希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

会社に従順なサラリーマンを生み出すために大学は存在しているのか、という件

大学が「就職予備校」化していると論じられて久しい。

昨今の就活の狂騒ぶりを見ているとそうなのだと納得する。大学生活の思い出は就活だ、という著書もあったが、そのことに悲哀を感じてしまう僕は世間とズレているのだろうか。

 

確かに就職は人生においての一大イベントである。新卒時の就活の結果がその人の人生を左右する可能性もある。

大学が就職予備校と化しているという指摘は最近に始まったものではない。戦前の大正・昭和期の旧制大学においても、昨今はサラリーマンになることにあくせくしている学生が多いと嘆いている言説が存在していた。

 

大学進学者が同年代の過半数を超えるような大学の大衆化が進むと大卒者の特権性は失われる。巷に学士が溢れると、その希少価値はなくなる。そして、大学を卒業すればサラリーマンになるのが当たり前になってくる。大学の存在意義が「高等教育」を授けるものから、労働者の養成機関へと変化するのも致し方ないことになる。大学の良し悪しは教育内容ではなく、いかに世間で良いとされている会社にいかに多くの学生を送り込むかで決してしまうことになる。人格の陶冶、教養などという言葉はもはや死語となっている。

 

僕は大学での教育を「職業教育」と切り離すべきなどとは思っていない。高度の職業教育も重要である。ただ、それはあくまで独立独歩が可能な専門知識や職業意識を身につけるといった意味での職業教育である。会社や役所の勤め人になってもいいし、起業したりフリーランスになってもいい、どんな状況に置かれても我が身を守れるような知識と技能、いわゆる「稼げるスキル」を手にすることが職業教育だと捉えている。

ひとつの会社に縛り付けられてサラリーマン根性を植え付けられ、社畜や会社人間と揶揄されるような会社に隷属した労働者を大量生産するような機関に大学が堕しては駄目なのだ。

 

大学生活で最も楽しいのはそれまでになかった「自由」を手にすることだと僕は思っている。自分が興味を持ったことに対して深く学ぶことができる。たとえ自分の専門領域以外の事項でも自由に学ぶことができる。逆に面白くないと思ったことについては単位だけを取得して、表現は悪いが思い切って「捨てる」こともできる。先人たちの業績から学べるし、時として自分のオリジナリティを出すこともできる。大学で学ぶことはそれまでの「お勉強」ではなく「学問」へとステップアップするのである。

 

「学問」は面白くて楽しいものである。たとえ、その内容が実生活に直接に役に立たないものであったとしても。役に立ちそうにないことを必死に学び知識を得る、ということも大学生の特権である。

会社での仕事にのみ役立つことを学ぶようなサラリーマン養成的な大学「教育」はなくてもよい。そんなものは会社での研修で身につくものだからだ。大学生活での貴重な数年をそのような陳腐なものを習得することに心血を注ぐことは不毛なことである。

 

現実は今の大学はサラリーマン養成所と化している。

しかし、ひとりでも多くの人たちがこの事実に抗って、大学でしか学べない「役に立ちそうにない」ことを楽しく面白く学び教養的なものを身に付けて欲しいと僕は強く願っている。

実は一見「役に立ちそうにない」知識や思考様式が人生のところどころにおいて役に立つことになるのである。 

働く環境を良くするためにはひとりひとりが現実と向き合うしかないという件〈再掲〉

劣悪な労働環境の職場が多いことは多くの人たちに知られている。

そんな職場で働く人たちの大多数は声をあげることもせずに耐えている。

個々人が現実といかに対峙するかが大切となってくる。

 

初出 2017/2/16

 

この国で働く人たちの多くは労働環境が劣悪な状況にあることに苦しんでいる。

長時間労働サービス残業、誤った成果主義、リストラ圧力が常にかかっている等々である。

新自由主義グローバリズムはごく一部の経営者層・富裕層を富ませるだけで、労働者の生活の質は劣化の一途を辿っている。

 

