僕たちはずっと「自分に厳しくあれ」的な生き方を推奨されてきている。
将来の自分のあり方を見定め、目標を設定し、自分自身を叱咤激励しながら生きていくことが正しいとされてきたのである。
僕もご多分に漏れず「自分に厳しく」というイデオロギーを信じていた。
自分に厳しくない奴らなんて自堕落な連中だと思い込んでいた。
成長だとか自己実現だとかは自分に厳しくあってこそ果たせるものだという誤った信念を持っていたのだ。
僕はあるときにふと気づいた。
「自分に厳しくあれ」なんてイデオロギーを撒き散らしてるのは、そうすることによって得をする連中だということを。
それは自己啓発系のコンテンツの売人だったり、支配者層に属する奴らだったり、その支配者層に寄生しておこぼれを貰おうとしている連中だったりする。
ひたすら「自分に厳しく」隷属的な労働を続ける人たちが多くいれば、そこから搾取して肥え太る連中がいる。自分に厳しくあらねば、と強迫観念に縛られる人たちをカモにして、もっともらしい自己啓発的言説を垂れ流す輩がいる。社会保障費の削減に血眼になっている為政者は、国に助けを求めることは恥だとの誤った考え方を広め、「自立」を強いてくる。
「自分に厳しい」ことは一見格好よく映る。
自立した現代人モデルの典型だと見える。
しかし、時としてこの格好の良さにとらわれると自分の生きづらさを拗らせることになる。
僕はある時までひたすらに自分に厳しくあろうとしていた。その結果、心身共に疲弊し、一時期ひきこもることになってしまった。
僕はそれまでの考えを改めて自分を甘やかしてしまえ、と方向転換することにした。
自分にできることなんてたかが知れている。成長や自己実現なんて無用の長物である、と開き直ったのだ。
自分を甘やかすということは自分自身に課すハードルを下げてしまうということだ。カネを多く稼げなくてもいい、社会的地位なんて気にすることはない、といったように「成長神話」に背を向ける生き方である。真っ当とされるレールからちょっとだけ外れた生き方を選択するということである。他者からの評価、他人の眼を気にすることなく、我が道を行くという生き方である。僕は今、これらを不完全ながら実践している。
自分を甘やかすということは、自分に優しくなるということだ。そして、自分というものに過度な期待を抱かないということでもある。自分に優しくできれば、同程度あるいはそれ以上に人に優しくできるはず、と信じている。
僕は今は「生き延びること」ができさえすれば万々歳だと思っている。自分なりに楽しく、面白く生きることができれば他には何もいらない。
僕はこの自分の生き方を僕以外の人たちに押し付けようとは思わない。
「自分を甘やかす」のはある意味緊急避難的なものである。下手をすれば自堕落でどうしようもない人間になってしまう危険性もある。自分なりの一定の「歯止め」を設定しておく必要がある。
「自分に厳しく」あろうと疾走してきて疲労困憊したときに、一旦休んで「自分を甘やかす」路線に切り替える。このように両者を時と場合に応じて使い分けることも、生きる上でのひとつの智慧だと僕は思う。
自分に厳しすぎても良くない、さりとて甘やかすばかりでもよくないというように、ただシンプルに物事を捉えればいいのである。