希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

何でもかんでも「教育が悪い」と言っていればいいわけではないという件

教育に関する話題となると多くの人は熱くなり持論を語りたがる。

受験競争、偏差値偏重主義、エリート教育の是非、学力低下等々手を変え品を変え様々なトピックが登場し、そのたびに自称教育評論家があちらこちらから湧き出てくる。

 

多くの人たちは過剰に教育に期待し、同時に教育(特に公教育)を信頼していない、というジレンマに陥っている。

教育さえまともならば、この社会の様々な問題は解決するという幻想を抱いている。ならば、「まともな教育」とは何かと問われれば、はっきりとした答えを出すことは困難である。民主主義教育をもっと徹底せよ、とか戦前の教育に回帰せよといった声がよく聞かれるが、この手のイデオロギーに毒された物言いがさらに教育の荒廃を招いている。

 

ある社会問題があがってきたときに例外なく「教育が悪い」「教育の問題」だという言説がまかり通ることになる。

猟奇的な事件が起きたら大抵は訳知り顔の自称識者が社会システムの不完全さ、教育不全だといった無責任なコメントを垂れ流す。

僕が強い関心を持っているニート、ひきこもりの問題にしてもその原因を教育に求める手合いも多い。

 

確かに教育の不全は社会問題が起きる要因のひとつだろう。

そもそも完璧な教育システムなんて存在しない。そんなものがあったらとても怖い。

教育、特に公教育は「健全なる市民(あるいは国民)」を育成するものだと言われている。シニカルな言い方をすれば「良質な労働者」を大量生産するために教育はある。この「健全な市民・国民」や「良質な労働者」というものが曲者なのである。「誰にとって」健全な国民であり良質な労働者なのかを今一度深く掘り下げる必要がある。

 

教育制度はこの社会において根幹をなしているのは確かではある。

明治維新の時のように近代化を押し進めようとする時代背景があるときには近代的な教育制度の有用性は高かったと思う。しかし、成熟した社会においてその当時と同じ感覚で教育を捉えればどこかに歪みが生じる。

当たり前の話だが教育だけでは対処できない多くの社会問題が次々と生まれてくるのである。

 

この社会で次から次へと生まれ出てくる様々な社会問題に対して、「教育が悪いから」だと切って捨てる態度は無責任極まりないものである。一種の思考停止状態に陥っている。

例えばひきこもりやニートの問題(そもそも僕は「問題」視することがどうかと思っているが)について、その根源的な要因を考察することなく単純に教育が悪いと断罪してしまえば何も状況は変わらない。教育の在り方をどのようにこねくり回してもニートやひきこもりの人たちは一定数存在し続ける。

 

教育によって社会システムを変える、人心を変えることには限界がある。

教育は万能薬なんかではない。

教育に過剰な期待を寄せ、完璧な教育システムが存在するはずであって、それによって社会を安定させることができる、といった幻想を国家やあるいは人々が持ち続けている限り、何も変わることはない。「教育が悪い」と言って、そのことで解決策を提示していると思い込んでいる人たちの自己満足に過ぎないのである。

社会保障やセーフティネットを手厚くすると人は怠惰になるのか、という件

ごくごく当たり前の話であるが、僕たちは健康で文化的な生活を営む権利を有している。

誰もが知っている憲法25条の生存権保障の規定である。国家は国民の生活を保障する責務がある。

ただ、最高裁はこの憲法の規定をプログラム規定ととらえ、国家の責務とまでは認めずに努力規定的なものに留まるとしている。

 

僕はこのエントリーで憲法論議や人権論議をしたいわけではない。

僕たちが社会保障を享受する権利が実体的なものであり、単なるイデオロギーではない、というのが僕の立場である。社会保障は国家の恩恵的施策ではなく、僕たちが当然に受ける権利だと強く主張する。

 

なぜ今更こんなカビの生えたような論をぶつかというと、この社会では未だに社会保障制度を国家の恩恵だととらえ、生活保護をはじめとする社会保障給付を「コスト」だとみなし、受給する人たちにスティグマを刻印してるからである。