労働者の職場環境を改善するためには労働者自らの力によってなすことが理想である。イデオロギーに囚われない労働組合の手によって待遇改善の戦いを続けるほか手立てはないのである。

労働者ひとりひとりの力はとても弱い。とても経営者層に立ち向かえない。ならばと「連帯」と「団結」によって対抗するしかない。

しかし、この国の既存の労働組合は闘う力と意欲を喪失している。組織率も低下し続けている。労働組合の存在意義そのものが問われている状況下にある。

 

労働環境の改善を国家の介入によってなすべきだという言説があるが、これには僕は全面的には同意できない。労使の交渉によってしても解決できない事案については国家権力の介入も仕方がないとは思うけれども、安易に国家に頼ることは危険である。

そもそも現政権・与党は大企業の利益を第一にしていて、労働者や庶民の生活なぞ二の次にしているのである。そんな政権が労働者や庶民を利するような政策を採ることはない、と考えなければならない。

 

労働組合は頼りにならない、国家権力の介入は避けなければならないとなると、結局はひとりひとりが個人で現実と向き合うしかない。

あるいは個人単位で加入できるコミュニティ・ユニオンに加わって会社と対峙するしかない。

個人でできることは限られている。その影響力なんて微々たるものだろう。しかし、手をこまねいているよりははるかにましである。

個人でできること。

それはサービス残業の拒否であったり、定時退社を試みることであったり、有給休暇の完全消化を図ることだったりする。職場の同調圧力に屈せず、労働者としての当然の権利を行使することである。

現に労働基準法、労働契約法、労働組合法等の労働法ではかなり強く労働者の権利が保護されている。多くの働く人たちはその知識が乏しくて、あるいはそれを学ぶ機会を奪われていて、会社や経営者の好き放題にされっ放しとなっている。ひとりひとりの労働者は闘う術を手にしているのである。

 

作家の竹内義和さんの言った言葉。

「金持ちはうまくつるんでいて、貧乏人はいつもバラバラである」

これは的を射た言葉である。

労働者や庶民が手を携えることができないのは、為政者の分断統治の結果であると同時にそのメンタリティの問題もある。ついつい目先の利益に目を奪われて、大切な目的達成のための中長期的な視野を持つことができないでいるのだ。

労働者や庶民も「うまくつるむ」ことが大切なのである。

 

労働者ひとりひとりの力は会社や経営層の力に遠く及ばない。

しかし、数の上では圧倒的に多数である。

労働者ひとりひとりが会社や経営層に対峙するために個人でできることをやり、そのうえで連帯し団結して(ユニオンを作ったり加入したりする)数の力で対抗する。

巨象も蟻の大群に倒されることがある、というようにひとりひとりは弱い労働者も大きな山を動かすことができる。

ひとりひとりが現実に向き合うことで道は開ける、と僕は強く思っている。 

弱いことは悪ではない、善であるという件

今のこの社会では「弱いこと」は悪である、とみなされがちである。

競争に勝て、成長しろ、人に頼るな助けを求めるな、自己責任だ、といったように人を急き立てる。

真っ当な「社会人」とは正社員として勤めていて、常に成果を出して上司や同僚に評価され、「自立」している人たちのことだとされている。

会社に「役立つ」人間、誰かの役に立っている人間がまともな人間であって、僕たちは「役立つ」こととトレードオフで存在を許されている、というような歪なことになっている。

 

他人に認められてはじめて自分の存在価値がある。

強くなければ生きている価値はない。

これらの考え方はある一面においては真理である。

人は自分の属する共同体で何らかの役割を得てその役割を果たすことが自分のアイデンティティとなるという意味においては。

 

しかしながら、人は誰でも弱さを抱えていて不完全な生き物である。

人は神ではない。

人は自らの弱さを覆い隠すために様々な「システム」を作り上げてきた。そしていつしか人は弱い存在であることを忘れ(あるいはあえて忘れようとして)強さが大きな価値を持つ、と思い込もうとしてきたのである。表向きの強さを持つ者たちが「システム」の管理者となったのだ。

