくなるようなものがいくつもある。

35年ローンを組んで家を買う、なんてことは明らかに今の状態が続く(あるいはもっと良くなっている)ことを前提としている。自分の未来がある程度確定している、ということを自明のものとしている。

生活設計なんて代物は未来の自分のあるべき姿を勝手に決めつけたうえで作られている。こうあるべきだとか、こうなっていて欲しいという勝手な願望を既成事実と置き換えている。

 

よくよく考えてみると、昔に思い描いた未来の姿と現在のそれは大きく食い違っているはずだ。

共産主義社会主義国家が雪崩を打って崩壊するなんて考えられなかった。ソ連が崩壊し、東西ドイツが統一するなんて僕が学生の頃はとても考えられなかった。

自国の話になると、こんなに経済成長が止まって、不景気が続き、格差が広がり貧困問題が顕になるなんて思いもよらなかった。

僕がこんなにダメ人間になって、世間で真っ当とされるレールから外れた生き方をしているなんて想像外である(兆しはあったけれども)。

 

僕たちはみんな先のことなんて分からないさと嘯きながらも、自分の都合の良い未来を思い描き、その願望に過ぎないものをあたかもそうあるべきものと思い込んで時を刻み続けている。

ある意味仕方のないことではある。

誰も暗黒の未来なんて想像したくないし、未来が全く捉えどころのない実体のないものとしてやり過ごすのは酷なことである。

人は誰もが自分に取って不都合なことからは目を逸らせたいものなのだ。

 

人生一寸先は闇である。

僕は人生一寸先は光と言い換えている。

先のことは分からないけれども、分からないからこそ楽しくて面白いと考えるようにしている。

自分の未来が確定していたらこんなにつまらないことはない。生きる意欲が失せてしまう。自分は何者であるか、なんて類の探求心は不要になってくる。

先のことが分からないからこそ僕はもがき苦しみ、その苦しみに耐えることができるのである。

 

僕が「安定」というものを忌み嫌い、「安定」なんて幻想だと断言しているのは、未来は予測不能であり、かつ常に物事は移ろい変化するものなのだと本能的に感じ取っているからである。

この本能的なものは誰もが有しているものである。ただ、これは世間で真っ当とされる生き方を疑いもなく続けていれば錆び付くものではないか、と僕は勝手に思っている。僕はレールから外れたからこそ、この本能が錆び付かなかったか、あるいは甦ったのではないかと思う。

このことは喜ばしいことなのか、僕には分からないけれども、喜ばしいことだ、としている。

「先のことは分からない」からこそ、こんなだめ人間の僕でも浮かぶ瀬がある、と思えるからそれは決して悪いことではない。 

昔ながらの喫茶店が好きだという件

僕は昔ながらの喫茶店が好きである。

残念ながら今はチェーン店が興隆の時代であり、個人がひっそりと街中で営む喫茶店が減っている。

 

昔ながらの喫茶店の良いところはタバコが堂々と吸えることである。チェーン店のように店の片隅に追いやられることもない。

僕にとってはコーヒーをちびりちびりと飲みながらタバコを燻らせお気に入りの本を読むことが至福の時である。

この至福の時の舞台設定として最適な場が街の喫茶店なのである。

 

僕の行きつけの喫茶店は5,6件ほどあるけれども、昔ながらの喫茶店はその内の半分である。最もよく行く喫茶店はかれこれ30年以上前からの付き合いである。

その店はランチメニューも豊富で(値段もお手頃である)、何時間居ても何も言われない。新聞や週刊誌も揃っている。週刊誌やスポーツ新聞を読みたくなったら、ちょくちょくその店へ足を運ぶ。

それと仕事をサボった時の避難場所でもあった。前までの仕事に就いていたときに僕はたまに無性に仕事をサボりたいという衝動に駆られることがあった。仕事をサボって家に居ると母が心配したりあれこれ言ってきたりするので居心地が悪い。そこで、「よーし、今日は仕事をサボるぞ」といった日は一旦仕事に行くふりして家を出て、難波あたりをウロウロしてから行きつけのその喫茶店で過ごすことにする。また、出勤していても午後からサボりたくなった日はその店に直行して帰宅時間まで過ごす。

その行きつけの喫茶店は僕の「居場所」のひとつなのかもしれない。

 

今はもうなくなってしまったけれども、僕が通っていた高校の近くにあった「K」という喫茶店も思い出に残っている。

その当時付き合っていたガールフレンドと学校帰りに立ち寄ってとりとめのない話を夜遅くまでしていた。どんな内容の話をしていたのか全く覚えていないけれども、その時の胸の高まり、ドキドキ感だけはなんとなく覚えている。「大人の世界」にちょっとだけ足を踏み入れたというワクワク感があった。

土曜日のランチにもよく利用していた。利用客は僕が通っていた高校の生徒だらけ。メニューがリーズナブルでしかも大盛りだったのでとても重宝していたのである。

今は亡きその「K」という喫茶店は間違いなく僕の青春の一コマとなっている。

 

僕の行きつけの喫茶店の中にはカフェ風の店もある。

僕のくだらないこだわりなのかもしれないが、全国チェーンのカフェは極力利用しないことにしている(例えばSバックスとか)。

僕がよく利用するカフェ風喫茶店はチェーン展開していない(あるいは小規模なチェーン店)ところである。

本当は昔ながらの純喫茶風な喫茶店が良いのだけれども、次善の策としてチェーン展開していないカフェを使っている。「へっ、グローバリズムなんかなんぼのもんじゃい」とささやかな抵抗をしているわけである。

それとチェーン展開しているカフェの雰囲気が何となく肌に合わないのだ。僕が座っている横の席でサラリーマンにノートPCやなんかでパチパチやられたりすると興ざめするのである。まあ、あくまで僕の個人的な感覚なのだけれども。

 

僕はやはり昔ながらの喫茶店が好きなんだなぁと思う。

僕が「昭和」の人間だからなのか、アナクロ人間だからなのか、自分でもよく分からない。

僕にとって昔ながらの喫茶店は「古き良きもの」の象徴である。

僕もいよいよ老いてきたのだろうか。

でも、この「老い」の感覚は悪いものではない。

 

 

 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します