 

その最たる言説が「社会保障は人を怠け者にする」というこれまたカビの生えた俗論である。

確かに生活保護を受給している人たちの中で勤労意欲を喪失し、自立した生活に至っていない人がいるのは確かである。世間では生活保護受給者は怠け者で働かない人たちだという誤解が根強く残っている。

 

格差や階層が固定化されているときには「下層」に置かれた人たちが勤労意欲あるいは生きる意欲をなくす可能性が高くなる。いくら働いても生活は困窮したままで「下層」に固定されれば意欲をなくして当然である。

またしても生活保護を例に取って話を進める。

「就労支援」という名の労働の強制は、現状では劣悪な労働条件下での就労になる可能性が高い。つまり働いて得た賃金の額が生活保護費と同レベルなら働かない方が得だと考えるのも道理である。しかも生活保護ならば医療扶助や住宅扶助もある。

政治家や官僚、あるいは生活保護受給者を人間のクズだと放言している連中は1年間でも生活保護レベルの生計費で生活してみるとよい。いかに世間に流布している生活保護受給者へのバッシングの内容が偏見と誤解に満ちたものか理解できるはずだ。

 

働いてまともな収入を得ることができれば、勤労意欲を喪失するようなことは普通は起きない。

中流」や「上流」に這い上がる可能性が大きく開かれていれば、人は勤労意欲や生きる意欲を保持し続けることができる。

貧困に到る根源的な理由は社会構造の歪みにあるのであって、決して個人の意欲に還元できるものではない。

社会保障、特に生活保護が人を怠け者にするのではなく、貧困を放置し格差を拡大させている社会構造の欠陥こそが人を怠惰にさせる要因なのである。

 

階層の固定化、格差の拡大を誘発する政策を採り、貧困問題から目を背け、現行の社会構造の歪みを放置しておきながら個人の「意欲」のみに問題がありとするのはまさしく政治の怠慢である。もっといえば「棄民政策」である。

 

社会保障は人を怠惰にする、あるいは社会保障は亡国につながるという俗論、暴論に乗せられてはならない。

それは国家に寄生している連中のたわごとに過ぎないのである。 

「自己責任」を突き詰めると超人的な人しか生き残れなくなるという件〈再掲〉

自己責任とは便利な言葉である。何らかの問題を抱えた人に対して「自己責任」だと言っておけば済むからである。とても冷たい言葉である。

人はすべての行動に対して自己責任を取れるほど強いものなのだろうか。

 

初出 2017/2/28

 

一昔前は世に自己責任論が跋扈していた。

今は幾分和らいではいるが、それでもなお何かのきっかけで自己責任論が噴出する状況にある。特に「貧困」をめぐるメディアの報道がなされるとどこかしこからともなく貧困は自己責任である、生活保護受給者は甘えている等のバッシングが沸き起こる。 

 

俗に言う自己責任論は支配者層や社会的強者にとっては誠に都合の良いイデオロギーである。

社会的弱者に過度な自己責任を強いれば本来政府がなすべき施策をせずに済むし責任から逃れられる。社会保障所得の再分配という本当は為政者がしたくない政策、社会的強者が歓迎しない施策を後回しにできる(と画策している)。

この国は社会的強者には自己責任を求めずに社会的弱者のみに自己責任を強いる、というとんでもない国である。

 

人は日々の生活を営む上で自分で責任を取らなければならないこともある。自己責任の論理に抗えない時もしばしばある。しかし、それにも限度がある。

 