 

僕たちは幼いころから「強くあれ」と刷り込まれてきた。

弱きことは悪であると洗脳されてきた。学校というシステムの中で、あるいは企業社会というシステムの中で繰り返し繰り返し。

いじめが蔓延っているのは、これらの「強さ信仰」的なイデオロギーと無関係ではない。何らかの部分が弱い人たちを「異物」として、あるいは「異質なもの」として排除することに疑いを持たない。

相対的に弱い者はいつの世にも存在する。彼らは「差異」や「多様性」の中に包摂されて存在する、ととらえるべきであり、排斥の対象としてとらえるべきものではない。

 

ホモ・サピエンス(現生人類)以前に棲息していた旧人類は肉食獣の捕食の対象だったという。ホモ・サピエンスは道具の発明や火の使用、群れをなして生活することによってその捕食の脅威からどうにか逃れてきた。

いわば人類とは他者と助け合ってしか生きていけない「弱い」生き物なのである。

 

今の世の中、自分がいかに「自立」しているか、いかに競争に勝ってきているか、いかに稼ぐことに長けているかを誇っているバカがあまりにも多い。

自分の「強さ」を誇示する者は狭量であり視野狭窄に陥っている。

そして、自分の強さを誇示して憚らない輩はいざという時(危機的状況に陥ったとき等)、脆さや弱さを露呈するのである。一方、自分の弱さを自覚している者はいざというときにうまく切り抜ける智慧を持っている。あるいは周囲の人たちがその人に救いの手を差し伸べる。僕の全くの個人的な意見だけれども、全く外れているとは思えない。

 

僕は自分の弱さをしっかりとその内面に抱え持った人こそが真に強い人だと思っている。

自分の弱さを自覚すると他者に対して寛容になれる。

あるいは人と人との関わり合いの中で「ありふれた善意」を信じることができるメンタリティを持つことが強さなのではないかと思っている。

 

弱いことは決して悪ではない、という価値観がもうちょっとだけ広がれば生きやすい社会になるのになあ、と僕はつくづく思う。

 

苦労話を嬉々としてする人は信用できないという件

このエントリーのタイトルと矛盾するが、僕はわりと苦労話を見聞きするのが好きである。

ただ、すべての苦労話が好きだというわけではない。自分が体験した事実を淡々と述べた苦労話に好感を持つのである。そして自分が経験したことを苦労と感じていないことが伝わってくるのならもっとよい。

一方、自分の苦労譚を誇らしげに語り、「若い奴はもっと苦労しなけれゃダメだ」的な言動をするような老害には嫌悪感を覚える。

 

一般的に人は自分の苦労譚を他者に語りたがるものだ、と僕は勝手に思っている。

その動機は様々である。後に続く人たちの参考になればと思ってする場合もあれば、こんなに苦労して成功した俺って凄いだろうと自慢したい場合もある。後者の場合は見苦しいし、聞く方もしんどい思いをする。だいたい、他人の自慢話なんて聞く価値はゼロである。自慢話をする者の自己満足に過ぎない。しかし、世の中には自慢話的苦労譚をメディアで語り散らす輩が多く存在する。一部の「信者」はそれをありがたがる。

 

僕が好きな苦労話は「失敗」したときのエピソードが面白いものである。いかにして失敗したか、その失敗をどのようにして乗り越えたかがとても参考になるのである。

人が生きていくうえで成功よりも失敗の数の方がはるかに多い。その失敗エピソードを忌憚なく語る人は信用できる。

ところが、この世に流布している多くのサクセス・ストーリーは失敗の部分を隠蔽し、あるいは美化している。ひどいものになると成功者を神格化している。

 

