希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

うそをつくのは悪いこと、本当にそう言い切れるのかという件

僕たちは幼い頃から「うそをついてはいけない」「正直者になれ」と散々言われ、そう刷り込まれてきた。うそつきは悪人であると、人として最低だと刷り込まれてきた。

確かに他者を陥れたり、悪意をもって欺くことはいけないことだ。人として当然のことである。

できればうそをつくことなく一生を終えたい。

 

世の中はうそに満ちている。

政治家どもは公約を果たさないどころか、真逆のことを臆面もなく言い出す。

今時政治家の言葉を真に受けている人などいない。もしいるとしたならば、よほど能天気か自分の頭でものを考えていない人たちである。同様に経営者の言葉も信じるに足りない。エスタブリッシュメント連中の言葉はうそで塗り固められている。

 

エスタブリッシュメントが噓をつき放題の一方で庶民はうそをつくな、と強いられている。

「うそをつくな」という教育は支配者にとって都合の良いものに他ならない。

支配者たちにとって支配される者たちが従順で正直であればあるほど統治が容易になる。

抵抗をし、そのためにはうそをつくことも厭わない人たちは容易に従わない者として支配者にとっては厄介な存在となる。

そのために「うそをつくことは悪である」「正直が尊い」というイデオロギーを庶民に叩き込もうと常に画策しているのだ。

 

うそをついたことがないという人は絶対にいないはずである。人は必ずうそをつくものだ。特に自分の身を守るために好むと好まざるとに関わらずうそをつく。このことは決して責められるべきものではない。

強者から身を守るため、あるいは「抵抗」するためにうそをつくことは庶民に認められた「権利」のようなものである。言い換えれば庶民の武器である。

 

僕が言いたいのはどんどん噓をつけとか他者を騙しても構わないといったことではない。

うそをつくことでだんだんと問題が大きくなり、結果破綻を招くことが往々にしてある。

 

対等な者どうしでの関係においては正直で誠実であることが当然なのは言うまでもない。うそをついて相手を騙し、自分の利得を得る行為は悪である。

 

僕が言いたいのは自分より強い者の理不尽な行為に対しては、時にはうそをついても我が身を守る行為が正しいこともあるということである。

強者による理不尽な行為に対して、正直にあるいは誠実に応じても強者の意のままになるだけである。うそをついてまでも我が身を守ることはない、という考えもあるだろう。一見爽快に見える行為ではある。しかし、それではずっと虐げられたままである。僕はやはりうそをついてまでも、「抵抗」をし、「矜持」を見せることが大切なのではないかと思う。

 

繰り返すがこの世はうそに満ち満ちている。

僕は強者によるうそに怒りを抱きつつ、時として強者に対してうそをついてまでも生き延びる生き方を肯定する。

  

秘密結社的なものを作って助け合いを行うと面白いかも、という件〈再掲〉

今は「連帯」ができにくい時代である。

助け合いや支え合いの精神も薄れてきている。

しかしながら、人は「社会」「共同体」を作ってしか生きていけない生き物である。「結社」をして社会と向き合うという方法もありなのではないだろうか。

 

初出 2016/11/17

 

僕が子どもの頃、テレビ番組で仮面ライダーウルトラマンなどのヒーローものが好きでよく観ていた。正義のヒーローに感情移入するのは当然として、僕は敵役にも面白みを感じていた。

世界征服を企む「秘密結社」というものに甘美な想像力を掻き立てられたのである。

 

この「秘密結社」という言葉の響きには未だに心惹かれるものがある。

結社の成員のみに許された儀式や独自の合図、独自の掟などになんとも言えない背徳感を覚えたのである。

 

お隣の大国、中国では数多くの結社があり、社会に大きな影響力を及ぼしているという。決して共産党の統制が隅々までに及び、個人を抑圧し、結社を全く認めていないというわけではない。古来から存在する秘密結社を黙認、あるいは手を結ぶことによって中国社会の発展を企図している。

 

僕は中国のような秘密結社とまではいかなくても「なんちゃって秘密結社」的な組織・団体を全国津々浦々に作り活用すれば、閉塞した日本社会を活性化するかもしれないと密かに思っている。

秘密結社の特徴は他の組織・団体とは異なり上下関係ではなく義兄弟の契りを結ぶ「水平的」な関係を基にしているということだ。お互いが基本的には対等な関係なのである。

そして結社の成員たちは相互扶助を旨とし、大概の困難な出来事に遭遇してもお互いに助け合うのである。自助と共助を強調することで、国家には頼りきりにならないというメンタリティを有する点が面白い。

 

この国では「個別社会」「中間団体」の力が極度に弱体化し個人が直接的に全体社会、国家に向き合うようになり、個人の存在基盤が揺らいでいる。一言でいえばとても生きづらい社会になっている。ひとりひとりがその弱さをカバーしうるような受け皿が是非とも必要なのである。

