希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

人を見かけだけで判断するな、というのは果たして正しいのかという件

僕たちは無意識の裡に人を見かけで判断している。

第一印象が後々まで尾を引くという話もある。

ぱっと人を見てその人が信頼に足るのか判断するというのは元々人に備わった本能なのかもしれない。

 

「見かけ」というのはその人のルックスやスタイルの良しあし、美醜だけを指すのではない。身なりや物腰などの方が重要な判断基準となることが多い。相手が清潔感のある服装をしていれば何となく安心するし、柔らかい物腰の人であれば何となくこの人はいい人だなと判断する。正確なエビデンスがあるわけではないが、そのように人を見極めるのである。

ある人に対する見かけによる判断は後々付き合っていくとそれが合っていることもあれば誤っていることもある。つまり、人を見かけで判断することは正しいとも言えるし、見かけだけで判断することは正しくないとも言える。

まあ、当たり前の話ではある。そう単純にある人の人となりは他者には分かるはずはないからである。

 

しばしば見受けられる言説として人をその装飾品や持ち物で判断しろ、といった類のものがある。自己啓発系の著書に多い。

「男は腕時計と靴を見て見極めろ」とかつては言われていた(今もそうかもしれない)。僕はこの手の言いぐさが大嫌いである(とは言いながら足元には気を付けていたけれども)。どんなに品性下劣な輩でも、カネを出しさえすれば見栄えの良い腕時計や靴を身に付けることができる。一方でたまたま今はカネがなくて見栄えの良い靴を買えない人もいるし、元々が身なりに無頓着な人もいる。深く付き合わなければその人の品性は分からない。相手の身に付けているモノによってその人を判断できるという考え方は底が浅い人間観を露呈している、と僕は思う。

 

詐欺師は一見立派な自宅や事務所を構え、高価そうな服装をして相手を騙すという。スーツを着て泥棒に入る窃盗犯もいる。

これらはいかに人が見かけに騙されるかを物語っている。

 

人を見かけで判断するということは、その見かけによって偏見を持つことである。

偏見を持つことは良くない、これは正論である。

しかしながら、人は誰でも偏見の塊である。

公明正大に偏見なしに生きていくことはとても難しい。

僕たちは常に偏見を持っていることを自覚しつつ、その偏見を払拭するような努力を忘れないようにする、という態度で事に当たるしかない。

となると、人を見かけだけで判断してはいけないぞと思いつつ、ある程度は見かけで判断してその後の関わり合い方を決定するという態度を取り続けることがベターな方法であるといえる。

 

僕としては、見かけだけでダメな奴と見られるのは面白くない。

相手を見かけだけで判断してその後の関わり合い方に悪い影響が出るのも避けたいところだ。

でも、見かけの第一印象が良い意味で外れた時の楽しさ、嬉しさは何事にも代え難い。

僕も良い意味でのそのような見かけ・第一印象から「外れる」人となることができれば、こんなに面白いことはない。

 

 

 

 

 

格差のない、平等な社会はユートピアなのかという件

僕はこのブログで貧困問題は是が非でも解決しなければならないと主張している。人として生まれたからには何人も人間らしい生活を営むという権利を享受すべきだという考えがあるからだ。 

しかしながら、僕は格差が生まれることを否定しない。人はすべて平等であるべきだとも思っていない。

確かに行き過ぎた格差はある程度は是正する必要があると思う。例えば1%の富裕層が99%の富を独占するなんてことはあってはならない。「常識」や「良識」に照らし合わせて異常なことだからである。でも、例えば10%の上位層が50%の富を占めているような状況は是認できる。競争を否定することは社会の活力を削ぐおそれがある。

 

この「競争」は機会の平等が担保されていなければならない。絶対の必要条件である。世襲で富や権力が受け継がれるような社会はゴメンだ。誰もがチャンスのある社会が理想である。生まれや家柄で人生が決まるなんてことは不条理である。

 