苦労なんてしないに越したことはない。ある目的の遂行のためのプロセスを苦労と感じている時点で終わっているともいえる。本人は苦労と感じていないのに、周囲が「苦労した」と勝手に後付けをしている場合も多い。

 

僕が嫌だなあと感じるのは殊更に美化した苦労話を嬉しそうに話し、そのうえ苦労をしろと押し付ける「老害」の存在である。そんな輩はごまんといる。

この手の輩が精神主義や根性第一主義を蔓延らせているのだ。

苦労なしに人格の陶冶はない、といった類の根拠の無い妄言を撒き散らしている。

 

僕はそろそろ苦労話をしてもよい年齢に近づいている。はっきり言えばオッサンである。

僕は苦労話なんかを誰かにする気はサラサラない。そもそも僕は今まで苦労だと感じた事柄はないのである。

この事実にちょっとだけ淋しさを覚えるけれども、若い人たちに煙たがられるのも嫌なので、まあよしとすることにしよう。

「正義」なんて胡散臭いものだという件〈再掲〉

「正義」の名のもとに夥しい数の人たちが命を奪われてきた。

絶対的な正義などこの世に存在しない。

 

初出 2017/2/9

 

僕たちはついつい「正義」を前面に立てて自分の考えを押し通そうとする。自分の「正義」が絶対的に正しいものと疑いもせず、他者を抑圧しようとする態度がいかに傲慢で反知性的なものか思いも至らずに。

 

小田原市生活保護の不正受給抑止目的のジャンパー着用の件で、件の職員たちが「正義」を前面に押し出していたことに僕は不快感・違和感を抱いた。

生活保護の実務を法令に則って誠実に行うことが関係職員がなすべきことである。そこに正義云々が入り込む余地はない。市役所の職員たちが正義というものを持ち出すこと自体傲慢であり、さもしいことである。

不正受給自体は悪いことではあるけれども、行政の担当者が自分を正義だとし、不正受給者を一方的な悪だと断罪するような態度は権力を行使する者の本音がこぼれ出たものであって、とても不快である。全体の(この場合は地域の)奉仕者である公務員だという立場をわきまえていない暴挙である。

 

かつて「正義」の名のもとに夥しい数の人たちが命を奪われたことは歴史が証明している。

正義を盾にしたイデオロギーほどタチの悪いものはない。それに対して抵抗すれば「悪」のレッテルが貼られ、「悪」に属するとされる人たちを排除・抹殺することが正当化される。

正義は人を抹殺し人を抑圧する都合の良い道具となるおそれが大いにあるのだ。正義が持つ恐ろしさや危険性を蔑ろにしているととてつもない害悪を僕たちにもたらす、ということを肝に銘じておかなければならない。

 

僕たちが「正義」を口に出すとき、その正しさを妄信しているときもあれば、その正しさに疑いを持ちつつも「正義」だとしておけば相手をやり込めるのに便利だと思っているときもある。

正義だと妄信すると思考停止状態に陥る。

正義を「道具」だとして用いると、そこには邪なものがある。

権力者、特に独裁者は「邪悪なもの」を正義で覆い隠すことによって、「正義」の名のもとに人々を抑圧してきたことは、これもまた歴史が証明している。

 

絶対的な正義、普遍的な正義なんてこの世には皆無なのである。

人は所詮は自身に都合の良い「正義」をでっちあげて、そのでっちあげられた「正義」に後付けであれこれと理論付けを施して、さも絶対の「正義」だと見せかけているに過ぎない。僕たちはその見せかけの正義に縛られている。

あるいは多くの人たちは「見せかけの正義」だと心のどこかで感じながらも、それに束縛されることに快楽を得ているのかもしれない。

 

「正義」なんて胡散臭いものである、と僕は常々思っている。

しかしながら、時としてその「正義」に陶酔してしまう自分がいる。

「正義」には人を狂わす何かが備わっている。

「正義」は魔物である。

「正義」は媚薬である。

僕は「正義」のもつ魔力に常に対峙していきたい。 

 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します