自己責任論は恐ろしいことに際限なく拡大する代物である。

貧困は自己責任である(イギリスでも19世紀の末ころまではこの考え方が一般的だった)。貧しいのは努力が足りないからだ、怠惰だからだと個人の責任に収斂する。

母子家庭で生活が立ち行かないのも自己責任である。離婚して母子家庭になったのは配偶者の選択を誤ったからだ、辛抱が足りない等の言葉を浴びせかける。

病気になったのは自己責任である。自己管理がなっていないから病気になり、日ごろから蓄えや備えをしていなかったのも個人の責任である。

枚挙にいとまがないが、この世で生きていて遭遇する不慮の事態はほとんどが自己責任になってしまう。

 

自己責任論を突き詰めると、この世でつつがなく生きていくためには病気にならないように徹底した自己管理をし、数年間の生活費を賄えるほどの蓄えを持ち、常に安定した収入を確保できるほどのスキルをもっていなければならず、これらの条件を満たした者だけが生きていける、といったことになってしまう。

こんな「超人」的な人たちしかまともに生きていけない社会はある種のディストピア的な社会である。社会ダーウィニズムや優生思想にもつながる危ない社会である。

 

当たり前の話だが、僕たちは生きているうちに様々なことに遭遇する。良いこともあれば悪いこともある。

ちょっとしたきっかけで収入の途を絶たれてしまうこともある。思いがけない事態に遭ってそれが長引くことなんてざらにある。そのために社会政策があり社会保障があり、互助・共助があるのだ。自助努力だけで渡っていけるほど人生は平らかなものではない。

何か事があると自己責任と言いたがる輩は想像力を著しく欠いたバカなのである。

 

今は小康状態にある自己責任論による弱者バッシングは何らかのきっかけでまた噴出する可能性がある。

人は自己責任云々するほど強くはないし、完璧な生き物ではない。

この当たり前のことを片時も忘れないようにしたい。

  

人に何と言われようとも僕は頑張りたくないという件

僕は幼少の頃から頑張ることが嫌いだった。正確に言えば人に自分の「頑張っている」さまを見せることが嫌だったのだ。

今もそうだけれども、ガンバリズム、根性主義的なものが大嫌いである。

 

「頑張れ」という言葉は便利で使い勝手が良いものである。

もし何らかの結果が出なければ、その人の頑張りが足りなかったからだとしてすべてをその当人の責に帰することができるからだ。これは自己責任論に近いものがある。

また、目的達成のプロセスにおいての戦略や戦術の稚拙さを隠匿するはたらきを持っている。会社の業績が芳しくない時は社員の頑張りが足りないからとして経営者の稚拙な経営手腕を覆い隠すことになる。学校教育に問題点が表れると教師の頑張りが足りないからだと教師個人の責任に転嫁する。つまり、責任を取るべき者の責任回避のために「頑張り」が執拗に用いられ、現場の一線に立っている人たちに責任をなすりつけるために「頑張り」が利用されているのである。

 

 

この社会では「頑張らない」でいると、それだけで強く責められてしまう。さらには頑張ることができないでいると人格に欠陥があるとレッテル貼りをされて人格攻撃に晒されてしまうのである。

頑張ることができない人たちにはそれぞれ事情があり、それは個人ではどうしようもないことであるのに(社会構造、環境等の影響があるのに)、本人の意欲ややる気の問題だとして個人の問題に収斂されてしまうのである。

 

僕はこれまでに幾度も理不尽な個人攻撃を受けてきた。そのこと自体はまあ仕方がないな、と思っているのだけれども、なんだかもやもやとした感じは常に付き纏っていた。

僕は僕なりに(人から見れば不十分かもしれないが)自分のやるべきことを着実に行ってきたという自負があった。良い結果が出るかどうかは運不運や時の勢いといった不確実な要因に負うことが多い。努力や頑張りが即結果に結びつくことなんて稀である。「頑張りさえすれば必ず報われる」なんて現実を無視した質の悪いイデオロギーもどきに過ぎない。殊更に頑張りを人に強いる輩は知的レベルが低い精神主義者だと思ってしまう。

 