僕は「謂れのない」差別には断固として反対する。国籍や人種や性別、特定の地域に生まれたことによる差別は廃絶しなければならない。

しかし、僕は平等主義者ではない。

評論家の呉智英さんが「差別のある明るい社会」が正しいと論破していたが、僕もこの考えに概ね同意する。

人は皆平等である。これは理念としては正しい。

けれども現実は人は平等なんかではない。この社会は不平等の塊である。人は不平等であるという事実を受け入れて生きていかなければならない。

例えば学歴による差別や職業による差別は現に存在する。僕はこれらの差別は相対的なものに過ぎないと考える。時代や社会情勢が変われば差別の実相も変わってくる。学歴差別は確かにあるが、この社会では抜け道的なものが沢山ある。学歴が無くても良い生活を送る術がまだまだある。学歴が関係しない職域が沢山ある。

職業の貴賎も時代によって変わっている。医者や弁護士、会計士等は昔はステータスのある仕事ではなかった。現状は忌避されている仕事が将来にはステータスのある仕事に変わることは十分にありうることである。

 

格差や不平等が固定化されることが問題なのである。ある特定の階層が利権を享受し続け世襲化されることがダメなのである。ある特定の階層が不利益を被り続けることが不条理なのである。

特権層や既得権益を享受できる層が己の都合の良いように社会システムを構築し、不利益を受ける層が抵抗できない社会になることは是非とも避けなければならない。

持たざる者たちは抵抗するための力を常に蓄えておかなければならない。

 

格差や不平等が一概に「悪」だとは言い切れない。

この不条理を活動の源として、社会を発展させてきた面もある。

この不条理を克服するために、人は闘争し、様々な権利を獲得してきた歴史がある。

遠い未来に平等で格差の無い社会が実現されるかもしれない。今はその過渡期という考え方もできる。

あるいは人は他者を差別せずにはいられないという本性を持っているのかもしれない。格差の無い社会、平等な社会とは所詮絵空事なのかもしれない。

人は格差の無い社会、平等な社会を志向するのか、競争社会を是認し不平等な社会、格差社会を志向するのか僕には分からない。

 

今は、格差や不平等を受け入れつつも、貧困を克服することが現実的な向き合い方だと僕は思っている。

 

 

  

職業に貴賤はある。だが絶対的なものではない件〈再掲〉

社会的威信の高い仕事は時代によって変わる。

今は「いい仕事」とされているものでも昔は賤しいとみなされていた仕事は幾らでもある。

職業に貴賤あり・なしとする議論は意味がないのかもしれない。

 

初出 2016/10/27

 

職業に貴賎は無い、という物言いは建前であり、偽善的なものの最たるものである。

あえていう必要もないが、職業には貴賤がある。今も昔も。

現在の社会において「貴」と見られる職業は報酬が高く、社会的威信の高い仕事である。例えば、高級官僚、医者、弁護士、有名企業の正社員、銀行員、大学教授等が上がってくる。

「賎」については、報酬が低くて、人の嫌がるような仕事が多い。社会的威信も低い。サラ金では貸さない職種があるそうだが、それとこの「賎」の仕事は重なると推測される。

 

理想を言えば、職業に貴賤なんかない方が良いに決まっている。人それぞれの希望や適性に応じた仕事を選んで、社会的威信や収入に差が無い社会が理想郷である。

しかし、現実はそうとはいかない。キューバでは労働者であれば職種に関係なく報酬がある程度一定らしいが、それはそれで問題が山積していると聞く。

 

ある仕事に従事しようとするときに、学習の期間(学歴)、資格制度の有無やその難易度によって仕事間格差、職種間格差が生じる。このことは機会の平等が担保されていれば、合理的な差別だと考えられているし、僕もそう思っている。

しかし、インドのカースト制、近世の日本の身分制の際に見られた一部の職業への賎視は別物である。不浄や穢れといった観念に基づく職業の貴賤観は現代に生きる僕たちが必ず克服しなければならない大きな課題である。

 