その対応策のひとつとして「秘密結社」的なものがいいのではないか、と僕は考えている。

 

秘密結社という語感から、おどろおどろしいものを想像しがちだが、元々は同業者あるいは出身地を同じくするといったライトな感覚で作られたものが原型である。

例えば大阪の泉州出身者の互助組織とか、非正規雇用で働く人たちの互助組織でもいいのである。イメージとしては県民会や地域ユニオンに具体的な生活互助的な権能を加えたものといった感じである。ある利害を共有しつつ普段の生活の相互扶助を行い個々の生活を守り抜くための組織なのである。ただし、結社への加入が全くのオープンだというわけにはいかない。ある程度の基準やルールが存在する。この手の結社の数が増えれば自分にマッチした結社が存在する確率は高くなる。あらゆる職能や地域をカバーするほどに秘密結社が結成されれば面白い。

 

僕も秘密結社に加わるか、あるいは秘密結社を作ってみたい。

その秘密結社を大きくして世界征服を行うことが僕の望みである、というのは真っ赤な嘘だ。 

時にはリスクを「取る」ことをしないと、何も生まれないという件

僕たちは生きていくうちに様々なリスクに見舞われる。

現状を打破するためにリスクを取ることもあれば、現状維持のためにリスクを負うこともある。

次から次へと自分に降りかかってくるリスクに対して、僕たちはその場の状況に応じて対処しなければならない。

全くリスクを取ったり負ったりしない人生なんてありえない。

 

リスクを「取る」ことと「負う」ことは似て非なるものである。

例えば起業したり、フリーランスに転身したりすることはリスクを取って行動していることになる。もし失敗したらえらいことになることを知りつつも、大きな果実を得るためにリスクを「取る」。

他方、堅実に会社勤めや役所勤めをしているときには仕事上のリスクを「負う」ことになる。

乱暴な仕訳方だけれども、リスクを「取る」ことは前向きなイメージでリスクを「負う」ことは後ろ向きなイメージとなる。

 

この社会ではあまりリスクを取ることは歓迎されない傾向にある。

例えば起業に成功しても、リスクを取った果敢な行動は賞賛されず、成功の要因を運の良さや時流に乗っただけだと冷笑されることが多い。一方で失敗したときにはリスクを取った行動が愚かなことだとされ、そのチャレンジ精神は顧みられることはない。

 

僕は僕なりにこれまでリスクを取る行動をしてきたと自負している。

安定した公務員になったのに、その仕事のあまりのつまらなさに辟易し、即断即決で公務員を辞めて、フリーランスとして仕事をする道を選んだ。

フリーランスとして(フリーの講師業や社労士事務所の自営)成功していればちっぽけな成功譚になるのだけれども、あいにくと成功には至らずこの歳になった今でもフラフラとしている。僕の残された人生の時はそれほどは残っていないけれども、これからも僕はリスクを「取る」生き方をしていきたいと強く思っている。

 

僕がなぜリスクを「取る」生き方にこだわるかというと、それは単に面白いからである。ワクワク感が半端ないからである。安定なんて幻想にすぎないと考えているからである。

それとリスクを「負う」という捉え方にはどうも馴染めないこともある。

僕の勝手なイメージだが、リスクを「負う」と捉えると、物事が前に進まず、現状維持に汲々としていると感じてしまうのである。それは「外部」から与えられ、あるいは押し付けられた義務を背負わされる、といった感じでもある。

 

リスクを「取る」という行為は何もそんなに大げさなものではない。今までとちょっと違うことをするだけである。結果責任を自分ひとりで負うということだけである。自分なりに「自由」を追い求め、「自由」に振る舞うということだけである。「自由」には自己責任が伴い、リスクを取らなければ自由は得られない、ただそれだけのことである。

 

僕は人はリスクは取るべきだという尤もらしい一般論を押し付けたいとはさらさら思わない。時と場合によってはリスクを避ける方策を取ることも必要である。

しかしながら、時にはちょっとしたリスクを取る行為をしてみても良いのでは、と思う。生命の危機に晒されない程度には。

リスクを避け、リスクを取らない人生は味気なくて面白くない。

 

「石の上にも三年」を鵜呑みにしてはならないという件

僕はかつて年長者から「石の上にも三年」的な説教をしばしば受けたことがある。その時は釈然としなかった、と覚えている。

なぜ嫌なことを我慢しなければならないのか。無理してまでも嫌なことをやり続けなければならない理由がどこにあるのか。「石の上にも三年」的な言説はそれらの疑問に対する根本的な解決を示すものではなかった。

 

