希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

減点主義は人を委縮させ、新しいものを生み出すことを阻害する、という件

学校教育においても、はたまたサラリーマンの世界においても減点主義的な評価方法で選別している。

特にそれが顕著なのが公務員の世界である。

なぜ「お役所仕事」がこれほど批判されても改まらないのかというと、その主な原因は減点主義の人事考課を徹底しているからである。

 

学校教育の領域では昨今は人間力をつけるとか創造性を発揮させるとかのスローガンを打ち出しているが、根本にある減点主義的な選別がある限り何も変わらない。

教育改革なるものはいつもあるべき学生像なるものを上から押し付けて、そこから逸脱する者を選別し排除しているに過ぎない。個性の尊重とは言うけれども、その個性とは国家や企業にとって都合の良い個性であって、本来それぞれの人が持っている可能性をそれぞれの形で発揮させるというものではない。単に学生たちを減点主義によって均質化するものに過ぎないのである。

 

会社や役所等の組織でも減点主義が幅を利かせているように思う。

会社や役所で高い地位に就けるのは減点主義的な評価・選別を経た無難な人たちが多い。既存のシステムを変革させようとしたり創造的な仕事を志向する人たちが高評価を得ているかといえば疑問視せざるを得ない。

出世することだけが職業生活の目的ではないけれども、サラリーマンにとっては大きな関心事であることは確かである。

 

人に対する評価方法が減点主義に偏ると、人は委縮し、組織も活性化されない。何よりも組織内の人たちの思考様式が組織の論理につられて減点主義的になることが怖い。新しいことに手を出さななくなる、人と違うことを恐れる、となると組織は画一化され硬直化し、組織内の人たちの考え方も柔軟性を欠くようになる。社畜や会社人間と揶揄される人たちを生む土壌となる。

 

月並みな意見になってしまうけれども、組織を活性化させ、個人の潜在能力を発揮させるためには加点主義的な評価方法を採り入れるしかない。

減点主義的な評価方法自体が絶対的に悪いわけではない。減点主義に偏るのがいけないのである。組織の実情にマッチするように減点主義と加点主義をうまい具合にミックスさせて、個人にとっても組織にとっても良きようになるような評価方法を工夫して作り上げる。

言うは易し行うは難しではあるがやってできないことはない。

 

そもそも、完璧な人なんてこの世にはいないのである。

誰もが減点される個所を必ず持っている。減点されない人なんていないのだ。「これをやったら減点される」「失敗したら減点される」という意識を持っていたら、やりたいことの半分もできない。

組織を存続させることのみを目的とするならば減点主義に偏ってもいい。尤もそんな組織にずっといたいとは思わないけれども。

人がずっといたいと思う組織・共同体はある程度の失敗を許容する「ゆるさ」があるところである。

「昔は良かった」なんてことはないという件

若い人たちと話しているとついつい「僕らが若い頃は~」と言ってしまうことがある。僕としては「今どきの若者はなっとらん」とか「僕らが若い頃は良かった」なんて言いたいわけではない。この手の物言いは僕が最も嫌うものである。けれども、つい「昔は~だった」と口をついて出てしまう。これは明らかに「老化現象」である。ちょっとだけ悲しい。

 

昔のことを懐かしがるのはやむ得ないことである、と僕は思う。

歳を喰ってしまった今となっては若い頃のみずみずしい感性で世の中と向き合っていた頃の自分が愛おしいのである。今よりも未熟で未成熟だった自分が可愛いのである。

世の中がいくら進歩しても(あるいは進歩していると思い込んでも)、世の中には数えきれないほどの矛盾や歪みが現に存在している。この矛盾や歪みを失くすことは自分の力によってはできないし、ある程度はそれらを受け入れて生きていくしかないと諦念するしかない。

 

世のオッサンたちの多くは現状に耐えきれずにノスタルジーの世界に思いを寄せることによって精神のバランスを取ろうとする。

その典型的なものが「昔は良かった」と過去を美化することである。

僕は今を自分なりに懸命に生きて、その結果として少しでも明るい未来に期待するという生き方をしたいと強く思っている。過去に縛られていては何も生まれないし何も変わらない。

かと言って、ノスタルジーに浸り、「後ろ向き」な思考様式を完全に否定することはできない。

 

昔は良かったと懐かしがり、今の生活の不満のはけ口にしたい人たちの気持ちも分かるけれども、「昔は良かった」と思考停止する態度はいただけない。

だいたい「昔は良かった」はずはないのである。

生活の豊かさ、便利さを取ってみても明らかに今の方が上回っている。倫理観や道徳観が劣化しているという人が多いが、それはあくまでも印象論でそれを裏付けるエビデンスはない。単に過去を美化しているだけ、という見方もできる。凶悪犯罪や少年犯罪も明らかに昔の方が多いという客観的なデータもある。