一方で職業の貴賤は絶対的なものではない。時代とともに変化する相対的なものである。

以前のエントリーで医者や芸能が近世以前には賎視された仕事だと書いたことがある。これはこの国だけではなくヨーロッパ諸国でも同様に見られたことである。

 

例えば、銀行員である。金融危機以降に若干社会的威信は低下したとはいえ未だに報酬も社会的地位も高い職業である。

この国では中世、室町時代の頃まではカネを扱う仕事は賎視されていた。賎視は言い過ぎだとしても、決して社会的な地位は高くなかった。モノを作らずに、カネからカネを生むような仕事は世間から忌避されていたのだ。これは中世ヨーロッパでも同様である。だから賎視されていたユダヤ人が金融業に進出せざるを得なかった事実がある。

資本主義の勃興により金融の役割が重要となり、金融に関わる仕事の賎視が消滅したのである。

 

中世のヨーロッパで金貸し以外に賎視されていた仕事に、刑吏、税金の徴収人、理髪師、外科医、煙突掃除人、風呂屋、歯科医等がある(もっと沢山あったが忘れてしまった)。現在と比べてどうだろうか。時代が変われば賎視される職業・仕事が変化する。要するに仕事に関する貴賤観なんていい加減なものなのである。

 

現実には世間ではその人の就いている職業によって見下したり馬鹿にする人が多くいる。

その行為を非難するだけでは何も解決しない。時には非難する行為が偽善的になりさえする。

職業差別するような人は放っておくしかない。

案外、そのような人は抑圧され、自分の思うように生きられない悲しい人なのかもしれない。

  

体育会系マネジメントなんてもういいかげん辞めたら、という件

僕はスポーツ観戦が大好きである。野球、ラグビー、アメフト、駅伝等々そのシーズンが到来するのを楽しみにしている。

しかし、体育会系的なノリは苦手である、というか嫌悪感を覚えるときがある。

 

この国の会社組織では体育会的なエートスを持ったところが多い。

経営者や上司の命令に完全に服従する、協調性を殊更に重んじる、やたらと先輩後輩の関係性にうるさいなどなどである。それと根性論や精神論が蔓延し、数多の不条理が存在する。

組織のマネジメントの方法として体育会系的エートスを注入すること自体はありだとは思う。この手のマネジメントが時として組織を発展させることが往々にしてある。また、体育会的なノリを好む人たちが多数存在することも事実である。

 

僕がスポーツそのものが好きなのにもかかわらず、学生時代に運動部や体育会に所属しなかったのは(短期間所属したことはあるが)根本的に体育会的なノリが嫌いだったからである。

 

長じて、会社に雇われて働くことがたまらなく嫌になったのはこの体育会的ノリを嫌悪するメンタリティを持っていたことが関係していると思う。

なぜちょっとだけ先に生まれた奴を先輩として敬わなければならないのか。ただの会社の役職に過ぎないだけなのに、上司にプライベートまで干渉されなければならないのか。先輩や上司ということだけで自分より特段優れているとは思えない奴らに従うことがたまらなく嫌だったのである。

それと仕事を遂行するうえでの合理的な創意工夫がイマイチ評価されず、やれやる気を出せだの、遅くまで残って仕事をしろだのといった不毛な精神論が跋扈しているのも大嫌いだった。

 

体育会系のマネジメントには長所と短所がある。

経済成長期には体育会系マネジメントがかなり有効だっただろう。イケイケドンドンの時は強く統制された組織が強みを発揮する。目標が明確な時には個の尊重よりも、個を殺しても全体の利益に奉仕するメンタリティを持った人たちの集合体の方が結果を残せるのである。

しかし、今はそんな時代ではない。

個人を尊重し、ひとりひとりが柔軟な発想をし、創造性を発揮しなければ生き残れない時代となっている。

 

僕の個人的な意見なのだが、今後は少々「ゆるい」組織の方が発展し結果が出せるのではないかと思っている。体育会的なガチガチな組織は先細りになるのではないかと考えている。尤もこれは僕の趣味嗜好も入っているので、全くの独断なのだけれども。

 