根性論や精神論が好まれるこの社会では我慢が美徳だという風潮が蔓延しがちとなる。「石の上にも三年」という言葉が好まれ、よく用いられるところからもそのことはいえる。

しかし、よくよく考えればこの言葉の信ぴょう性は薄いものである。

ただ、単に「我慢を続けていれば、もしかすると良いことがあるかもしれない」と言っているだけだ。我慢をすることによって失われるもの、貴重な時間とか元々持っていた意欲など、を意図的にスルーしている。

 

我慢や忍耐を強いて得する者がいる。

我慢や忍耐を強いられざるを得ない人たちがいる。

圧倒的多数は後者である。

社会の各層で支配する側に属する者たちは支配される人たちに我慢を強いて、それが美徳であるというイデオロギーを浸透させる。己の既得権益を守るため、既得権をずっと持ち続けるために。戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」的な価値観を今も人々に植え付けようとする。そして、この手のアナクロリズムなイデオロギーを好む者たちは「個人主義」を目の敵にする。

 

「石の上にも三年」的なことを言いたがる者たちをよく見てみるとよい。

組織に安住した者たち、変化を嫌う者たち、自分の価値観を押し付けたがる者たち、他者の成功を妬む者たち、というような顔ぶれである。自分は我慢をしているのに、我慢を嫌い一歩を踏み出そうとする人たちが許せない狭量な者たちなのである。あくまで僕の偏った個人的な意見ではあるけれども。

 

僕は我慢なんか一切するな、と言いたいわけではない。

自分の幸福を追求し、その実現のための一定限度の我慢はしなくてはならないと思っている。

我慢さえすれば、後は何とかなるという態度は思考停止である。

強い言い方になってしまうけれども、僕は我慢さえすればという態度を取る人たちは人生を舐めていると思う。様々な出来事に遭遇して、我慢してやり過ごそうという態度からは何も生まれない。

「石の上にも三年」が死語になればいい、とさえ僕は思っている。

 

 

「不届き者」という言葉に僕は憧れとシンパシーを感じているという件

僕は今のこの世の中の様々な物事に怒りを感じたり違和感を覚えることが多い。だからこのブログを書き続けている。

僕が常に心がけているのは安易に多数派に与しないことである。常識や良識を妄信しないことである。この姿勢をとり続けていくと、必然的に「反体制」的、「反権力」的な主張をしがちになる。

だからと言って僕は左翼ではないし、革新派的なイデオロギーを信じているわけではない。そもそも僕は特定のイデオロギーを信じていない。

 

僕は現行の政治体制、資本主義体制を疑うこともなく受け入れることが嫌なのである。民主政や資本主義というものの本質をとらえ、それらが持つ暴力性や危険性を常に感じていたいのである。

僕が貧困問題に並々ならぬ興味を持ち、行き過ぎた格差の是正を唱えるのは、それらが資本主義の有する本質的問題であり、必然であるからだ。

ポピュリズムや衆愚制は民主政の持つ本性であり、それがさらに行き過ぎるとファシズムにつながっていく。

僕が現体制の維持・擁護に必死となっている御用学者や識者、コメンテーターたちに強い不信感を抱いているのは、僕が持っている性質、「天邪鬼」「マイノリティ好き」等によるものであって、繰り返すがイデオロギーによるものではない。

 

このような僕を表する言葉で最も適当なものは「不届き者」である。

僕はずっと「不届き者」であり続けたいのである。そのメンタリティを大切にしたいと強く思っているのである。

この不届き者という言葉はもはや死語に近い。時代劇に時々出てくる程度のものである。「お上のご政道に楯突く不逞奴だ~、この不届き者め!」の不届き者である。

僕は現体制を無条件に擁護し受け入れるメンタリティが理解できない。現政権がなす諸政策を批判すると、まつろわぬ者として排除する空気が気に食わない。少しでも政権批判をすると、すぐにサヨクだとレッテル貼りをして言論弾圧に精を出すネット民の狭量さ、見識のなさに辟易する。

自分の頭で物事を考えず、批判精神をなくしてしまったら、人は奴隷以下の存在となり、人が人でなくなる、と僕はそう確信している。

  

僕は不届き者がもっともっと増殖して欲しいと願っている。

世の中を少しでもより良い方向に変えるためには、現状維持をよしとしていてはダメなのである。少々はねっかえりでも、ラジカルでもいい。国家のすることが絶対に正しいなんて露ほどにも思っていない反骨心を持って対峙する。

不届き者たちが世の中を変えていくのである。このことは歴史が証明している。社会を変革してきたのは、その当時に不届き者とみなされていた人たちの力なのである。

 

僕は社会を変革しようなどという大それた考えは持っていない。

けれども、より良い社会にちょっとずつ変えていくために、僕の微々たる力を使いたいとは常に思っている。無名の一市井の人として。

そのためにも、僕はずっと「不届き者」であり続けたい。

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します