そもそも「昔は良かった」の「昔」はいつの頃を指すのか定かでない。人によっては高度経済成長期のことを指すし(この時期を懐かしがる人が多い)、戦前の大正・昭和の時代を指し、極端な場合には明治時代とか江戸時代が良かったと言い出す人もいる。

 

おそらく、昔の人たちももっと昔の時代を懐かしがったりしていたと思われる。

人はいつの時代も現状に不満を持ち、過ぎ去った日々を過剰に美化し懐かしがり、憂さ晴らしをしていたのである。

 

僕はみだりに昔の話を持ち出して、過去を美化し、それによって自分を正当化する態度を厳に慎みたいと思っている。

それは僕の美意識であり、何よりオッサンと思われたくないという悪足掻きである。

懐古趣味はほどほどにしておいた方がいい。

時にはぶらぶらとすることが大切であり、怠惰であることも必要であるという件

ごく一部の人たちを除いて、人は生活を営むために働かなければならない。会社に雇われるにしても自営・フリーランスという形にしても。

働いている状態が当たり前であるという世間の常識によって、仕事を失えばそれが即あってはならない状態とみなされることになる。

 

僕は一生のうちで働かずに一見「無為」の時を過ごすことも有意義だと以前のエントリーで書いたことがある。

無為の時とは何もせずにぶらぶらしていることを指すのではない。読書に勤しんだり、街をぶらぶらしたり、旅に出たり、映画を観たりして時間を過ごすことも無為の時である。これらを働きつつ「趣味」として行うのであれば誰も非難はしない。しかし、平日の昼日中から働きもせずに読書や映画鑑賞や街ブラをしていると「うつつを抜かしている」と詰られることになる。生産活動に従事していないと「怠惰」だと見られるのである。

 

近代社会の成立以前、資本主義体制が確立される以前に「無為」の時を過ごすことは一部の階級に属する人たちの特権であった。例えば貴族と呼ばれる人たちが労働をせずに生産活動に属さない行為(狩猟やスポーツ、教養のための読書等)をすることである。この当時は無為の時を過ごすことは怠惰だとみなされなかっのだ。無為の時を過ごすことにも意味があると考えられていたのである。

 

資本主義体制が確立し、市民社会に移行すると労働は尊いというイデオロギーが成立し、無為の時を過ごすこと=怠惰だとみなされるようになった。そして怠惰は「悪」だという価値観が蔓延るようになったのである。

 

エスタブリッシュメントは人々が怠惰になること、無為の時を過ごすことに価値を見出すようになることを極度に嫌う。

生産活動の効率が落ちて経済成長が停滞することを避けたいがために、労働に人生の大半を費やすような生き方が正しいというプロパガンダを撒き散らす。そして何よりも人々が無為の時を過ごすことによって自分たちの頭で物事を考えるようになると現行の社会システムに対する懐疑が生じ、社会変革を志向する人たちを生み出す可能性が出てくる。エスタブリッシュメントが持つ既得権を脅かすことになりかねない。

エスブリッシュメントにとっては無為の時を過ごすことは怠惰であり、怠惰は「悪」でなければならないのだ。

 

世間では怠惰は悪となっている。エスタブリッシュメントが思い描いた通りに。「怠け者」というレッテルを貼られると人としての価値が毀損されることになる。僕たちは勤勉な人間を演じ続けないと社会生活がまともに送れない。無為の時を過ごすことが大切である、あるいは怠惰は悪ではないと声高に主張すれば即座に無能のレッテルを貼られてしまう。この社会に不要な人間だとみなされ、社会から排除される。

何とも生きづらい世の中になってしまっている。

 

僕は何も無為の時を過ごす「特権」を復活しろと言いたいわけではない。また、怠惰を賞賛したいわけでもない。

一生を通して馬車馬のように働き続けることを殊更に持ち上げる「労働は尊い」「勤勉至上主義」的なイデオロギーに少し抗いたいだけなのだ。

 

僕はこれからもずっと無為の時を過ごすことを大切にしていきたい。

人に後指を指されない程度に怠惰でいたい。

なすべきことをなす時が訪れたら、無為の時を過ごしたことによって蓄えた力を一気に放出するために。 

僕はヒマ人だけれども退屈ではないという件〈再掲〉

僕は常にヒマ人であり、またそうあろうとしている。

忙しければ余計なことは考えない。しかし、僕はヒマ人であることで「余計なこと」を考え続けようと思っている。

 

初出 2016/11/1

 

僕がヒマ人的生き方をするようになってから随分と経つ。

自分がヒマ人だなんて全く自慢できることではないのだけれども、あくせく働いていた頃よりもずっとストレスが減ったのは何より嬉しい。

同じビンボーなら「貧乏暇なし」よりも「ビンボーヒマだらけ」の方がずっといい。理想としては「ビンボーちょっと小金あり」状態なんだけどこれ以上の贅沢は望まないようにしよう。

 