団体スポーツにおいてもチームワークの前提として個の能力を高めることが当然にチーム力を高めることになるという風潮になっている。チームワークありきではなく、個々の力を発揮する土壌がなければそのチームはだめなのである。チームプレーはもちろん大事ではあるが、個人の創造性や能力を発揮できないと、そのチームは強くなれないのである。

 

年功制ややたらと多い中間管理職(オッサンの既得権)が、チームプレイという名のもとに個を抑圧することがデフォルトとなっている会社・組織に未来はない。

もう体育会的なマネジメントを辞めて、それをベースとしたシステムそのものをリストラした方がよい。

 

 

今は「ビンボー自慢」すると白眼視されたり変人扱いされるという件

僕は当然のことながら(なぜ当然なのか分からないが)ビンボー人である。僕はビンボーであることを悲観視していないし自分を卑下したりもしていない。

カネを稼げる人が偉い人でありカネを多く持っている人が立派な人だというカネ万能主義イデオロギーからすると僕は全くのダメ人間である。

まあダメ人間であることは否定できないところなのだけれども、何だかスッキリしないような心持ではある。

 

僕は今友人が経営する塾で講師をしている。

その塾で僕が担当する生徒(中学生)たちと話をしていて、僕がかつて公務員をしていて仕事が面白くなくて辞めたということに対してネガティブな反応があった。安定した仕事を辞めることが考えられないという。また、僕が楽しんで自由を満喫しているお気楽ビンボーライフなんかも考えられないという。彼らはちゃんとした会社に就職して結婚していい生活を送りたいのだそうだ。それらは親の価値観が反映しているのかもしれない。あるいは彼らなりに考えて周囲の人たちを見てみてそのような価値観を正しいと捉えているのかもしれない。

僕は生徒たちが「真っ当な」考え方をしていることに感心した。その安定志向的なものを批判する気にはならない。ただ、人それぞれに様々な生き方・価値観があること、絶対的に正しい生き方なんてないことを伝えることができれば、との思いを抱いた。

 

このエントリーのタイトルに「ビンボー自慢」と書いたけれども、僕は殊更にビンボー自慢はしたくはない。カネはあるに越したことはない。

「衣食足りて礼節を知る」という成句はある面の真実をついていると思う。

ただ、カネ万能主義的なイデオロギーには拒否感を抱いている。カネが万能という価値観の一元化にどうしても馴染めないのである。

この「価値観の一元化」には多大な危険が伴う。例えばカネが万能という価値観ではなく、国家や会社に命を捧げることが正しいという価値観に一元化されたら、と考えると背筋が凍る思いがする。

これはただのヨタ話ではない。

現実にありうることなのである。

 

話題を塾の生徒たちとのやりとりに戻そう。

彼らのうちの一人が「先生の人生、もう終わってるやん」と問題発言をかましたのである。僕は怒りもせず、そんなことはない、僕の人生はこれからだ、とやんわりと否定した。

若い彼らからすると世間で「真っ当」とされるレールから外れた生き方をするともう終わりだと感じられるのだ。また、僕のような生き方を選択している大人に出会っていないのである。当たり前と言えば当たり前の話である。

救いがあるのは、彼らが僕を侮ったりしていないことが感じられたことである(ちょっとナメられてはいるけれども)。僕のようなちょっと変わった生き方をしていて、世間の真っ当な大人たちと異なった価値観を有する者に興味を抱いてあれこれとツッコミを入れることに楽しさを感じているのである。

僕が彼らに与えることができるもの、それはこんな僕みたいな奴でも何とか生き延びることができるということを身をもって示すことである。人生色々あって、それでも何とかなるという事実を知ってくれれば、それで十分である。

 

僕は自分のビンボーお気楽生活を満喫していることを控えめに表明しているが、もう少しだけ声高々に「ビンボー自慢」ができるようになればいいのになあ、と思っている。

ビンボー人が全く自分を卑下せずに「ビンボー自慢」が抵抗なくできるような世の中の方が「健全」で「真っ当」なような気がする。

 

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