ある程度の頑張りは絶対に必要だと僕も思う。

しかし、限度を超えた頑張りの強要は百害あって一利なしである。

人は誰でもそれぞれが目的に向かって頑張っている。たまたま結果が出る人がいれば結果が出ない人もいる、ただそれだけのことである。頑張ったからこそ成功したと強調することは不毛な精神論に堕してしまい何だか居心地の悪さを覚えてしまう。

 

僕は頑張りたくないし、人に頑張りを強要したくもない。

「怠け者」だとか「向上心がない奴」と謗られようともである。

「頑張れ」という言葉の裏には邪なものが隠されている。たとえそれが善意から発せられたものであっても、である。

「頑張る」「頑張れ」といった言葉を安易に持ち出さないよう、厳に慎みたい。

 

 

僕はある時から自分を甘やかすことにしているという件

僕たちはずっと「自分に厳しくあれ」的な生き方を推奨されてきている。

将来の自分のあり方を見定め、目標を設定し、自分自身を叱咤激励しながら生きていくことが正しいとされてきたのである。

 

僕もご多分に漏れず「自分に厳しく」というイデオロギーを信じていた。

自分に厳しくない奴らなんて自堕落な連中だと思い込んでいた。

成長だとか自己実現だとかは自分に厳しくあってこそ果たせるものだという誤った信念を持っていたのだ。

 

僕はあるときにふと気づいた。

「自分に厳しくあれ」なんてイデオロギーを撒き散らしてるのは、そうすることによって得をする連中だということを。

それは自己啓発系のコンテンツの売人だったり、支配者層に属する奴らだったり、その支配者層に寄生しておこぼれを貰おうとしている連中だったりする。

ひたすら「自分に厳しく」隷属的な労働を続ける人たちが多くいれば、そこから搾取して肥え太る連中がいる。自分に厳しくあらねば、と強迫観念に縛られる人たちをカモにして、もっともらしい自己啓発的言説を垂れ流す輩がいる。社会保障費の削減に血眼になっている為政者は、国に助けを求めることは恥だとの誤った考え方を広め、「自立」を強いてくる。

 

「自分に厳しい」ことは一見格好よく映る。

自立した現代人モデルの典型だと見える。

しかし、時としてこの格好の良さにとらわれると自分の生きづらさを拗らせることになる。

 

僕はある時までひたすらに自分に厳しくあろうとしていた。その結果、心身共に疲弊し、一時期ひきこもることになってしまった。

僕はそれまでの考えを改めて自分を甘やかしてしまえ、と方向転換することにした。

自分にできることなんてたかが知れている。成長や自己実現なんて無用の長物である、と開き直ったのだ。

 

自分を甘やかすということは自分自身に課すハードルを下げてしまうということだ。カネを多く稼げなくてもいい、社会的地位なんて気にすることはない、といったように「成長神話」に背を向ける生き方である。真っ当とされるレールからちょっとだけ外れた生き方を選択するということである。他者からの評価、他人の眼を気にすることなく、我が道を行くという生き方である。僕は今、これらを不完全ながら実践している。

 

自分を甘やかすということは、自分に優しくなるということだ。そして、自分というものに過度な期待を抱かないということでもある。自分に優しくできれば、同程度あるいはそれ以上に人に優しくできるはず、と信じている。

僕は今は「生き延びること」ができさえすれば万々歳だと思っている。自分なりに楽しく、面白く生きることができれば他には何もいらない。

 

僕はこの自分の生き方を僕以外の人たちに押し付けようとは思わない。

「自分を甘やかす」のはある意味緊急避難的なものである。下手をすれば自堕落でどうしようもない人間になってしまう危険性もある。自分なりの一定の「歯止め」を設定しておく必要がある。

 

「自分に厳しく」あろうと疾走してきて疲労困憊したときに、一旦休んで「自分を甘やかす」路線に切り替える。このように両者を時と場合に応じて使い分けることも、生きる上でのひとつの智慧だと僕は思う。

自分に厳しすぎても良くない、さりとて甘やかすばかりでもよくないというように、ただシンプルに物事を捉えればいいのである。

 

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