僕がこのブログで、あるいは会う人たちにヒマ人だと言うと(ついでにビンボーだとも言っているがこちらはスルーされる)中には「退屈ではないか」と問われることがある。

そういう人たちのご期待に沿えず、僕は全く退屈はしていない。

生活費を稼ぐためにやむを得ずちょっとだけ働く時間以外の自由になる時間は世のサラリーマンよりは豊富にある。本を読んだり、ネットを徘徊したり、散歩したり、喫茶店に行ったり、古本屋に行ったり、ラジオを聴いたり・・・とやることは沢山ある。あっ、それとこのブログを書いたり、ブログのネタを考えたりすることも大切な時間である。

そうこうしているうちにあっという間に1日は終わる。退屈どころか時間が足りないくらいだ。

僕の時間の過ごし方はほとんど経済成長に寄与していない。生産的ではないし、一見成長だとか自己啓発には無縁な過ごし方である。読書にしても、人生や仕事に役立つからだとかいう考えはなくて、ただ自分の興味の趣くままのものである。僕は全くのダメ人間だけれども、知的好奇心は人一倍強くて、それが満たされるだけで楽しくて面白いのである。

 

僕は予定がぎっしり埋まっていないと不安だという人たちの気持ちがずっと理解できないでいる。以前僕が人並みに仕事をしていたときにも、周囲にはスケジュール帳を真っ黒にしなければと強迫観念に囚われていた人がいたけれども、その人たちは何かに追われているかの如く日々を過ごしていた。僕はその頃からスケジュールが埋まることが嫌でたまらなかった。手帳に予定が書き加えられるたびにため息がこぼれていた。予定が埋まるということは売り上げにつながることだけれども、素直に喜べなかったのだ。こんな奴がフリーランスで成功するわけがない。サラリーマンとしても出世するわけがない。時々、僕は資本主義体制の下では生きていけない人間なんじゃないかと思ったりしている。

 

僕は何のかんの言っても今のヒマ人生活を続けていきたいと思っている。ヒマ人であるということは自分なりに「自由」を手なずけていることだと考えるからだ。

もし、今の生活で「退屈」さを感じることになったときには、また生き方のモデルチェンジをしなければならない。思い返してみると、僕が退屈さを感じたのはたくさん働いていた頃で自由な時間が意に反して奪われていたときだった。

ヒマ人的生き方を続けているかぎり、僕は退屈だと感じることはない。

ダメ人間、ビンボーヒマ人としての誇りである。

 

  

僕は「はみ出し者」として生きていきたいという件

僕は勤労意欲が低くてとても会社に雇われて正社員として働き続けることができない。これまで何度も正社員として働くことを試みたけれどもどこも長続きはしなかった。

世間で言うところの真っ当な生き方ができないダメ人間なのである。

以前は自分がダメ人間である、ということが受け入れられなくて無駄な足掻きを繰り返していた。

 

世の中の大多数を占める雇われ人という生き方ができないのならば、フリーランスという生き方をするしかないと考え、僕は社労士の資格をベースとしてコンサルタントもどきの仕事を10年余り続けた。

フリーランスという生き方・働き方は僕の性分に合っていたように思う。不安定さも慣れてしまえばどうってことはない。先が見えないということは考えようによっては光り輝く未来が待ち受けているととらえることができる。

 

僕がフリーランスで働いているときに時々自分は世間の「はみ出し者」だと感じたことがあった。僕の思い違い、被害妄想の類かもしれないけれども。今でもこの「はみ出し者」感を抱くことがある。

どっぷりと所属する組織がなくて社会的地位や肩書がない状態、むき出しの個人として世の中と向き合っていると足場がなくてフワフワとしているな、感じるときがある。

 

この「はみ出し者」感はネガティブなことばかりではない。

世間のしがらみから完全には逃れることはできないが、かなりの程度緩和されている。ある程度は自由な生き方ができている。この「自由」には自己責任が伴うが、受け入れ可能なものであって、悲壮感とは程遠い。

要は自分の食い扶持分は何とか稼ぎ出して、後は野となれ山となれ、といった感じのものである。世捨て人にはならなくても、世間とは一定の距離を取った生き方である。

 

僕は世のサラリーマンをはじめとする「真っ当な生き方」をしている人たちは何と忍耐強いのか、と感心するばかりである。不平や不満は沢山あるのだろうけれども、それらを手なずけて確実に日々の生活を営んでいることに尊敬の念を覚える。

それらの市井の人たちを批判することは容易いし、僕も時たま批判めいたことをしている(サラリーマン根性に毒された人たちに対する批判等)が、決して貶めようと意図しているわけではない。

やはり、人は真っ当に生きた方が良いに決まっている。

 

僕は人より抜きんでたものを持っているわけではない。それなのに真っ当に生きることができない。真っ当に生きようとすると、僕の心と体がそれを拒もうとする。

好むと好まざるとに関わらず、僕はやはり「はみ出し者」として生きざるを得ない。

世間のどこか片隅に自分の居場所を見つけるしかないのだ。

少しばかりの反骨心を持ち、「寄らば大樹の陰」的な生き方を拒みながらも。

 

 

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